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新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 角川ソフィア文庫
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新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 角川ソフィア文庫

オイゲン・ヘリゲル(著者), 魚住孝至

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新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録 ビギナーズ 日本の思想 角川ソフィア文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 KADOKAWA
発売年月日 2015/12/01
JAN 9784044000011

新訳 弓と禅

¥880

商品レビュー

4.1

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2026/02/08

ドイツ人ヘリゲルが弓の達人阿波研造に師事するが、なかなか到達しえないその苦悩を赤裸々につづられていて興味深い。 たまたま中島敦の「名人伝」を対面朗読する機会があったが、中島の諧謔と合わせてこの本を味わうと味変になってこれもよい。 P62 彼ら(日本の弓の達人たち)にとって対決は...

ドイツ人ヘリゲルが弓の達人阿波研造に師事するが、なかなか到達しえないその苦悩を赤裸々につづられていて興味深い。 たまたま中島敦の「名人伝」を対面朗読する機会があったが、中島の諧謔と合わせてこの本を味わうと味変になってこれもよい。 P62 彼ら(日本の弓の達人たち)にとって対決は、射手が自己自身を狙い、また自己自身を狙わない。それによって自己自身を射中て、また射中てない。したがって、的を中てる者と的との、射中てる者と中てられるものとが一つである点にあるからである。 P83 師はあるときに言われた。 「息を吸うことは結び、結び付ける。息を保つ間に、すべて正しいことが生じ、息をはいて、あらゆる制限を克服して、開放し、完成する。」 P124 いっぱいに引き絞った時に無心に待つことには、相変わらず失敗した。【中略】「もし「私」がそれを行わないとするならば、そもそも射はいかに離れることができるのでしょうか」「「それ」が射るのです」【中略】「もし「私」がその場にもはやあるべきでないとすれば、私はいかに自己を忘れて離れを待つことができるのでしょうか」「『それ』が満を持しているのです」 P134 蜘蛛は舞いながら糸を張りますが、その巣にかかる蠅が存在するということを知りません。蠅は日差しの中で何も考えずに舞うように飛んでいて、蜘蛛の巣にとらえられますが、自分に何が生じるのか知りません。しかしこの両者を通じて「それ」が舞っているのです。そして内的なことと外的なものは、この舞において一つなのです。そのように射手は外敵には狙うことなく、的に中てます。私はこのことをこれ以上うまく言うことはできません」 P179 もし人が本当にある道をマスターしようと願うなら、その技術的な知識だけでは十分ではない。人は技術を超えなければならず、その結果、「術を行う」道は、無意識に至って「術なき術」になるようになるのである。(鈴木大拙・序文) **以降解説** P198 足踏み→胴造り→弓構え→打ち起し→引き分け→会→離れ・残身 P200 左右の手の腕力で引くのでなく、丹田を中心とした全身で引き分ける。 P204 必ず主語を置くドイツ語の表現なので、「それが射る」「それが満を持する」と言ったものである。日本語で「無心に」とか「おのずから」というだけでは、あまり明確にはならないが「それが」を主語にすることにより、自己の行いだが自己以上のものに合わせて生じる事態であることが明白に示されるのである。ヘリゲルは、無心の行いを「それ」が○○すると表現するようになる。 P205 正射、すなわち自然な離れが実際にできるようになると、内面的には「その日が今始まるかのような」「愉快」さを感じるとヘリゲルは書いているが、阿波は「実に嬉しくすがすがしい、真の愉悦を味わうことができる」と言っているのである。 P208(「それ」が何かがわかりましたかという師の問いに対して「身体の眼には精神的であり、精神の眼には身体的であり、・・・弓と矢と的と私とは相互に絡まりあっていて、分けることができない事態をさす」と答えて、師がそれを聞いて「弓の弦があなたの中心を貫いた」と肯定したという叙述がある。

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2025/06/30

ほんのれんラジオきっかけで気になっていたら、お気に入りの本屋さんで見つけたので連れて帰った。 ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが、日本の禅に興味をもち、そのことから東北帝国大学講師として来日した際、「不立文字」の禅を西洋人、しかも哲学者が理解するのは難易度が高すぎるから、とり...

ほんのれんラジオきっかけで気になっていたら、お気に入りの本屋さんで見つけたので連れて帰った。 ドイツの哲学者、オイゲン・ヘリゲルが、日本の禅に興味をもち、そのことから東北帝国大学講師として来日した際、「不立文字」の禅を西洋人、しかも哲学者が理解するのは難易度が高すぎるから、とりあえず弓道からどうか、というアドバイスに従って「弓禅一味」を信条とする弓聖、阿波研造を師として習い始める。 来日中の数年をかけて、無心になって的を射るその本髄を獲得していく過程が作者の素直な文章で描かれている。 言葉も通じない師とのやりとりもドラマチックで面白いが、やはり、日本の「道」が、禅に通じているという解釈、弓を射る際の心もちの描写がとても興味深い。また、この弓道を通じて得たヘリゲルの体験と、それが本になった時代背景も考えると、内容以上にいろんな切り口で面白い本だった。 さて、 この話を自分ごとに引き寄せてみる。 わたしはたぶん集中力があまりない。 特に誰かと会話している時、自分が話すターンでは特に、全然集中せずに話すものだから、途中で自分が何を言っているのかわからなくなる。 これ、禅以前の話なのかもしれない…。 たまに思いついて瞑想してみようかと、何も考えず呼吸だけに集中してじっとしていることがあるんだが、 「何も考えないぞ!」 ということを考えては、 あ、あれはやらないと…とか、 これってどれぐらいやってればいいんだろう…とか、 なんだかずっと頭の中で喋っている気がする。 身体と精神を合一して、「自らする」ではなく「自ずから成る」…という体験。 聞き齧った独学の瞑想ぐらいしかやったことのないわたしにとっては、説明言語の枠で止まっていて、身体経験としては全くピンとも来ない。 それはそれとして、 少し前にYouTubeで高橋慶彦さんが、走塁のお話をされていたんだが、あの言語化には経験こそないが、聞いていてとても納得した。 すなわち、 塁に戻る力と、進塁しようとする力、 それが塁上の自分の身体でせめぎ合って、何かの拍子にどちらかへ傾く。 それまでは静止しているように見える…というもの。 ただこの力加減、抜き具合にしても、身体が覚えている型のようなものがあって、ヘリゲルが習得していったのも、力のベクトルの向きこそ違えどそのようなものなのかな、と思ったりした。 どのみち頭で考えすぎても、バカの壁はこえられないんだろう。 弓道を習うのはハードルが高いから、 自分なりの瞑想を続けてやってみるか。

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2025/04/17

新訳版なので幾分か読みやすい印象で、『日本の弓術』もよりも具体的なやりとりが記されているが、何度読んでも暗闇の道場での逸話は震える。 「師から何度も繰り返される答え、「質問なんかしないで、稽古しなさい」という以外に聞かせてもらえないことに納得していたからである。それ故に、私は問...

新訳版なので幾分か読みやすい印象で、『日本の弓術』もよりも具体的なやりとりが記されているが、何度読んでも暗闇の道場での逸話は震える。 「師から何度も繰り返される答え、「質問なんかしないで、稽古しなさい」という以外に聞かせてもらえないことに納得していたからである。それ故に、私は問うことを止めた。」

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