動物化するポストモダン の商品レビュー
非常に面白く読むことができた。 「大きな物語」が失われたポストモダンの時代には、「物語消費」から「データベース消費」に移行していく。 ガンダムとエヴァンゲリオンの対比や、キャラ萌えの話を社会的な大きなテーマに結びつけていくところが、知的に刺激的だった。 しかし、まだまだ勉強...
非常に面白く読むことができた。 「大きな物語」が失われたポストモダンの時代には、「物語消費」から「データベース消費」に移行していく。 ガンダムとエヴァンゲリオンの対比や、キャラ萌えの話を社会的な大きなテーマに結びつけていくところが、知的に刺激的だった。 しかし、まだまだ勉強不足なので、関連書籍をもう少し漁りたい。
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49しかしこのような 本物と偽物の区別がつかなくなってしまう ビックリマンチョコの773人目のキャラは世界観に従って整合性をもち作り出される。 →ファッション 60'sの、本物の、当時物の軍パンと、当時を感じることができる当時のカルチャー的世界観に整合性を持った現代の中...
49しかしこのような 本物と偽物の区別がつかなくなってしまう ビックリマンチョコの773人目のキャラは世界観に従って整合性をもち作り出される。 →ファッション 60'sの、本物の、当時物の軍パンと、当時を感じることができる当時のカルチャー的世界観に整合性を持った現代の中で作られた軍パン、(二次的なもの?)その区別は?本物と偽物の区別はつく? →土着のものと切り離されたもの?にも繋がる? 52 ツリー 映画を見てその深層に近づく。大きな物語に近づく ポスト いくらでもパチモンが。見る側のリテラシーを高める必要?大きな物語、伝統文化宗教政治などと切り離されてる→グローバル化 73オタク系作品に頻繁に リミックスの潮流、引用、サンプリングとの違い、→渋谷系と秋葉系の違い、dj 82そこから様々な要素 バラエティならスイダウもそう?て思ったけどあれはエンタメアーカイブから組み合わせたりもしてるけど、それよりもメタのイメージ? 85複製技術時代における芸術作品 オリジナリティの感覚は儀式の一回性によって根拠付けられる →nftは?オリジナリティの感覚 99ポスト歴史の人間は、その形式を内容から切り離しつづけなければならない。しかしそれはもはや、内容を行動によって変質させるためではなく、純粋な形式としての自己を、なんらかの内容として捉えた自己および他者に対立させるためである →70年台のカウンターカルチャーをファッションアイテムという形式として、そのムーブメントの内容と切り放して消費する。→三島由紀夫の人間主義的な成果によって〜の部分? 105オタクのスノビズムは、江戸文化の形式主義なら延長線上にらあると同時に、またこの世界的ならシニシズムの流れのひとつの現れであった →ギイブルタンの形式主義、ファッション写真は基本的に形式主義=個人の趣味嗜好、記号を実質から切り離してフィルム内に収めたもの? ・YouTuberとか凄いポストモダンのエンタメって感じ。作家の神話性はもはや無い。過去のエンタメアーカイブから自由に組み合わせているのが今のYouTuber 158過視的=スパーフラットなシミュラークルの世界の表層に対して働くこの欲望を今度は過視的という言葉で捉えてみよう 見えないものをどこまでもみえるようにしようとし、しかもその試みが止まることがない泥沼状態。 →インスタとかモロそう。ストーリーでみんなの生活を見る。比較はお薬。ゼンリーとか始めちゃって。 169 彼らは身体を別の人格と共有し、ときに記憶の一部まで共有しながらも、それぞれ別のアイデンティティをもち、別の人生を歩んでいるのだと強く主張している →インスタなどの傾向。自分の理想の暮らしを映してあたかも自分はそういう風な暮らしをしていると他者に知らしめたい ・近年でイラスト自動生成をAIがやったり、データアーカイブからの横滑りすらAIが自動でやるようになっている。作家の神話性はさらに失われているように感じる。 ・いなたさ→グランジの本質 生活に根づくファッションみたいなこと 文化の中で生活している人間の"生活感"を取り入れてたい、気取らない、いなたさ。汗としみ。 スマホのストーリーとか写真ってある種そういういなたさ、とは切り離されてしまうっているように思う。 フィルムの本質っていなたさなのでは? 生活感、素朴な、垢抜けないみたいな要素ってまさにフィルムだなーと思う。 Photoshopでペラペラになってしまうことのない証拠としての強度
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昔某教授からオタクを名乗るなら必須だから読んでおけと勧められた一冊。(今となっては)往年のアニメやADVからオタク(というか非王道の若者)の心理が分析されている。難しい言葉も少ないのでオタクを名乗るなら是非
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“しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意...
