それでも人生にイエスと言う の商品レビュー
V・E・フランクルは、1905年ウィーン生まれのユダヤ人の精神科医。1942年9月に家族と共にテレージエンシュタット強制収容所に収容され(父は同収容所で死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した)、1944年10月にアウシュビッツ収容所に送られたが、3日後にテュルクハイム収容所...
V・E・フランクルは、1905年ウィーン生まれのユダヤ人の精神科医。1942年9月に家族と共にテレージエンシュタット強制収容所に収容され(父は同収容所で死亡し、母と妻は別の収容所に移されて死亡した)、1944年10月にアウシュビッツ収容所に送られたが、3日後にテュルクハイム収容所に移送され、1945年4月に米国軍により解放された。 ナチスの強制収容所での体験を元に著した『夜と霧』(1946年)は、17ヶ国語に翻訳され、70余年に亘って読み継がれているロングセラーで、様々な「人生に影響を与えた本」、「最も読まれた本」の類のランキングでベスト10に入る作品である。 本書は、1946年にウィーンの市民大学で行った3つの講演、「生きる意味と価値」、「病を超えて」、「人生にイエスと言う」の翻訳である。 題名は、ブーヘンヴァルト収容所の囚人たちが、収容中に自ら作り、歌った歌の一節である「それでも人生にイエスと言おう」から取ったものと思われる。 本書は一般市民に向けた講演であるため、わかりやすくかつ心に残る記述が随所に見られる。 ◆「すべては、その人がどういう人間であるかにかかっていることを、私たちは学んだのです。最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。・・・最後の最後まで問題でありつづけたのは、人間でした。「裸の」人間でした。」 ◆「生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。・・・しあわせは、けっして目標ではないし、目標であってもならないし、さらに目標であることもできません。それは結果にすぎないのです。」 ◆「私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答をださなければならない存在なのです。・・・そしてそれは、生きていることに責任を担うことです。・・・現在がすべてであり、その現在は、人生が私たちに出すいつまでも新しい問いを含んでいるからです。・・・どんな未来が私たちを待ちうけているかは、知るよしもありませんし、また知る必要もないのです。」 ◆「各人の具体的な活動範囲内では、ひとりひとりの人間がかけがえなく代理不可能なのです。・・・各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているのです。」 ◆「それが可能なら運命を変える、それが不可避なら進んで運命を引き受ける、そのどちらかなのです。」 ◆「運命はまさに、私たちの生の全体にそっくり属しています。そして、運命によって定められたことはどんな小さなことでも、この全体から抜きとられてしまうと、私たちの生の全部、私たちの生の形がこわれてしまうでしょう。」 ◆「苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも、苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。・・・一日一日、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生にはおそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。」 ◆「人生それ自体がなにかであるのではなく、人生はなにかをする機会である!」(ヘッベルの言葉) ◆「人間の責任とは、おそろしいものであり、同時にまた、すばらしいものでもあります。おそろしいのは、瞬間ごとにつぎの瞬間に対して責任があることを知ることです。・・・それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。」 ◆「結局、この三つの講演の意味はいまいったことに尽きます。・・・人間はあらゆることにもかかわらず-困窮と死にもかかわらず(第一講演)、身体的心理的な病気の苦悩にもかかわらず(第二講演)、また強制収容所の運命の下にあったとしても(第三講演)-人生にイエスと言うことができるのです。」 『夜と霧』の体験を踏まえた著者が語る、「生きること」についてのメッセージは重く、心に響く。 (2020年11月了)
Posted by
フランクルと言えば「夜と霧」だが、夜と霧って何の事だ?と思って、フランクルのこちらを購入。 アウシュビッツ収容者といった背景を何も知らずに読み始めたので、時代の重苦しさを文面から感じながら、今の私達に共通する考えが展開されるのか?と、少し気持ちが離れた所から読んでいた。 すると、...
