動物化するポストモダン の商品レビュー
東浩紀の思想を象徴するかのような一冊。大きな物語から、小分けにしてソフト販売していくというような発送は、非常によく分かる。世のコンテンツは、機能・仕様と共に、その物語が付随する。例えば、誰が、どれだけ苦労して作ったか。作品そのものと同じ位、そうした背景が重視される。しかし、本著は...
東浩紀の思想を象徴するかのような一冊。大きな物語から、小分けにしてソフト販売していくというような発送は、非常によく分かる。世のコンテンツは、機能・仕様と共に、その物語が付随する。例えば、誰が、どれだけ苦労して作ったか。作品そのものと同じ位、そうした背景が重視される。しかし、本著はもう少しコンパクトな内容にできたのかな、と思う。
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ポストモダンの精神構造、社会構造をオタクの文化をもとにして分析した本。 示唆に富んだ内容であり、とても面白かった。東浩紀氏の造語がたびたび登場してくるが、どれも言いたいことを端的に言い表したストレートなネーミングによるもので、難解とは感じない。 20代前半の私からすると文中に挙...
ポストモダンの精神構造、社会構造をオタクの文化をもとにして分析した本。 示唆に富んだ内容であり、とても面白かった。東浩紀氏の造語がたびたび登場してくるが、どれも言いたいことを端的に言い表したストレートなネーミングによるもので、難解とは感じない。 20代前半の私からすると文中に挙げられるアニメ・ゲームは馴染みのないものばかりだったが、90年代や2000年代前半の時代を理解する上では参考になった。本書の刊行から約20年が過ぎたわけだが、オタク文化、ひいてはポストモダンも新しい次元に入ったように思われる。この点に関しては新しい著作などで分析してくれることを期待している。
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深層にあるもの(データベース)とそこから生成される表層的なもの(シミュラークル)とを等価に見るデータベース消費の構造が、オタク文化やPCの画面上など至るところに見出だせるというのが本書の主張。 いまではあらゆる物事や言説がデータ化されているので、このモデルの適用範囲は格段に広くな...
深層にあるもの(データベース)とそこから生成される表層的なもの(シミュラークル)とを等価に見るデータベース消費の構造が、オタク文化やPCの画面上など至るところに見出だせるというのが本書の主張。 いまではあらゆる物事や言説がデータ化されているので、このモデルの適用範囲は格段に広くなっていると思う。ソーシャルメディアやAIに関連する問題を思い浮かべながら面白く読んだ。
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東浩紀は避けては通れないと思い一読。内容はオタク分析を通じたポストモダン論。最後の『YU‐NO』論は、東のいう虚構世界における「データベース的動物」化と現実世界における多重人格化を端的に表したものだった。
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「オタク」から世界の流れを読み解く1冊。 キーワードは「大きな物語」「大きな非物語」「二層構造」「動物化」 データベース(大きな非物語)を参照して無数のシュミラークルが生成される。シュミラークルの中にはオリジナルも含まれる。大きな物語と大きな非物語の違いは、それを見る主体によっ...
「オタク」から世界の流れを読み解く1冊。 キーワードは「大きな物語」「大きな非物語」「二層構造」「動物化」 データベース(大きな非物語)を参照して無数のシュミラークルが生成される。シュミラークルの中にはオリジナルも含まれる。大きな物語と大きな非物語の違いは、それを見る主体によって解釈が異なるということである。大きな物語が「見る主体」を規定し、その一方で大きな非物語は表象(小さな物語)をつくるのみである。 大きな非物語と表象からなるポストモダンはオタクカルチャーのみではなく、世界をも形作る。ポストモダンの流れ自体は20世紀初頭から始まり、ソ連崩壊(日本では地下鉄サリン事件)を契機にポストモダンが本格的に始まる。インターネットと共にポストモダンの時代が訪れた。私はこのポストモダンがポストトゥルースと深く関係していると思う。
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20年前に出版されたものなので、今読むとどうしても答え合わせ的な読み方になってしまいがちだが、賛否両論生まれたいい意味で波紋を投げかけた東浩紀氏の論説はやはり鋭いなと感じさせる。 東氏への批判は、本作の中でも触れられている芸術家の村上隆氏に対する批判の論調とほぼ同じく、自身が本物...
20年前に出版されたものなので、今読むとどうしても答え合わせ的な読み方になってしまいがちだが、賛否両論生まれたいい意味で波紋を投げかけた東浩紀氏の論説はやはり鋭いなと感じさせる。 東氏への批判は、本作の中でも触れられている芸術家の村上隆氏に対する批判の論調とほぼ同じく、自身が本物のオタクではなく外部からの視点から分析し、オタクの要素の表層的な部分を抽出し作品及び論説として表現し発表しているという事である。 しかしガンダムやエヴァンゲリオンをピックアップして見ると、同じオタクでも世代間の違いがはっきりしており、ガンダム世代を中心とするオタクはそのストーリーや世界に没入するのに対し、エヴァンゲリオン時代になるとキャラクターの二次利用をはじめとする、ある意味そちらの方が表層的とも言える楽しみ方がオタクの主流になってくるという指摘はとても面白い。 そして欲求と欲望の違いと、そこから動物化へと流れていく人々の変化は、アメリカ的消費社会の予測された行き先であると、本書から20年後の今を生きる者としては頷かざるを得ない。
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20年ほど前の本を10年ほど前に積読したものを本棚整理の過程で発掘して読み出したが想定以上に面白くて一気に読んでしまった。 なるほど表層文化論。具体的な娯楽作品とそれが社会で選抜される理由の構造をなるほどなぁという感じにうまく説明している。 SNSとかブログとかで断片的に目に...