“しかしポストモダンの人間は、「意味」への渇望を社交性を通しては満たすことができず、むしろ動物的な欲求に還元することで孤独に満たしている。そこではもはや、小さな物語と大きな非物語のあいだにいかなる繋がりもなく、世界全体はただ即物的に、だれの生にも意味を与えることなく漂っている。意味の動物性への還元、人間性の無意味化、そしてシミュラークルの水準での動物性とデータベースの水準での人間性の解離的な共存。(略)「ポストモダンでは超越性の観念が凋落するとして、ではそこで人間性はどうなってしまうのか」という疑問に対する、現時点での筆者の答えである。(p.140)” サブカルチャー論でよく名前を聞く本。 筆者の主張をごく簡単にまとめれば、ポストモダンとは「大きな物語」の権威が失墜し、代わって「小さな物語」(シミュラークルの全面化)と「大きな非物語」(データベース)の二層構造が生じた時代だとする。オタクたちの消費活動は、ポストモダン化の進行に伴って「物語消費」から「データベース消費」に移行した。そして筆者は、彼らの行動様式を「動物」的、つまり、“間主体的な構造が消え、各人がそれぞれ欠乏-満足の回路を閉じてしまう状態(p.127)”にあると評する。 以下、読んで思ったこと。 ・巫女キャラなど日本的な意匠がマンガやアニメによく見られることを以て、オタク文化の日本への執着を読み取るのは流石に深読みのし過ぎだ。況や、敗戦で一度失われた疑似的な日本の再建の欲望をや、である。それを言うなら、例えば西洋的な意匠や中華的な意匠も同じくらい広く受け入れられているのだから。オタク文化に散見される日本的意匠は、文字通り作品中で用いられた「意匠」の1つに過ぎず、それ以上の特別な意味はないと思う。 ・僕が理解したところでは、「大きな物語」は有機的に概念が繋がっているのに対し、「大きな非物語」は無機的だというのが両者の差異なのだと思う。前者では階層構造があって、そこから道徳・価値が導かれる。一方後者ではすべてが等質的("超平面的(p.154)")なので、個々人が何か行動規範を選びとる必要がある。 ただ、個別のアニメ作品に於いては「大きな物語」も「大きな非物語」もともに「設定」のことであると書いてあるのがややこしい(p.50には“「大きな物語」とは(略)「設定」や「世界観」を意味する”とあり、p.54には“データベース=設定”とある)。文脈から考えて、前者の「設定」とは作品世界についての設定であり、後者はキャラクターについての設定ということだろう。斎藤環は登場人物の行動原理を「トラウマ」で説明する近年の傾向を指摘したが(『社会学化する社会』)、後者の「小さな物語」と関連があるか? ・「データベース消費」におけるストーリーの偶然性に対する指摘はなるほどと思った。確かに、ノベルゲームのマルチエンド構造は、ストーリーが必然的なものではないという意識を反映していそうだ。また、本書と所謂「なろう」小説の関連について触れた他の方のレビューを読んだが、その通りだと思う。「小説家になろう」では、転生ものや追放ものなど新しいジャンルが開拓されると膨大な数の類似作が一気に投稿されるという。僕も何作かは読んでみたことがあるが、「ジャンル・世界観」+「ストーリー展開」+「主人公のキャラクター」+「ヒロインのキャラクター」+・・・のように構成要素を組み合わせて出来ている感じがした。もはや話の筋は類型的でいいようだ。これこそまさにシミュラークルの典型と言えるだろう。 ・「大きな非物語」について読んだとき、最初に連想したのがマッチングアプリだった。そこでは、人間は性別や年齢、収入etc.の集合としてしか扱われない。他にも似たような例は挙げられるだろうが、このようなデータベース化は情報化社会の現れでもあるだろうから、単純にポストモダンに帰着させて良いものかはよく分からない。 オタク文化とポストモダン論を関連付けて論じる試みは興味深く、時代の傾向をつかんでいると思う。本書で導入された種々の概念は今でも依然として有用だろう。しかし、全体的に少し説明不足という印象も受けた(この本をちゃんと読解できている自信はないけど)。アニメやマンガを読む時や、また普段の生活の中でも、慎重に吟味していきたいところである。