フランクルと言えば「夜と霧」だが、夜と霧って何の事だ?と思って、フランクルのこちらを購入。 アウシュビッツ収容者といった背景を何も知らずに読み始めたので、時代の重苦しさを文面から感じながら、今の私達に共通する考えが展開されるのか?と、少し気持ちが離れた所から読んでいた。 すると、人生の問いのコペルニクス的転換、という段に来て、私の中でも大転換が起きました。 人生とは何か? では、無い。 人生がお前はどうなんだ?どうするんだ? と、問うている、と。 これは大転換でした。 この転換が腹落ちすると、それ以降の言葉の数々がキラキラとイキイキとして入ってきた。 夜と霧が何を表しているのかという事も分かった。 厳しい体験談を置きながらも、それでも人生にイエスと言うスタンスの強さ。 温まる一冊だった。
Posted by
ユダヤ教の聖典「タルムード」にある次のような話が紹介されていた。 世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっている。 これらの人々は、謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営んでおり、その人々の義によって、この世界の存立が支えられて...
ユダヤ教の聖典「タルムード」にある次のような話が紹介されていた。 世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が三十六人いるかどうかにかかっている。 これらの人々は、謙虚な隠れた義人として、百姓や職人などの目立たない生活を営んでおり、その人々の義によって、この世界の存立が支えられている。 こうした「義しい人」たちのうちのだれかが、まわりの人々に「見破られる」と、そのとたん、その人は消えてしまう。その瞬間に死ななければならない。 なぜならば、人々は、そういう模範的な人たちがいると「いやな気持ち」になるから。(p15-16) 不思議に印象に残る話である。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
自分の人生が、これからどうなるのか不安で仕方がない。再度手にとって読んだ。そもそも、人生に期待をするのではなく、人生の苦難に対して自分が何をできるか、人生が私達に何を期待しているか、なのだと。どんな苦難があっても、意味のある人生にすることができる。そのためには、自分の持ち場で今を生きるということなのだと思う。未来に不安を募らせるよりも、今に身を置いて、今生きていることに集中すること。それが人生にイエスということなのだと思う。ただ、それが今の自分にはとても難しい。
Posted by
「夜と霧」を読んだ直後に読んだ方が内容が入りやすい。その時の体験記を踏まえた人生の講演集。私は「夜と霧」の方が内容が入ってきやすくスッと読めて納得感があった。
Posted by
フランクル2冊目。 全てを考えていくと、根元に、世界には意味があるかないかということに行き着くという記述を読んで、最近ぐるぐるしていた部分がカチってハマったみたいだった。だけど私はニヒリズムの海に溺れてたから、論拠がないのに反対側に乗り換えることは、すぐにはできない。もうちょ...
フランクル2冊目。 全てを考えていくと、根元に、世界には意味があるかないかということに行き着くという記述を読んで、最近ぐるぐるしていた部分がカチってハマったみたいだった。だけど私はニヒリズムの海に溺れてたから、論拠がないのに反対側に乗り換えることは、すぐにはできない。もうちょっと考え続けたら、腑に落ちるかもしれない。 世界に超意味を見出す考え方で生きれば、生きる意味は全ての場合において見出せる。世界がすべて無意味だという考え方のもとでは、生きる意味は見出せない。私は後者の考えのもと、それでもケースごとに意味を見出していくことはできると思ってて、自分にとってのそれは何か最近ずっと探していたけど、パラダイムシフトするのもありかなと思った。もう少しよく考えたい。 フランクルの本って、謙虚だけど、けっこうはっきりと主張があって、最初は飛躍しすぎじゃない?って思っても、馴染んでくれば納得できることも多くて、噛めば噛むほど味が出てくる。自分が普段しない思考手順だったり、思想だったりで考えていると、文字の裏に隠れている考えを途中から追いきれなくなって、飛躍してるように感じてしまうものだから。 フランクルは必ずプラスの結論を提示するが、それは若干意図的であるように感じた。ニヒリズムの悪い点から、反対のプラスの結論に持っていくのは、欺瞞が漂っているように、私は感じてしまった。ニヒリズムの悪い点を指摘したからといって、もう一方を肯定できるのか…。 個人的には、過去の人間が残した言葉を根拠に持論を肯定するのは論理的と言えるのか、疑問が残った。ただ筆者の意図に沿う例があっただけであって、他の無数の言葉と比べてなんでそれだけ過大に評価することが妥当であるのかがよく分からない。 内容に関する具体的な感想、内容のまとめは、本に直接書き込んでいるためそれを振り返ること。 解説がかなりまとまっていて、本作では述べられていないフランクルの思想についても言及があるため、全体像が分かりやすく、論理的に理解することができた。
Posted by
読書が人生を豊かにするとか、成長に繋がると言われるが、この本はまさにそのような本。 このような価値のある本に、星など上から目線で付けて評価してよいのかと、憚られるほど。 どう生きれば価値があるのか、とても良くわかる。間違いなく、自分の座右の本になる一冊。
Posted by
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
人生を楽しむ事は人生の目的ではなく、結果 自分が人生を通して得られるものよりも、自分の人生を通して何を与えられるか 辛く不自由な境遇にあっても、その中でどのように生きるかで、人生に意味を与えられる 生きるとは何かを問われる事であり、自分の行動によって答えを示すことである
Posted by
積読本シリーズ。 『夜と霧』のフランクルの著書。 1946年に行われた講演をもとにしているので、文章自体は読みやすく、それほど長い本でもないのですが、強制収容所を生きのびた人が語る「生きる意味」はとても重く、今まで3回くらい挑戦しては途中で挫折し(第1章を3回、第2章を2回くら...