20年ほど前の本を10年ほど前に積読したものを本棚整理の過程で発掘して読み出したが想定以上に面白くて一気に読んでしまった。 なるほど表層文化論。具体的な娯楽作品とそれが社会で選抜される理由の構造をなるほどなぁという感じにうまく説明している。 SNSとかブログとかで断片的に目にする大きな物語の話とかポストモダンというワードもある程度身近に感じ取るようになった気がする。 あまりに抽象的で何言ってるかよくわからん,という感じでなくちゃんとしたリアリティのある言説になっていて,非専門家でもすんなりロジックが入ってきた。 この本が世に出てから20年,まだまだエヴァンゲリオンは小さな物語を再生産し世間を賑わしている。また,シン・ゴジラのヒットを見てもオタクが一般社会に広まり,ディテールへの完成度(物語の深遠さでなく)が一つのキーポイントとなっているように見ることもできそうだ。 この先10年,20年とこの流れが続いてさらに洗練されていくのか,はたまた別の構造ができてくるのかを妄想しつつ今現在の様々な社会の事象を眺めてみるのも面白そうだと感じた。
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東浩紀(1971年~)氏は、東大教養学部卒の、批評家、哲学者、小説家。 1999年に発表したデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』は、浅田彰氏が「自著『構造と力』が過去のものとなった」と評して脚光を浴び、哲学書としては異例のベストセラーとなった。 領域横断的な「...
東浩紀(1971年~)氏は、東大教養学部卒の、批評家、哲学者、小説家。 1999年に発表したデビュー作『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』は、浅田彰氏が「自著『構造と力』が過去のものとなった」と評して脚光を浴び、哲学書としては異例のベストセラーとなった。 領域横断的な「知のプラットフォーム」の構築を目指して2010年に創業した(株)ゲンロンでは、批評誌『ゲンロン』や書籍の出版のほか、カフェイベントの主催やアート・カルチャースクールの運営なども行っている。 本書は2001年に発表された、東氏の代表的著作のひとつ。 東氏は本書で、フランスの哲学者リオタールが唱えた、「大きな物語」に準拠していた「モダン」の時代から、それに対する不信感が蔓延した「ポストモダン」の時代への移行に従って、大衆の消費の対象のベースが、「大きな物語(世界観)」から「大きな非物語(情報の集積=データベース)」に置き換わったとし、後者を「データベース消費」と名付けて、日本において、その典型が1990年代後半以降のオタク系文化に顕著に見られるとした。そして、その「データベース消費」とは、人間としての「欲望」を満たすものではなく、動物としての「欲求」を満たすものであり、その意味で、ポストモダンは動物化している、と述べるのである。 私は、東氏の本テーマに関する以後の作品(2007年の『ゲーム的リアリズムの誕生』など)も、他の思想家、研究者の著作も読んでいないので、本テーマがその後、専門家の間でどのように議論・展開されているのかはわからない。 しかし、現代思想、サブカルチャーいずれについても門外漢である私が、本書を読了して(既に十数年前のことだが)感じたのは、「大きな物語の終焉」と「オタク系文化」を結び付ける視点、私にはその魅力が理解し難い「オタク系文化」を読み解くアプローチの斬新さ、面白さであった。 日本の現代社会(思想)を解釈するキーとなる一冊として、一読しておきたい。 (2007年7月了)
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本書は現代文化,ポストモダンについてオタクを切り口に論じた書籍です。本書は中身が濃いので色々な論点を取り出せると思いますが,個人的には「データベース(・モデル)」と「動物(化)」がキーワードだと感じました(し,多くの人はそう読み取るのではないかと思います)。 近代(モダン...
