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教養主義の没落 の商品レビュー

3.6

55件のお客様レビュー

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2013/08/26

戦前は古本屋店主・岩波巌男が夏目漱石の心を出版したことから、教養主義の代表としての岩波文化が登場。講談社とのその後の歴史を分けた経緯。「小川三四郎」の1906年頃の学生文化。そして戦前の教養マルクス主義の全盛。戦後には左翼文化人として世論をリードした丸山眞男たち。石原慎太郎、大江...

戦前は古本屋店主・岩波巌男が夏目漱石の心を出版したことから、教養主義の代表としての岩波文化が登場。講談社とのその後の歴史を分けた経緯。「小川三四郎」の1906年頃の学生文化。そして戦前の教養マルクス主義の全盛。戦後には左翼文化人として世論をリードした丸山眞男たち。石原慎太郎、大江健三郎、そして高橋和巳の僅かの生まれた時期の差が、旧制高校文化の有無への影響。そして60年安保頃の関西大学生の読書・雑誌のレベルの高さ。それが、今では東大・京大生も漫画本に変わっていった歴史の変化。80年代の京大・経済がパラ経(パラダイス経済学部)と言われたことに見られるような学部別の父親の職業・社会階層の関連性分析。教養主義が衰退し、現在の大衆主義に以降していくその歴史の分析が非常に鋭く、ちょうど狭間の世代であった自分自身の過去とも結びつけながら楽しく読みました。全共闘学生がなぜ丸山眞男を攻撃し、吉本隆明を崇拝したのか、かれらの出自の分析から、その屈折した心情を抉り、確かに「サラリーマンとして平凡な人生を歩む予感からくる恨み」のようなものが、デモに参加する学生たちの心にあったことは事実だと思います。

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2013/07/03

半分くらいで萎える。なぜだ。 『高校生のための哲学入門』を本屋で見かけたときに思い出した。最近の大学生がいかに教養を軽視しているか、そして昔の大学生がいかにして教養主義に飲まれていったかなんて構造が浮き彫りに。なんとなく底に文系の就職率低き学生だってがんばってお勉強してるんだ!み...

半分くらいで萎える。なぜだ。 『高校生のための哲学入門』を本屋で見かけたときに思い出した。最近の大学生がいかに教養を軽視しているか、そして昔の大学生がいかにして教養主義に飲まれていったかなんて構造が浮き彫りに。なんとなく底に文系の就職率低き学生だってがんばってお勉強してるんだ!みたいな、意思のようなものがチラと見えた気がした。自分が就活生だから僻んで読んでしまうのかも。いかん

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2013/04/26

「教養主義」とは?大正時代から1970年代までにキャンパスの規範文化であった教養主義。 ここでいう教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心として人格を形成するために読書をすることをいう。 『善の研究』『三太郎の日記』『ウィルヘルム・マイスター』『ファウスト...