積読本シリーズ。 『夜と霧』のフランクルの著書。 1946年に行われた講演をもとにしているので、文章自体は読みやすく、それほど長い本でもないのですが、強制収容所を生きのびた人が語る「生きる意味」はとても重く、今まで3回くらい挑戦しては途中で挫折し(第1章を3回、第2章を2回くらい読んでいる)、やっと今回、読了しました。 どんな状況でも、苦難と死にもかかわらず、病気を抱えていても、強制収容所にいてもなお、人生には意味がある。 フランクルは精神科医であり、心理学者なので、いくつもの診療ケースからこの結論を導き出しており、強制収容所での経験は実践例のひとつです。この講演の1年ほど前にはまだ彼は収容所にいて、自分の未来を考えることすらできない状況だったとは! 人ははたしてそこまで強くなれるものか、今の私には自信がありませんが、生きる意味を問い直したくなったときに再読してみたい一冊です。 以下、引用。 最後の最後まで大切だったのは、その人がどんな人間であるか「だけ」だったのです。 「運命に揺るがず耐える勇気は、運命より強力である。」そしてこの格言の下で、この人は、自らの命を絶ったのです。 つまり人間は、じっさい楽しみのために生きているのではないし、また、楽しみのために生きてはならないのです。 生きるということは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務なのです。 私たちが「生きる意味があるか」と問うのは、はじめから誤っているのです。つまり、私たちは、生きる意味を問うてはならないのです。人生こそが問いを出し私たちに問いを提起しているからです。私たちは問われている存在なのです。私たちは、人生がたえずそのときに出す問い、「人生の問い」に答えなければならない、答を出さなければならない存在なのです。生きること自体、問われていることにほかなりません。 人生は、「最後の息を引き取るときまで」意味のあるものに形づくることができるといってもいいでしょう。 自殺する人も、人生のルールに違反しています。人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。 苦難と死は、人生を無意味なものにはしません。そもそも苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです。 人生に重い意味を与えているのは、この世での人生が一回きりだということ、私たちの生涯が取り返しのつかないものであること、人生を満ち足りたものにする行為も、人生をまっとうしない行為もすべてやりなおしがきかないということにほかならないのです。 人生に重みを与えているのは、ひとりひとりの人生が一回きりだということだけではありません。一日一回、一時間一時間、一瞬一瞬が一回きりだということも、人生におそろしくもすばらしい責任の重みを負わせているのです。その一回きりの要求が実現されなかった、いずれにしても実現されなかった時間は、失われたのです。「永遠に」失われたのです。 そして意識して死に赴いていくというのは、運命の贈りものにちがいないと考えました。いまや運命は、私にも、意識して死に赴いていくことを許したのです。私は、もう一度自分の闘争心を試すことを許されたのです。 トルストイ『イワン・イリッチの死』 人生はそれ自体意味があるわけですから、どんな状況でも人生にイエスと言う意味があります。そればかりか、どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです。
Posted by
”『夜と霧』の著者V.E.フランクル氏が強制収容所からの解放翌年に行った3回の講演を収めた本。収容所の話がメインかと思えばさにあらず。人生の「意味」について、フランクル氏の思考を追いかけつつ、考えさせる一冊だった。 特に、強く響いたのは以下の3つのフレーズ。 ・生きる意味は、「...