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オタクにとって価値を見出す点が、作品から作品の文脈に変遷していくまで。同人活動へのつながりがスッキリ理解できた
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「有名な本らしいけど、20年前の文化批評って今アテになるのかな…?」と思いながら読み始めたけど、杞憂だった。東先生(というか、コジェーヴさん)の言う「動物化」は20年でさらに進んでるよなぁ。「大きな物語の時代の終わり」は気のせいだったことが最悪の形で証明されちゃってるけど。
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うまく時代の表層の流れは捉えている。 最後のゲームyu-noの紹介は実例として面白いが、妥当性があるのか、筆者が言う通り深読みではないのか、その疑念を晴らす作業が欲しかった。
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現代のオタク文化は二層構造であち、二重になっている複雑さを持つ。大きな物語、小さな物語の物語消費論が興味深かった。
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異世界もの(転生するとか召喚されるとか、まぁ、その辺の細かいとこはどうでもいい)が雨後の筍みたいになっている理由は、これを読めばわかる。 異世界ものの読者が求めているのは、「小さな物語」という表層が与えてくれる「効率的な感動」「そこそこの面白さ」と、「データベース」に蓄積されて...
異世界もの(転生するとか召喚されるとか、まぁ、その辺の細かいとこはどうでもいい)が雨後の筍みたいになっている理由は、これを読めばわかる。 異世界ものの読者が求めているのは、「小さな物語」という表層が与えてくれる「効率的な感動」「そこそこの面白さ」と、「データベース」に蓄積されている設定の、目先の変わった組み合わせだけだから、量産できるし、既視感満載の作品しかない、ということらしい。 むしろ、既視感ありき、なんだそうな。 なんせ、大事なのは創造じゃなく引用の巧みさだから。 そして、オリジナルとコピーの区別が消滅してるから、原作と言われる作品さえ先行作品の模倣と引用のパッチワーク。 さらに、現実世界が「大きな物語」の凋落によって強いリアリティを持てずにいるから、もし、その引用と模倣のパッチワークに「大きな物語」を与えようとしたら、もう剣と魔法の世界としてしか想像できないのだと。 なるほどねー。 あと、キャラクター小説に私が入り込めない理由がわかった。「物語」と私が考えて読み取ってきたものが、そもそも構造的に排除されているからだった。「効率的な感動」を求めてない読者を、この作品群は求めてない。 しかも作品全体の構造からしたら必然も文脈も無視してブッ込まれる「みなさんご存知!ほら、あのキャラの、あの萌え要素ですよ!ね、ショートヘアのドジっ子メガネでしょ??ね???(そういうキャラがいるのかは知らないけど)」的な描写に共感できないとこにいる人間だからだった。 ちゃんちゃん。 でもなぁ、文芸作品、って言って紹介されてる作品にもだいぶ紛れ込んでるんだよなぁ……わざとやってるならまだしも、自覚なしにやってるんだったら……ちょっとなぁ……
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予想より読みやすかった。図解も手伝って筆者の言わんとするとこが、よく理解できる。アニメ、オタク文化をよく知らないのだが、そこも問題なく、むしろ楽しめた。もっと著者の本を読みたい!と思いました。
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