1,800円以上の注文で送料無料
レヴィナス入門 ちくま新書
  • 新品
  • 書籍
  • 新書
  • 1226-30-02

レヴィナス入門 ちくま新書

熊野純彦(著者)

追加する に追加する

レヴィナス入門 ちくま新書

968

獲得ポイント8P

在庫なし

発送時期 1~5日以内に発送

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 筑摩書房
発売年月日 1999/05/21
JAN 9784480058003

レヴィナス入門

¥968

商品レビュー

3.9

21件のお客様レビュー

レビューを投稿

2026/01/25

 レヴィナスの2つの主著、『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で』についてを主に解説する新書。「イリヤ」「顔」などのレヴィナスの用語の意味が精確に理解できるようになる。2つの著作でのレヴィナスの態度の変遷について分かりやすく説明しており、それぞれ非常に面白かった。なによりもレ...

 レヴィナスの2つの主著、『全体性と無限』、『存在するとは別の仕方で』についてを主に解説する新書。「イリヤ」「顔」などのレヴィナスの用語の意味が精確に理解できるようになる。2つの著作でのレヴィナスの態度の変遷について分かりやすく説明しており、それぞれ非常に面白かった。なによりもレヴィナスの思想の深さが伝わってきた。

Posted by ブクログ

2025/07/30

20世紀のユダヤ人哲学者レヴィナスの入門的解説書。 倫理学者の熊野純彦氏の著書で、初版は1999年である。 カントとハイデガーの訳をきっかけに、熊野氏の著書に興味を持ったが、彼自身が 「レヴィナスの仕事は自分の中で浮いていて、いつまでもレヴィナス屋さん扱いは困る」 と言っていた...

20世紀のユダヤ人哲学者レヴィナスの入門的解説書。 倫理学者の熊野純彦氏の著書で、初版は1999年である。 カントとハイデガーの訳をきっかけに、熊野氏の著書に興味を持ったが、彼自身が 「レヴィナスの仕事は自分の中で浮いていて、いつまでもレヴィナス屋さん扱いは困る」 と言っていたことが面白く感じ、本著を手に取った。 レヴィナスについての前知識は、ハイデガーに師事したがその後批判に転じた、と言うことだけだった。 非常に繊細で、細い線の上をたどるような議論の連続で難解であったが、さすが論点は分かりやすく解説されていた。 壮大な世界観は古代や近代の先人たちが行っているので、現代に近づくにつれて議論が詳細に分かれるのは必然なのだと思う。 また、フッサール(ユダヤ人)→ハイデガー(ドイツ人)→レヴィナス(ユダヤ人)という師弟関係が、20世紀前半のドイツを背景に連鎖しているのは劇的であると感じた。 人間周囲のものの捉え方として、 ハイデガーが、人間視点で人間の「ために」ある道具という世界観で見ているのに対し、 レヴィナスは、飢え渇望する人間が世界を「享受」すると捉える。 ハイデガーをナチスドイツに結びつけるのは後付けが過ぎるように感じることもあるが、このように対比すると、レヴィナスの「享受」と言うありの方が世界に馴染んでいるように感じられ、分かりやすいと感じた。 中盤以降繰り返される「エロス」「愛撫」の議論は、どうしても馴染みづらいところがあった一方、 レヴィナスと同様かそれ以上に繊細と思われる熊野氏の世界観を堪能することもできた。 身体的、特に顔についての老いやその後にある死についても、執拗に論じられ、何故そこまでという気もした。 「いま現前しているということは、《中略》すでに現前していない時の痕跡である」(p197)というレヴィナスの文章は美しかったので、顔の皺はともかく、人間として過去の蓄積としての現在の自分、と考えればもっとポジティブに捉えられたのでは?と感じた。 まだレヴィナスの思想の入口しか捉えられていないと思うので、他の著書も読んでみたくなった。 また、本著の導入部のとして書かれていた熊野氏の幼少期のエピソードも興味深く、氏の著者もさらに読みたいと思う。

Posted by ブクログ

2025/03/03

レヴィナスが『顔』『他者』『殺すなかれ』といったことを主張していたのは知っていた。私が不可解に思っていたのは、戦争の20世紀の当事者であるユダヤ人レヴィナスが、そのような楽観的とも思えることを語っていたことである。著者の説明によると、レヴィナスは『たんに「殺すなかれ」という説法を...

レヴィナスが『顔』『他者』『殺すなかれ』といったことを主張していたのは知っていた。私が不可解に思っていたのは、戦争の20世紀の当事者であるユダヤ人レヴィナスが、そのような楽観的とも思えることを語っていたことである。著者の説明によると、レヴィナスは『たんに「殺すなかれ」という説法を説いている』のではなく、『殺人が現に果てなく生起している、ぎりぎりの場所』から、『人間の生存の条件を問い、他者の意味を問い、殺人の(不)可能性を問いつめている』ということである。 レヴィナスは『他者』について繰り返し述べている。それもフッサール的な、超越論的主観性に構成される『他者』ではない。超越論的主観性に構成される世界そのものと共通項をもたず、その外部から到来する、まったく他なるものとしての『他者』である。このようなものを書いてしまうことは、それ自体一つの矛盾であるようにも思う。書くということは、書き手の主観に回収することであるのだから。必然、その書き方は否定神学を思わせるものになっている。『他者』を直接的に肯定的な言葉で表現できない以上、どうしてもそうなるのだろう。したがって、論が進むというよりも、『他者の他性』という主張が繰り返し手を変え品を変え述べられているという印象を抱いた。論理的思考をもってこれを読んで、先の私の疑問が晴れたかというと、否である。しかし何か大切なことを語ろうという強い意志を感じたのも事実だった。それを読み解く鍵だと私が思ったのは、本書の終盤で示された、レヴィナスの『じぶんは倫理を「構築」しようとしたのではない、たんにその意味を「探究」しようとしたにすぎない』という言葉である。つまり「倫理がある/ない」ということはそもそも問題にされていない。そうではなくて「倫理がある」という前提から出発して「しかし、それはどのようなものとして考えることが可能か」というのが、レヴィナスの問いだということになる。 例えば、レヴィナスは『他者の顔』あるいは『他者の他性』が殺人を禁じ、不可能にすると主張する。そして、『私には〈他者〉を殺すことができないという倫理的不可能性のうちに、〈他者〉の例外的な現前が書きこまれている』というように説明する。しかしこれでは現実に対してあまりに無力ではないかとも思う。また、私は私の死を体験しない以上、必然的に『いつでも(私ではなく)他者が死んでゆく』のであり、『私はつねに「生き延びた者」でありつづける』ので、『私は他者が死ぬことについて有罪である』といった考えや、『〈責め〉が取りつくすことのできないものである以上、〈私〉は「いっさいに責めを負っており」「他者のあやまち」にすら責めがある』といった考えに、レヴィナス自身のサバイバーズ・ギルトのようなものが見えた思いがした。その主張があまりに極端だからである。 レヴィナスに関するものを読むときにどうしても「ユダヤ人であることへのこだわり」が頭をよぎる人は少なくないと思うが、この点について非常に印象的なエピソードを著者は引いている。それによると、レヴィナスは『イスラエルとは「他の国家とならぶひとつの国家」ではない、それはむしろ「世界にたいする抗議」なのだ』と語る一方で、『パレスティナ人の虐殺にふかく困惑し、ナチスの記憶、「ホロコースト」の記憶に正当化をもとめる者たちをつよくたしなめている』ということである。このようなレヴィナスの両義的な態度は頭に入れておきたい。

Posted by ブクログ

関連ワードから探す