「世間」とは何か の商品レビュー
我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。 Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的...
我々は「世間」という言葉に対してどのような印象を持っているだろうか。 Wikipediaには、インド発祥で迷いの世界を表す宗教用語とか書いてあるけど、少なくとも現代日本ではそのような意味で使われることはまずない。「社会」とか「世の中」といったものを表す用語として使われるのが一般的だろう。 本書は日本におけるこの「世間」について、英語の「society」の訳語にあたる「社会」との違い、日本人が自己を形成する上での「世間」との付き合い方、「世間」の中で「個人」はどのような位置を持っているのか、といった観点で論を展開している。 そのテキストとして、万葉集、古今和歌集、方丈記、徒然草、井原西鶴や夏目漱石、永井荷風などの日本文学作品を用いており、それら作品内で描かれた「世間」について考察しながら、日本における「世間」の捉え方の変遷を浮かび上がらせている。 一橋大の学長も勤めた著者は専攻がドイツ史とのことなので、てっきり日本と西洋の「世間」の違いを比較して論を進めるのかと思いきや、前述したような日本国内の文芸作品の解題だけでほぼ一冊を費やしていたのでちょっと意外だった。もちろんこれはこれで意義深い作業だとは思うけど、やはりこれだけでは「世間」というものの解説本として物足りなさは残った。 かつて「世間」は海や山や川のような自然界の出来事も包含していたとか、好色が恥ずべきものとなったのは近代以降とか、漱石は「社会」と「世間」の区別をなしえなかったとか、興味深いこともいっぱい書いてあるんだけどね。 実は本書の続編にあたる『「教養」とは何か』のほうで西洋との「世間」の違いについて掘り下げており、こちらはそこそこ難解なので感想を書けるかどうか分からないけど、本書のタイトルの答えとしてはこの2冊を合わせて評価しないといけないのかなと思った。 ちなみに序章で大まかな結論は述べられているので、時間の無い方は序章だけ読んでもいいと思います。
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私たちにとってはなじみ深い観念である「世間」を日本固有のものと見なしたうえで「社会」や「個人」といった西洋由来の観念と対置して捉える。日本の歴史における「世間」への意識の変遷と、これを対象化しようを試みた「隠者」としての文学者たちの系譜をたどる。約240ページ。 本書全体を通し...
私たちにとってはなじみ深い観念である「世間」を日本固有のものと見なしたうえで「社会」や「個人」といった西洋由来の観念と対置して捉える。日本の歴史における「世間」への意識の変遷と、これを対象化しようを試みた「隠者」としての文学者たちの系譜をたどる。約240ページ。 本書全体を通して「世間」の正体を突き止める試みがなされることを窺わせるタイトルだが、実は読み手の関心をそそるこの問いかけそのものは書名と同じタイトルである序章の時点で、既に次のように定義づけられている。 「世間とは個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている」 「日本ではいまだ個人に尊厳があるということは十分に認められているわけではない」 「自分達の世間の利害が何よりも優先される。このように世間は排他的であり、敢えていえば差別的ですらある」 仮説とは断りながらも、この点については本書の完結まで変更はなく、タイトルの問いかけ自体は本書の目的というよりも前提として扱われる。本書において著者によってなされるのは「世間」が何かという探求というよりは、この仮説の裏付けであって、それぞれの時代の文学作品と文学者を通じて「世間」がどのように意識されてきたかをたどる試みにある。そして各章で時代ごとの代表として俎上にのぼる主な作品と文学者たちは以下のようになっている。 1章:万葉集をはじめとする和歌、「源氏物語」、「大鏡」など 2章:吉田兼好 3章:真宗教団・親鸞(本章のみ宗教が対象) 4章:井原西鶴 5章:夏目漱石 6章:永井荷風、金子光晴 このうち著者がとくに重点的に扱うのが、2章・4章・5章のテーマとなる兼好・西鶴・漱石の三人である。著者はこの三人をそれぞれの時代において、私たちにとって空気のように自明である「世間」を対象化して表現したうえで、新たな生き方を提示することに成功した例外的な存在として評価する。本書は、この三人の作品と思想を対象に「世間」を相対化する観点にスポットを当て、その業績を検証することが半ば主眼となっている。