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死に至る病 の商品レビュー

3.5

70件のお客様レビュー

  1. 5つ

    14

  2. 4つ

    16

  3. 3つ

    21

  4. 2つ

    6

  5. 1つ

    3

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2019/04/03

あまり明るい気分になれる内容ではないですが、気分が塞ぎ込んでいるときに読むと、状況を客観視できるのでモヤモヤしたものが整理され、少し楽になれるかもしれない。昼間ではなく、夜にじっくりと読める本だと思います。

Posted byブクログ

2018/12/02

死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。 最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわか...

死に至る病とは何か、1ページ目をめくった瞬間に答えが出た、と思ったのにそこからが遠かった。 最初が論文口調でいて自分の意見を世の中全てに当てはまるように話しているだけなのか、「自己自身とは自身の自己に関する関係である」云々のようにトートロジーっぽくて抽象的で何を言っているのかわからない。結論から言うと、最初の数ページは飛ばして読むでも大丈夫だった。そして絶望の類型のあたりから意味がわかってくる。 絶望の先にある唯一の救済はキリスト教の信仰にある、という点で相容れないものはあるけれど。貴賎や行動でなく、自分に対する自分自身の認識、意識によって絶望のランク分けがされるという(解説によると実存主義の始まりだという)考え方、現在の自分に対する現実逃避や思考停止こそがもっとも絶望的で、罪なのだという考え方には我が身を思わず振り返りました。キルケゴールの理想は、青年期にあるのかしら。感受性豊かで想像力を持ち、常に意識を高くもっていたいものです。

Posted byブクログ

2018/05/18

正直な話、もう一人翻訳者を挟みたいくらい何言ってるのかよくわからない所が多かった。 絶望していると思っているが筆者のいう絶望に全く当てはまらないどころか絶望状態に酔ってるだけの人に対する皮肉っぷりはぶっ飛ばしててすがすがしくもある。 要は敬虔なクリスチャンが、真に神を信じていない...

正直な話、もう一人翻訳者を挟みたいくらい何言ってるのかよくわからない所が多かった。 絶望していると思っているが筆者のいう絶望に全く当てはまらないどころか絶望状態に酔ってるだけの人に対する皮肉っぷりはぶっ飛ばしててすがすがしくもある。 要は敬虔なクリスチャンが、真に神を信じていないようなファッションクリスチャン❨牧師も含む❩に対して思ってる諸々鬱憤なんかを書いているという気もしないでもない。というのが個人的な感想。

Posted byブクログ

2018/04/17

キルケゴールが何故評価されたのか分からない。哲学とは突き詰めれば、既に気付きを得た人にとっては、その真理を回りくどく、その哲学者の生きた時代と宗教的価値観で説明を試みる部分があるから、難解なクセに、歴史的意義以外の収穫が全く無いなんて事も有りうる。まして150年も前の概念である。...

キルケゴールが何故評価されたのか分からない。哲学とは突き詰めれば、既に気付きを得た人にとっては、その真理を回りくどく、その哲学者の生きた時代と宗教的価値観で説明を試みる部分があるから、難解なクセに、歴史的意義以外の収穫が全く無いなんて事も有りうる。まして150年も前の概念である。クセのある哲学者と対面して話を聞くという行為は、現代人同士でも難しいし、ましてタイムスリップしてその時代の外国の哲学者の発言など、簡単なわけはない。だからこそ、大学の文学部やらで研究に用いるには良いが、読書としてはオススメしない。読書が嫌いになる危険性もあるだろう。キルケゴールの哲学を体系的に理解したいなら、インターネットなどで解説がある。衒学的な目的か学問的意図がないならば、インターネットで充分である。 私はこの事を再確認するために、苦い薬でも飲み込むように、頭に文章を一思いに通過させたのである。

Posted byブクログ

2018/03/04

読み終えましたが、内容は全く理解できていません(涙)本書に関するWikipediaや解説サイトの方がはるかにわかりやすく、お財布にも優しいかと。

Posted byブクログ

2017/12/18

引用のされ方によるかもしれないけど、その姿勢や感覚は好印象。読み通すのは大変だけど読み通してよかったと思える。前提に対する共感がある程度必要かなと思う。そうでない人には響かないかもしれない。しかし、やはり名のある哲学者だけあり感じたことは有意義だった。

Posted byブクログ

2017/09/07

現代人にも通じるものがあるし、自分自身に通じるものがあって面白かった。(第一章までは辛うじて理解できた) 筆者は人より頭が良かった分きっと生きづらかっただろうなと思う。