本書は現代文化,ポストモダンについてオタクを切り口に論じた書籍です。本書は中身が濃いので色々な論点を取り出せると思いますが,個人的には「データベース(・モデル)」と「動物(化)」がキーワードだと感じました(し,多くの人はそう読み取るのではないかと思います)。 近代(モダン)の世界像は,ツリー・モデルであると東氏は指摘します。ツリー・モデルとは,表層に小さな物語群があり,それらを通して私たちは深層にある大きな物語を見つける,という考え方です。 他方,ポストモダンの世界像は,データベース・モデルであると指摘されます。データベース・モデルでは,深層には「設定」や「キャラ」などのデータの集積しかなく,それらを結合した小さな物語群が表層にあらわれてくる。そのため,ツリー・モデルとは異なり,物語は私が読み込むものとなる。以上の考え方です。 本書でも取り上げられていた,ガンダムとエヴァンゲリオンの対比がわかりやすいので,それを参考に二つの世界像を紹介します。 ガンダムシリーズには色々な作品があります。『機動戦士ガンダム』から始まり,『Gガンダム』,『ガンダムSEED』などいろんな作品があり,作品ごとにそれぞれ物語(小さな物語)がありますが,それらの作品には共通して「ガンダム世界」なる共有した世界(大きな物語)があります。私たちの見えはこの大きな物語に規定されます。これがツリー・モデルです(ただし,ガンダムの世界はあくまで虚構であることに注意。本来はここも本書における重要な論点で,例としてあげるには不適かもしれませんが,割愛します)。 一方,エヴァンゲリオンにはそのような共有した世界観はなく,キャラクターが麻雀ゲームに登場したり,育成シミュレーションに登場したりと,世界観とは関係なくキャラクターや設定(データベースに保存されたデータ)が単体で登場し,それらを組み合わせて(表層の小さな物語)楽しめるわけです(私が物語を読み込む)。これがデータベース・モデルです。 このような時代認識から様々な論点を導きだしますが,その重要なものの一つが「動物(化)」かなと思います。 動物は,特定の対象をもち,それとの関係で満たされる単純な渇望である欲求しかもちません。一方,人間は欲望を持ちます。欲望とは,欠乏が満たされても消えることがありません。なぜなら,人間は他者の欲望を欲望するからです。たとえば,「恋人が欲しい」と思い実際に恋人ができても,今度はそれを他者に自慢したい(他者に良いな(=他者の欲望)と思われたい)などと思うからです。この間主体的な欲望こそが人間の特徴なわけです。 ですので,動物化とは,間主体的な構造が消えて,欠乏ー満足の回路を閉じてしまう状態の到来を意味します(p.127)。できるだけ他者を間に入れずに,自分の欲求にしたがってのみ満足を得ていく,このような時代のことを東氏は動物の時代と呼びます。ですが,このような動物化は表層の部分でのみ生じており,データベース(深層)の部分では擬似的で形骸化した人間性を維持しているとも指摘されてます。 長くなりました。もっと多様な論点がありますが,私もまだ消化できているわけではありません。私は東氏の新しい方の著書(一般意志2.0とかゲンロンとか)から入って,本書(本書の方が古い)にたどり着いているので,まだ少し読みやすかったのかなと思います。 東氏の著作のつながりが見えてくると面白いのだろうなあと思いました。
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オタク文化論的なものかと思って読み始めたら少し違って、オタクとその消費社会の変遷と背景とは、という感じだった。オタク(という言葉自体今となっては特別な意味を含んでいない気もする)は自分たちを一括りにされて他者の言葉で定義されるのを嫌うと個人的には思うので、この本も世に出た時は一定...
オタク文化論的なものかと思って読み始めたら少し違って、オタクとその消費社会の変遷と背景とは、という感じだった。オタク(という言葉自体今となっては特別な意味を含んでいない気もする)は自分たちを一括りにされて他者の言葉で定義されるのを嫌うと個人的には思うので、この本も世に出た時は一定の反発があったんだろうなぁと察する。 ※著者は別にオタクを茶化しているわけでもないし、批判しているわけでもない。寧ろご本人はオタクに人気の作品を挙げては素晴らしいと評したり、もっと自由に色々な人がこのテーマについて論じる世の中となることを望んでいる。 これらオタクが消費する社会はアメリカの敗戦に始まっている、という記述から始まり、それぞれの年代ごとにオタクに受ける要素が変わってくるという仕組みがなかなかに面白かった。一時期キャラクター小説が多かったのも納得。原作の世界観を完全に忠実に守ったうえでの二次創作が受けるというのも納得。 あとは「オタクになりきれなかったオタク」という村上隆へのオタクの反発も、すごく、わかる。同じものを見て同じように感動をし、では芸術家としての手法で表現をしたところで、オタクからしてみれば、「大事なのはそこじゃないんだよ、それを理解できないのにこの世界に首を突っ込むな」となるわな。オタクと芸術家はやはりアウトプットの仕方が根本的に違う。 最後のインターネットの世界をオタクの社会に結び付けるのはちょっと強引じゃないか…という気もしたが、確かに要素を並べると仕組みとしてはよく似ている。でも個人的には納得しがたい…!似ているだけで繋がりはないのでは、と感覚的には思う。 やはりこの本の肝としては、オタクでない文化に比べて、サブカルチャーは格下であるという意識が世間的にはあった中で、そこを真面目に正面から向き合ったということだろう。 現在はオタクとそうでない所謂一般人との境目が、この本出版当時よりも曖昧になっていると思われる。その中で同じように論じるとすれば、どうなるかな。と考えるきっかけにもなる。
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