そのうえで著者はこの三人を、一種の「隠者」として見立てている。実際に庵を結んで京を離れていた兼好だけでなく、その他二人もこれに加えているのはもちろん現実の場所や暮らし方を指してのことではなく、意識のうえで一般的な世の中とは遊離して客観視ができた意味においてである。 読書前にパラパラ眺めてみて、歴史に沿ってタイトルの問いを追求していく流れかと考えていたが、上記のとおり書名の問いへの回答は、実質的には序章の時点で完結している。そのため振り返ってみて、もっとも関心をもって読めたのはやはり序章だった。同じような興味の方は、あらかじめ序章だけ確認してみても良いかと思う。このように結論ありきといえなくもない本書だが、かといって退屈だったわけではなく、本書の主役といえる三人の「隠者」への考察は参考になった。中世のスノッブなエッセイ程度のイメージしかなかった「徒然草」は改めて現代語訳を当たってみたいと思えた。ただ、永井荷風と金子光晴を扱う最終章にかぎっては全くの蛇足にみえてしまった。 本書の本筋とは直接関係のない余談だが、序章にある次の指摘には、「権威主義」という概念への認識を改めさせられて印象に残った。今後もことあるごとに思い返すことになりそうだ。 「欧米人は日本人のことを権威主義的であるとしばしばいう。権威主義的とは威張っているということではない。自分以外の権威に依存して生きていることをいうのである。その権威が世間なのである。」
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「世間の掟」「世間を騒がせたことを謝罪する」「知識人の責任」の項のみ読みました。 この部分を読むだけで、十分元の取れる本です。
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【信州大学附属図書館の所蔵はこちらです】 https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BN12885013
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昔から日本人は世間を意識しながら生きている。 そして、多くの人はその世間というものが思い通りにならず、悩むことも多い。 日本から世間という感覚が無くなる、という可能性はほぼなさそう。 世間から逃げたり、全く離れるということも難しい。世間を馬鹿にしても仕方がない。 大切なのは、自分...
昔から日本人は世間を意識しながら生きている。 そして、多くの人はその世間というものが思い通りにならず、悩むことも多い。 日本から世間という感覚が無くなる、という可能性はほぼなさそう。 世間から逃げたり、全く離れるということも難しい。世間を馬鹿にしても仕方がない。 大切なのは、自分がその中でどのようなスタンス・立ち位置を取るのか、ということを考えること。
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世間ってなんだろう。 その実態はかなり狭く、社会と等値できるものではない。 ヨーロッパの場合には、中世以来諸学の根底に共通の哲学と神学がある。わか国はそういう基盤がないのに明治以降共通の世界観を基にして生まれた西欧流の学問形式が用いられている。形だけの模倣は、一般の人々の意識...
世間ってなんだろう。 その実態はかなり狭く、社会と等値できるものではない。 ヨーロッパの場合には、中世以来諸学の根底に共通の哲学と神学がある。わか国はそういう基盤がないのに明治以降共通の世界観を基にして生まれた西欧流の学問形式が用いられている。形だけの模倣は、一般の人々の意識から程遠いものだったそうである。 兼行、親鸞、西鶴、漱石、荷風、光晴をたどって世間を読む。 ちょうど、それからをよんだとこだったのでタイムリー。解説みたいなものだから本文を知ってた方がわかりやすいと感じた。個人が日本の社会と世間の中でいかに生きていくかという問いに答えようとした1つの試みだったそうである。 門の宗助とおよねはそれからの代助と三千代の後の姿と読むこともできると書いてあり、読んでみたくなった。 人と人の微妙なズレが描かれてるみたい。 漱石が個人と社会の関係の問題で、作品の中では、世間や社会に背を向けた立場を選んでいるところが良いなあと思う。
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学問研究の場も含めて、日本社会のありようを大きく規定している「世間」という思考と行動の枠組みについて考察している本です。 本書では、兼好法師や親鸞、井原西鶴などのテクストを通じて、日本社会における「世間」という枠組みがどのようにして形成され、またこれらの人びとが「世間」に対して...
