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「教養」とは何か 講談社現代新書
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 講談社 |
| 発売年月日 | 1997/05/22 |
| JAN | 9784061493582 |
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「教養」とは何か
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商品レビュー
3.4
25件のお客様レビュー
教養人とは世間の中で、制度や権威によることなく、自らの生き方を通じて周囲の人に自然に働きかけてゆくことができる人。世間の中で自分の役割をもたねばならない。教養とは個人単位で、自己の完成を目指すものではない。p.180
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第一章では、西洋における「私」と「公」の関係から、哲学者ハーバーマスのいう「公共性」という概念との比較で「世間」について分析している。ここは前著『「世間」とは何か』の補足のような内容だ。 第二章では「世間」から少し離れ、「教養」の歴史的な発展について、ドイツと日本における状況を比...
第一章では、西洋における「私」と「公」の関係から、哲学者ハーバーマスのいう「公共性」という概念との比較で「世間」について分析している。ここは前著『「世間」とは何か』の補足のような内容だ。 第二章では「世間」から少し離れ、「教養」の歴史的な発展について、ドイツと日本における状況を比較しながら「個人の教養」「集団の教養」にカテゴライズして論じている。 著者によると、12世紀にヨーロッパで都市が発展し、その一部の人々が職業選択の自由を行使できるようになったことでいわゆる「個人」と呼ばれるものが生まれ、第一章で述べられた「世間」の中で自分自身が「いかに生きるか」を考えるようになったことが「教養」の始まりだそうだ。 第三章および終章では、「個人」と「世間」との関係性の例として中世アイスランドの散文作品であるサガの中の一節「棒打たれのソルスティン」の話を引用し、アイスランド社会と日本の共通点と差異を提示しながら、「世間」の中での「教養」とは何かを論じている。 「教養」そのものを論じたというよりは、本書のメインテーマもやはり「世間」であって、「世間」を分析するための視点の一つとして「教養」を用いている印象だ。これは「教養」の問題と「世間」の問題が不可分だからということだが、ちょっとこじつけているような気もする。 まあ両方掘り下げているからいいんだけどね。 全体としては前著同様興味深い内容ではあったけど、本作に関していうとやっぱり少し難解だなあと思う。 発売当時行われた講演会の内容が、本書のダイジェストのような感じになっているので、挫折した人向けにはいいのかなと。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/keizaishikenkyu/2/0/2_KJ00000532536/_article/-char/ja
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教養といういかにもな翻訳語を西欧の歴史的観点を踏まえて解説した本である。 筆者は結論として、教養のある人を、「世間」における立ち位置を把握し、その中で何ができるか知っている、あるいは知ろうとしている状態と定義している。 日本では明治以降に生まれたとされる、"個として...
教養といういかにもな翻訳語を西欧の歴史的観点を踏まえて解説した本である。 筆者は結論として、教養のある人を、「世間」における立ち位置を把握し、その中で何ができるか知っている、あるいは知ろうとしている状態と定義している。 日本では明治以降に生まれたとされる、"個としての自分"に向き合うこと、そこから"どう生きるか"を考えるようになる。 そして時に排他的な集団にもなり得る"世間"で何ができるか?どうすれば良くなるか?を考え、知ることこそ教養であるとしている。 令和ではインターネットが当たり前となり、情報やコミュニティがほぼ民主化されている。 そんな今日において大小問わず開かれた"世間"は、多くの選択肢を与えてくれるからこそ、選択の自由に苦しめられないよう、自分自身で決断することもある種の教養ではないかと思いました。
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