「教養主義」とは?大正時代から1970年代までにキャンパスの規範文化であった教養主義。 ここでいう教養主義とは、歴史、哲学、文学などの人文系の書籍の読書を中心として人格を形成するために読書をすることをいう。 『善の研究』『三太郎の日記』『ウィルヘルム・マイスター』『ファウスト』『ツァラトゥストラはかく語りき』『純粋理性批判』『実践理性批判』 自慢ではないが上記の本は1冊も読んだことがない。(『純粋理性批判』は積読状態)この本から教養主義時代の読書なるものを垣間見た気がする。高度な文学に触れると人間は無力化するという。 その文学や哲学によって人格を形成する世代。 高度経済成長期を支えたおじいちゃん世代。 かなり尊敬の念を抱く。 しかし、教養主義は1970年代からNOを突き付けられる。 特権的身分の喪失、技術学の到来、農村の消滅などで。 教養主義時代の学生は、毎日図書館に通いつめ、上記の本を読みあさったらしい。といっても、大学生で上記の本を読み漁るような強者は、全体の20%にも満たなかったらしいが、今の学生で教養主義時代のように本を読む割合は、2~3%だと言われている。 現在、プチ古典ブームだったり、教養主義復活の潮流がおこっているのか。 さて、教養主義が学生達を魅了した背景と衰退した理由が興味深い。 まず教養主義が盛んになった背景は、西欧文化の取得。明治天皇が華族(日本の皇族・財閥家系をはじめとする貴族)を集め、積極的に西欧化するように求めたことから、徹底的に西欧文化の吸収を目指した。 西欧文化の取得に学歴エリートが加わるが、日本人にとって西欧文化は伝統的身分文化ではないから、どのような階級からも遠い分かだった。どのような階級からも遠いところということは、障壁は階級間で平等だということであった。そのため、教養という名の西欧文化が加速度的に取り入れられていったのか。 西欧文化に触れた知識人。学校の教壇で、ドイツ語でかかれたドイツ文学の本を持ち、哲学の難解な解釈を述べる先生がいれば、田舎の学生は西欧文化に強烈な憧れをもつ。著者がいうように、教養主義が盛んになった理由として、親が農業従事者である地方出身学生が教養主義にはしった。 対象時代には、学生の教養主義をさらに加速させたのが、岩波書店という文化装置。 当時、帝大教授の中心的な仕事は、欧米学者の学説研究と欧米事情の紹介研究であった。翻訳中心の岩波書店が共振していた。夏目漱石や森鴎外などの本もあったが、中心は西欧文化の本が中心であった。 1960年代の大学紛争時代あたりから教養主義の衰退がみられる。 教養主義の大きな原因は大学進学率上昇による特権的身分の消滅である。 高等教育は該当年齢人口の15%までの進学率の段階がエリート段階で、15%を超えるとマス段階になるという説がある。 実際に、卒業後の進路はそれまでの幹部社員や知的専門職でなく、ただのサラリーマン予備軍になりはじめていた。 「大学紛争後の大学生はこう悟った。学歴エリート文化である特権的教養主義は知識人と大学教授の自己推薦や自己拡張にのせられるだけのこと、大衆的サラリーマンが未来であるわれわれが収益を見込んで投資する文化資本ではない、と」 「大学紛争は大衆的サラリーマン像を鑑に、教養知の特権的欺瞞性を喧噪のなかで白日の下に晒したが、実は、その前にサラリーマン社会は、テクノクラート型ビジネスマン像を鏡に、専門知(機能的な知識人)への転換による教養知(教養人)の無用化を静かに宣言したいた。」 教養主義は、大学紛争や技術学の到来によって解体されていった。 現代の大学生の人間形成の手段は? 従来の人文的教養ではなく、友人との交際を選ぶ傾向が強く、同時にかつての文学書と思想書をつうじての人文的教養概念が解体しているとする。確かにそう思う。10年前の学生時代に(理系学部であったが)、読書を通じての人格形成をする学生は見たことなく、大学に来る目的は同世代の人脈形成など、交際を通じての人格形成が大きかったように思う。 本書の最後に 「戦後の大衆教養主義は、こうした教養の人的媒体をいちじるしく希薄化させたのではなかろうか。教養の培われる場としての対面的人格関係は、これからの教養を考える上で大事にした視点である」 教育で大事な要素の一つを再認識した。

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2013/04/01

すっかり大学からはじき出されてしまった感のある教養教育なんだけど、最近その充実が再び叫ばれつつあるし議論されている(ようである)。でも、既に現場の構成員にはそもそも(大学の)教養(教育)ってなに?という根本的なコンセンサスが欠けている気がするし、自分でも良く分からない。ということ...

すっかり大学からはじき出されてしまった感のある教養教育なんだけど、最近その充実が再び叫ばれつつあるし議論されている(ようである)。でも、既に現場の構成員にはそもそも(大学の)教養(教育)ってなに?という根本的なコンセンサスが欠けている気がするし、自分でも良く分からない。ということで、本書を読んでみた。そして歴史的に日本で語られてきた「教養教育」とか「教養(主義)」っていうのがどういうこか一応分かった(気がする)。本書では教養教育がどうあるべきかが提案されている分けではなく、日本における教養教育の起源と没落にいたる変遷が歴史的に紐解かれていて、教養教育のことを考える上で土台となる知識を得ることができる。旧制高校を舞台として誕生した日本の教養主義が、明治末期・大正・昭和前期・戦後、マルクス主義とかアカデミズム、全共闘運動という時代背景とともにどのように変遷し衰退していったか。読書による人間形成より、生きるテクニックの修得に忙しい現代人に昔ながらの教養教育の再現は難しいだろうけど、現実への適応だけでなく、現実を超えていく思考・態度を身に付けることも大学教育としてはやはり必要かもしれない。

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2012/11/20

「教養」というものが興味があって、大学に入ってから哲学書などの小難しい本を買った経験のある人は自己の相対化のために読むべきでしょう。

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2012/10/22

著者が「戦後の大衆的教養主義」と呼ぶ1970年くらいまでの雑誌や文庫・新書などによる教養文化についての内容.教養高い書物を持つことはステータスであり,憧れでもあったのだ.

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2012/09/17

期待していたよりも内容が俯瞰的でなく、残念な部分もあるが、教養主義のたどった変遷については本書は新鮮で貴重な資料である。

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2012/08/22

書名からは、教養主義という考えの価値が下がったと受け取れる。また、副題からは学生(の文化?の行動?)が変わったと考えられる。両面から捉えられると思う。 この変化の基には、大学で学ぶ学生が増え、大学卒が当たり前となり、大学という教育機関の価値が低下したことを意味する。(この本が出来...