Posted byブクログ

2017/04/13
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 人間とは精神である。精神とは何であるか?精神とは自己である。自己とは何であるか?自己とは自己自身に関係するところの関係である、すなわち関係ということには関係が自己自身に関係するものなることが含まれている。(p.20)  絶望はまた別の意味で一層明確に死に至る病である。この病では人は断じて死ぬことはない(人が普通に死ぬと呼んでいる意味では)、ー換言すればこの病は肉体的な死をもっては終わらないのである。反対に、絶望の苦悩は死ぬことはできないというまさにその点に存するのである。絶望は死病にとりつかれている者に似ている、ーこの者はそこに横たわりつつ死にひんしているのではあるが、死ぬことができないのである。(p.28)  さて絶望して彼自身であろうと欲するところのかかる苦悩者のうちに、意識がより多く存在すればする程、それだけまた絶望の度も強くなってそれはついに悪魔的なる者にまで至る。悪魔的なる者の根源は普通次のようなものである。絶望して自己自身であろうと欲するところの自己は、いかにしても自分の具体的自己から除き去ることも切り離すこともできない何等かの苦悩のために呻吟する。(pp.118-119)  (解説)死に至る病というのは、それでは決して死ねない病、死ぬに死ねない病の謂いなのである。絶望とはちょうどそのようなものである。死んでないしは自殺して墓場に安住できるというようなのであれば、キェルケゴールに言わせれば、それは未だ絶望の極致とはいいえない。死ぬに死ねないこと、たえず死に面し死に至りながら死ぬこともできないということ、いな永遠に死を死ななければならないということ、これが絶望者のないしは最も不幸なるものの真実の姿なのである。最も不幸なるものの墓は空であろう、と彼はいっている。(p.234)

Posted byブクログ

2017/02/09

冒頭の「自己」の定義からしてよく飲み込めないまま、無理やり読了。内向的クリスチャンを自認する者としては、いつかこれをきちんと理解できるようになりたい。

Posted byブクログ

2016/04/09

絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。 絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するという...

絶望は自分が存在するというこの驚異的な当たり前を知ろうとしない、そのこともまた絶望。 絶望ということを知るからこそ、ひとははじめて死というものの存在に驚ける。死に至る病が絶望というのは、生きること死ぬことが、偏に、この絶望から起こるからだ。生に至る病と言ってもいい。存在するということを知ってしまう、当たり前に驚いてしまう、これが病的だと彼は言う。生きることに自覚的になるとき、それまでと同じように生きることなどできない。死ぬことさえできないと知ってしまうのだ。これを病気と言わずに何と言えばいいのか。 学問的で教化的、彼ははじめにそう言った。 絶望から罪へと至るプロセスとその状態の分析、そして罪から信仰へと向かっていく。絶望や罪を知るということ、そこからすべてが始まる。絶望や罪を知ればおのずと信仰が生まれる。 では絶望を知るとはどういうことか。絶望とは自分がどういうわけか存在してしまうというこの事実。理由などない。どういうわけか、あれではなく、これであるということ。そのことを考えていくと、どうしてあちら側でなくてこちら側なのか、と自分であろうとしたくない衝動が生まれたり、そんなこと考えても仕方ないと思考停止させようとしたりする。そんな風になってしまうのも絶望だ。 自分が存在してしまうということへの絶望は、自分ではない存在、彼曰く「神」の前であるからこそ、起こるのだ。ここで絶望から罪が措定される。自分が自分であるということは、どうにもならないのだと気づける。そうなると、では自分ではないこの存在とはいったいなんだ。絶望の止揚が起こる瞬間。 自分ではない存在を前にして、自分が存在していることに絶望すること、これがあるからこそ、自分ではない存在というものに気付ける。そして、それが分からないと知るからこそ、信じることができる。これは思弁ではなく、どういうわけかそうせずにはいられないという義務的なものだ。わからないけど、自分がいてしまう以上、信じないわけにはいかないのだ。 絶望し、罪の在り方を知れば、すなわち信仰するはずであるのに、どういうわけかできない。それは、神という存在自体が躓きを含むものであるからだ、と彼は考える。自分が自分であり、それが神によって裏付けられているがゆえに、ひとは、神なんて胡散臭いとか、今がよけりゃそれでいいとか、神は神だから自分とは関係ないなどと躓くのである。そして、この状態にとどまっていることこそが、罪なのだ。新しく罪を重ねることが罪なのではなく、罪が罪であるということ自分が存在しているということを知ろうとしない、この無知こそが罪なのだ。 ヘーゲルの弁証法を彼は別に打ち壊そうとしていない。むしろ彼は積極的に弁証法でもって考えている。ヘーゲルの哲学で彼が不満だったのは、信じるということをどうしてすべてのひとが成し遂げられないのかという点を知りたかったからなのだと思う。起こるべくことだけが起きている。ならば、どうして信じることができないひとがいてしまうのか。それゆえに、信じることをほんとうに成し遂げるひとは病的だというのだ。ヘーゲルの哲学は宗教ではない。どうも考えたらそうなっているとしか言えない、そういうものなのだ。信じないひともいる。それもまた起こるべくして起きているのだ。 キルケゴールが学問的で教化的というこの著作は、ある意味で彼の絶望であるとも言える。

Posted byブクログ