”『夜と霧』の著者V.E.フランクル氏が強制収容所からの解放翌年に行った3回の講演を収めた本。収容所の話がメインかと思えばさにあらず。人生の「意味」について、フランクル氏の思考を追いかけつつ、考えさせる一冊だった。 特に、強く響いたのは以下の3つのフレーズ。 ・生きる意味は、「人生が、一回きり&唯一のものである」ことから生まれる。(p.55前後) ∵死があり、誰もが不完全だから ・世界は超意味をもつ(=意味を超えている)(p.113前後) →「信じる」とは、考え方の可能性にすぎないものを実現すること ・使命圏をどれほどみたしているか(p.191) 信じることを現実にする姿を、ウイーン市民大学での講演で自ら実践してみせたフランクル氏の姿、読みながらしびれた。半径の大きさを誰かと比べるのではなく、自分唯一の使命圏をどれくらい満たせるかを考えて実践したい。 ともに学んだ人間塾の尚友に感謝! <抜き書き> ・人生のルールは私たちに、どんなことをしても勝つということを求めていませんが、けっして戦いを放棄しないことは求めているはずです。(p.46) ・外面的に不成功に終わったり世の中で失敗したりしても、病気と死から得られる意味がそこなわれることはありません。内面的に成功するかどうかこそ問題なのです。(p.84) ★信じるというのは、ただ、「それが」真実だと信じるということではありません。それ以上、ずっとそれ以上です。信じることを、真実のことにするのです。というわけで、一方の考え方の可能性を手に入れるということは、たんに一つの考え方の可能性を選ぶことではないのです。たんに考え方の可能性にすぎないものを実現することなのです。(p.113) ※p.119 で、フランクル氏はこの日の講演がまさにそれだと証明する! 強制収容所の中で、高い立場から眺め、未来の視点から眺めて想像したウィーン市民大学での「強制収容所の心理学」の講演!! ★収容所の囚人は、収容所に入れられて数日のうちにもう、どんどん無感覚になっていきます。自分の身に起こる事柄にますます無感動になります。(略)そうなると、ひたすら、その日一日をなんとか生き延びることにだけ全力が注がれるようになります。(略)その他のすべての事柄に対しては、心は殻をかぶってしまいます。(略)無関心になって自分を救い出そうとするのです。 ※無感覚、無感動、無関心…、日常でも起こること。 ・特定の国家の国民だという事実だけで、その人を排斥してはならないのです。(p.147) ・私たちが時間の中で創造したり、体験したり、苦悩したりしていることは、同時に永遠に向かって創造し、体験し、苦悩しているのです。(p.158) ・創造価値、体験価値、態度価値(p.188前後:解説) ※それぞれ、「力への意志」「快楽への意志」「意味への意志」と関係あり ★それでもすばらしいのは、将来、つまり私自身の将来、そして私のまわりの事物と人間の将来が、ほんのわずかではあってもとにかく、瞬間ごとの自分の決断にかかっていることを知ることです。私の決断によって実現したこと、さっきいったように私が日常の中で「起こした」ことは、私が救い出すことによって現実のものになり、つゆと消えてしまわずにすんだものなのです。(p.160-161:解説) ※選択する「責任」の重さ、そのうらがえしにある素晴らしい一面! ★自己超越によって実現される創造価値においては、もはや仕事の「活動半径の大きさ」は問題ではなく、「人間がその使命圏をどれほどみたしているかということが重要なのである」。なぜなら、その使命圏において各人は「かけがえなく代理不可能」であり、「各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められている」からである。(p.191:解説) ※半径の大きさではなく、使命圏の占有度! ・(強制収容所で、一日の労働を終えた或る日の夕方、真っ赤に燃える夕陽を見て、誰かが言った)「世界ってどうしてこう綺麗なんだろう」。(p.193:解説) ※『夜と霧』p.128より <きっかけ> 人間塾 2014年12月の課題図書。”
Posted by