書名からは、教養主義という考えの価値が下がったと受け取れる。また、副題からは学生(の文化?の行動?)が変わったと考えられる。両面から捉えられると思う。 この変化の基には、大学で学ぶ学生が増え、大学卒が当たり前となり、大学という教育機関の価値が低下したことを意味する。(この本が出来たのは、2003年で、私が読んでいるのはその10年後2012年。)大学・教育・教養という視点から、さらに別な形で変化してきている。 教養を知識と見るならば、明治においては知ること=記憶していることのみを意味したが、現在での世界規模の膨大なる情報を覚えることは、不可能である。そのような面からも単純に静的な教養は役立たなくなってしまったのではないか? 大学紛争を境にして、変化したこと、以前はみな同じことが求められた。理想であった。正しいことであった。が、以後は階層、クラス分け、さらには個性が重視され、それが今後は異分野を取り込み、進んでいくだろう。 本書の内容から、ノルマリアン(エコール、ノルマンシュペリウール)=サルトル、や、岩波書店、こころ、夏目漱石の本の読書、華族文化やブルジョアジーなどは、教養主義を牽引したと言えそうだ。

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2012/03/28

旧制高校・大学にあった教養主義が、どのようにして形成されて、岩波書店などの書店の果たした役割などを通して、70年代にどのようにして崩壊していったかを丹念に追った本。 教養主義というとマルクス経済学やら岩波文庫などのイメージでとらえていたが、その没落も含めて全体像が理解できてよか...

旧制高校・大学にあった教養主義が、どのようにして形成されて、岩波書店などの書店の果たした役割などを通して、70年代にどのようにして崩壊していったかを丹念に追った本。 教養主義というとマルクス経済学やら岩波文庫などのイメージでとらえていたが、その没落も含めて全体像が理解できてよかった。 筆者は放送大学でかつて「学校システム論」の講義を行っており、学校システム論を理解するうえでも役に立った。

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2012/03/17

 本書は,大正時代の旧制高校以来,日本の大学にみられた教養主義とその没落を追究する。教養主義とは,哲学,歴史,文学など,人文学の読書を中心にした人格形成をめざす主義を意味する。この学生文化は,古典の読書に限らず,高い知性を誇った総合雑誌や単行本の購読を通じて培われてきた。教養主義...

 本書は,大正時代の旧制高校以来,日本の大学にみられた教養主義とその没落を追究する。教養主義とは,哲学,歴史,文学など,人文学の読書を中心にした人格形成をめざす主義を意味する。この学生文化は,古典の読書に限らず,高い知性を誇った総合雑誌や単行本の購読を通じて培われてきた。教養主義は,1950年の旧制高校廃止でも滅びることなく,アンチ軍国主義の象徴として,マルクス主義とともに60年代半ばまで生き延びる。対照的に,新制高校出身で都市ブルジョア文化に育った石原慎太郎は,教養主義の刻苦勉励的心性に対する生理的嫌悪を,当時の作品の中で示していた。  教養主義に軋みが出てきたのは,1960年代後半からである。筆者はその理由として,貧しく寂しい農村の消滅,日本の高等教育におけるエリート段階の終了とマス段階の開始,そして大卒のグレーカラー化の3点を挙げる。企業に経営幹部として期待されるわけでもなく,大量に採用されるサラリーマン予備軍にとって,教養は無用なものとなる。大学紛争世代による教養知識人への執拗な糾弾も,ただのサラリーマン予備軍への不安と憤怒に由来したのではないかと,懐古する。  筆者は,教養の機能として,人間の環境や日常生活への充足をはかる「適応」,効率や打算,妥協などの実用性を超える「超越」,自らの妥当性や正当性を疑う「自省」の3作用の必要性を説く。1970年代以降の教養機能では,「適応」の肥大,「超越」と「自省」の急速な衰退によって,3作用のバランスが失われてしまった。筆者は,旧制高校的教養主義の復活を時代錯誤として一蹴しながらも,いまこそ旧制高校的な教養主義を通じてその意味や機能を考えるチャンスだと述べる。大正時代の教養主義は,印刷媒体とともに,教師や友人などの人的媒体を介して培われてきた。戦後の大衆教養主義がそれを著しく希薄化させただけに,今後教養を培う場としての対面的人格関係の重要性を主張している。  これまで,齋藤孝『なぜ日本人は学ばなくなったのか』講談社,2008年と,小林哲夫『高校紛争 1969-1970』中央公論新社,2012年を読んできた経験が,本書における教養主義やそれに関する価値観に対する理解を可能にしてくれた。おそらく筆者が最も言いたかったのは,終章の部分だろう。それだけに,序章~5章の200頁を割いて綴られてきた教養主義の栄光と,たった1章の間に崩壊してしまった教養主義の成れの果てが,対照的に描かれている。おりしも,全共闘世代から絶大な共感を得た吉本隆明が昨日死去した。これも,教養主義を再評価するひとつのタイミングだと言えるのかもしれない。

Posted byブクログ