学問研究の場も含めて、日本社会のありようを大きく規定している「世間」という思考と行動の枠組みについて考察している本です。 本書では、兼好法師や親鸞、井原西鶴などのテクストを通じて、日本社会における「世間」という枠組みがどのようにして形成され、またこれらの人びとが「世間」に対してどのように向きあってきたのかということを論じています。そのうえで、夏目漱石や永井荷風、井上光晴といった近代以降の作家たちを例にとりあげ、西洋近代の文明と学問を導入した日本に生きる彼らが、なおも人びとの考え方を規定しつづけてきた「世間」ととヨーロッパ文化との矛盾のはざまで格闘してきたことが明らかにされています。 本書をはじめとして、著者は多くの著作で「世間」について考察をおこなっていますが、その嚆矢となった一冊ということで、著者の基本的な問題意識がかなり率直に語られています。もっとも本書では著者の「世間」のとらえかたが十全に語られているとはいえず、まだ問題の外堀をめぐっているという印象です。山本七平の「空気」論ほど融通無碍な議論ではないものの、無手勝流の日本文化論に見えてしまうところも否定できないように思います。 ひとまずは、こうした日本特有の社会的なありようを克服されるべき前近代的遺物としてしか見ようとしなかった大塚久雄や川島武宜らの立場とは一線を画しているということができるでしょう。丸山眞男のばあいには単純な啓蒙主義と割り切ることができないところがあり、著者の議論にかさなるところも多いように思われますが、学問論という視座から「世間」という問題に切り込んでいるところに著者の「世間」論の大きな特色があるといってよいと思います。
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約20年振りに再読。当時の私のオツムでは理解、消化、吸収できなかったことが少しはできるようになった感はある。自分が身を置く世間の掟、長幼の序と贈与・互酬関係は。生きづらさを感じたこともあり、それこそ隔世というか、その環から避けてきた、背けてきたこともあるし、何を血迷ったのか再度、...
約20年振りに再読。当時の私のオツムでは理解、消化、吸収できなかったことが少しはできるようになった感はある。自分が身を置く世間の掟、長幼の序と贈与・互酬関係は。生きづらさを感じたこともあり、それこそ隔世というか、その環から避けてきた、背けてきたこともあるし、何を血迷ったのか再度、その環に飛び込んだことも...。世間は変わりつつある。それは地域コミュニティの崩壊という当然の帰結なのだろう。
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とてもわかりやすい「世間」の解説本。「世間」について疑問を投げかける一方で、「世間」がなくなったら日本人は生きていけないという一面があることをも指摘する。 しかし、岡本公三の父親が息子に極刑を望んだのは、自分に対する世間の名誉を優先しているからという理由は「?」だった。それは単...
とてもわかりやすい「世間」の解説本。「世間」について疑問を投げかける一方で、「世間」がなくなったら日本人は生きていけないという一面があることをも指摘する。 しかし、岡本公三の父親が息子に極刑を望んだのは、自分に対する世間の名誉を優先しているからという理由は「?」だった。それは単純すぎる。そうじゃないかもしれないよな。もし極刑に値する事件を息子が起こしたなら、(もちろん何から何までとことん聞いた上で、そこに一抹でも息子に情状酌量の余地があるもの以外ならば)きっと私が親なら極刑を望むだろう。
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日本歴代の文学・思想から「世間」とは何かを探る。 面白いのは西欧の歴史研究者である阿部先生が、日本の「世間」をテーマにすること。例えば漱石や荷風のように一旦海外での生活をして日本文化の相対化をしたのだろうか。また著者は学長まで勤めており、専攻分野の割りに(偏見?)実務的な世界、...
日本歴代の文学・思想から「世間」とは何かを探る。 面白いのは西欧の歴史研究者である阿部先生が、日本の「世間」をテーマにすること。例えば漱石や荷風のように一旦海外での生活をして日本文化の相対化をしたのだろうか。また著者は学長まで勤めており、専攻分野の割りに(偏見?)実務的な世界、すなわち「世間」とも決して疎遠ではなさそうに思える(勝手な想像ですが)。 挙げられた事例の中では、真宗の一種の合理主義に関心がある。他は特殊な一個人の思想とも言えるが、真宗はまさにある文化の層を形成しているから。中井久夫もなにか一向宗地域の特異性を指摘していた記憶が。。。
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