商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 朝日新聞出版 |
発売年月日 | 2010/12/25 |
JAN | 9784022599728 |
- 書籍
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紀元二千六百年
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紀元二千六百年
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商品レビュー
3.8
7件のお客様レビュー
戦時中は暗く悲惨な時代とこれまで考えられてきたが、1940年頃までは観光旅行が行われていたこと、紀元2600年=1940年を迎えるにあたって、観光が帝国主義やナショナリズムを鼓舞するものとして政府や自治体・民間企業などによって積極的に使われていたことが示されている。日本ではドイツ...
戦時中は暗く悲惨な時代とこれまで考えられてきたが、1940年頃までは観光旅行が行われていたこと、紀元2600年=1940年を迎えるにあたって、観光が帝国主義やナショナリズムを鼓舞するものとして政府や自治体・民間企業などによって積極的に使われていたことが示されている。日本ではドイツやイタリアのような臣民を動員するファシズムは無かったとされてきたが、こうした観光人気をファシズムのひとつの現れ方と位置づける考察は面白い。 元号が代わり、神社界は積極的に「御朱印ブーム」を巻き起こしているが、改元・代替わり限定御朱印を出したり、そこに皇紀○○年などと書かれていたりするのを見ると、国家神道というのは今日でも根強く生き続けているように思う。筆者は、こうした万世一系思想を果たして戦後の日本人が断ち切ることをしてきただろうかと問うているが、断ち切るどころか、今の日本では強化するような潮流が見られるようになってきている。
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官民が渾然一体となって仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」としての『紀元二千六百年』 本書を読んで驚いたのは、“国威発揚”のイベントというものは、何かしらの当局がその思惑のもとに総動員を下すのではなく、いわば官と対極にある民がそこにすり寄って、補完・補強していくという構造だろう。 オリンピックを想像すればそのことは用意だ。東京オリンピックといえば1960年のそれを『三丁目の夕陽』的に思い出せばそのメカニズムを容易に把握することが可能であろう。しかし、開催中止となった1940年にも東京オリンピックは開催の手はずだった。日中戦争の激化で開催を返上したと言われるが、その1940年こそ、“国威発揚”の節目となる『紀元二千六百年』でもあった。 本書を読むと恐ろしいほどにその時代の空気を感じることができ、それが遠い世界でないことにも驚く。そして、1940年の空気には、翌年末に突入する太平洋戦争の息吹は全く感じることができない。 いうまでもなく総力戦へむけての体制の準備は着々として進んでいる。しかし、庶民の生活はそれとは程遠い現実でもあったようだ。明るい側面や活気が見えるからだ。 本書の副題は、「消費と観光のナショナリズム」。 戦後の高度成長期に日本は「明治百年」を迎える。そこでブームになるものと、1940年のそれが同じ光景……すなわち、「消費と観光のナショナリズム」であったことはこれまた驚いてしまう。すなわち、国史ブーム、大衆参加と大量消費、朝鮮満洲観光。まさに1940年の日本は戦争など予期できないイベントと金儲けの時代であったということだ。そしてその「消費と観光のナショナリズム」が日本という国家を大衆レベルで実感・共有させていく翠点となっていく。決して過去とは思えぬ筋道なのである。 さて、冒頭で言及した通り、百貨店、新聞社、出版社、レコード会社、鉄道会社などが盛んに記念行事を煽ったことは忘れてはいけないだろう。一体感を演出する記念イベントはビジネスチャンスであったということだ。広告と消費、そしてマスメディアと戦争の関りは丁寧に探究されるべき。過去を知ることが現在を映しだす。 このところ喧しいのが官か民かという二元論だが、結局のところ、「儲け」の前に、経済性に軸を置く「民」の正常性は担保されないのは現実なのかもしれない。 紀元2600年つーうのは、要するに官民が渾然一体となって仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」なんだよね(´Д` )
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聖蹟観光、植民地観光というあまりスポットのあたらない分野を通して戦前~戦中の消費やナショナリズムに焦点をあてている。戦後世代としては神武天皇の名前を教育課程で教わった記憶が無かった為一種のカルチャーショックを感じた。
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