商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | インスクリプト |
| 発売年月日 | 2010/06/25 |
| JAN | 9784900997295 |
- 書籍
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シャティーラの四時間
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シャティーラの四時間
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商品レビュー
4.4
6件のお客様レビュー
▼東京外国語大学附属図書館の所蔵状況(TUFS Library OPAC) https://www-lib.tufs.ac.jp/opac/recordID/catalog.bib/BB02779966
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※このレビューにはネタバレを含みます
『ガザに地下鉄が走る日』で紹介されていたので手に取った。エクリチュールであり、ルポルタージュ。 ジュネの「シャティーラの四時間」は全体の四分の一くらいだろうか。その他、「ジャン・ジュネとの対話(ジャン・ジュネ+リュディガー・ヴィッシェンバルト+ライラ・シャヒード・バラーダ/梅木達郎訳)」、「〈ユートピア〉としてのパレスチナ─ジャン・ジュネとアラブ世界の革命(鵜飼哲)」、「生きているテクスト─表現・論争・出来事(鵜飼哲)」、その他パレスチナ国民憲章(早尾貴紀訳)/地図/パレスチナ関連年表などが収録されている。 「シャティーラの四時間」はあまりにも凄惨な虐殺の現場、おびただしい死、死体、腐乱、蠅というものと、フェダイーンたちの周りを囲む、太陽、自由、生と美がエクリチュールとして表現されている。なるほどこういう形でなら、言語化はできるのだな。 後半紹介されている、「エクリチュールはようやくそれを、この死を言うことに役立とう。書くこと―それをつかもうとするたびに思考が崩れてしまう、この極限的な現実と向き合うこと。そして事実、シャティーラの語り手は死の後を追いかけ、死を狩り出し、死を追いつめ、死と子供のように戯れる、馬跳びや双六ゲームによって、ある死体から他の死体へと導かれながら。」という文章がまさに、という感じ。 …道理は彼らの側にある、私が愛しているのだから。だが不正のためにこの人々が浮浪の民にならなかったとしたら、この人々を私は愛していただろうか。 ... 愛(アムール)と死(モール)。この二つの言葉はそのどちらかが書きつけられるとたちまちつながってしまう。シャティーラに行って、私ははじめて、愛の猥褻と死の猥褻を思い知った。愛する体も死んだ体ももはや何も隠そうとしない。さまざまな体位、身のよじれ、仕草、合図、沈黙までがいずれの世界のものでもある …ベイルートからの帰途、ダマスの空港で、イスラエルの地獄を逃れてきた若いフェダイーンに私は出会った。年は十六、七だった。皆笑っていた。アジュルーンにいたフェダイーンにそっくりだった。彼らのように、この少年たちも死ぬのだろう。国を求める闘いは満たすことができる、実に豊かな、だが短い人生を。思い出そう、これは『イーリアス』でアキレウスがする選択なのだ。 ジュネのフェダイーンに対する眼差しは、優しさと愛に満ちている。戦士たちに対する愛が。 「ジャン・ジュネとの対話」も面白かった。 イメージの問題。虐殺のイメージと、それをデモによって対外的に払拭しようと、個人の良心の呵責からも逃れようとするイスラエル。 「<ユートピア>としてのパレスチナ」 …パレスチナ人に対する彼の「愛」とともに、政治は再び美学化されたのだろうか。それとも芸術が、かつてない形で政治化されたのであろうか。この問いが問われる<場>がもはや西洋ではなくアラブ・オリエントであるとき、とりわけ<パレスチナ>と呼ばれるとき、この問い自体が蒙る変形のことを、ジュネを読み続けつつ、私たちはさらに考え続けなければならない… 『愛する虜』も読まなくてはいけません
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高橋源一郎氏の『非常時のことば』で知って手に入れた本。鵜飼哲氏が解説で紹介しているジェローム・アンキンスの評、「死と子供のように戯れる、馬跳びや双六ゲームによって、ある死体から他の死体へと導かれながら」という言葉が、まさに的確に、この文章の特異な魅力を伝えている。うつくしく、おぞ...
高橋源一郎氏の『非常時のことば』で知って手に入れた本。鵜飼哲氏が解説で紹介しているジェローム・アンキンスの評、「死と子供のように戯れる、馬跳びや双六ゲームによって、ある死体から他の死体へと導かれながら」という言葉が、まさに的確に、この文章の特異な魅力を伝えている。うつくしく、おぞましくも、激しく心をわしづかみにする。シャティーラキャンプの虐殺の現場を歩いて、このような文章を書きのこすような人間が、ほかにいるだろうか。 最近、人文系のムズカシイ文章をさっぱり受け付けなくなっているので、正直、鵜飼哲氏の論考はほとんど理解できていないのだけど、ジュネの中で「政治」と「美学」が不可分なかたちで絡み合っていたことは、なんとなくわかる。このテキストを上演する試みがいくつもなされているというのは興味深い。それぞれの演出家は、死者たちの声にどのような肉体をあたえようとしているのだろう。ぜひ見てみたいものだ。
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