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時間は存在しない
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時間は存在しない

カルロ・ロヴェッリ(著者), 冨永星(訳者)

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 NHK出版
発売年月日 2019/08/29
JAN 9784140817902

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商品レビュー

3.9

123件のお客様レビュー

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2025/05/05

時間って何だろうということを考える良いきっかけとなった。 考えてみると不思議なものであり、目には見えないし、感じることしかできない。その感じいているものでさえ、私たちの生きているスケールが大きすぎるあまり近似されたものであり、そもそも時間は存在しない。でもじゃあ、何で感じるの?...

時間って何だろうということを考える良いきっかけとなった。 考えてみると不思議なものであり、目には見えないし、感じることしかできない。その感じいているものでさえ、私たちの生きているスケールが大きすぎるあまり近似されたものであり、そもそも時間は存在しない。でもじゃあ、何で感じるの?という疑問に物理学に最先端を行くカルロさんが答えてくれる、そんな内容だった。 文体は詩的で扱うトピックのせいか、哲学的な内容も多く正直わかり易くはない。エッセイというジャンルだからか、物理学の数式や理論的な記述は少なく、結論や表面だけをさらっていくだけでモヤモヤする。ただ、深い議論をされたところでほとんど理解できないのだろうが。

Posted by ブクログ

2025/04/26

時間は存在しない。正確に言うと、絶対神の如く不可侵にして、あらゆる場所を平等に過ぎ去っていくと、私たちが信じている時間は存在しない。それは錯覚だ。便利な錯覚だが。現在という瞬間は私たちの地球を包む泡のようなものだ、ということだけでも面白いし、そう考えると色々納得できる。偏っている...

時間は存在しない。正確に言うと、絶対神の如く不可侵にして、あらゆる場所を平等に過ぎ去っていくと、私たちが信じている時間は存在しない。それは錯覚だ。便利な錯覚だが。現在という瞬間は私たちの地球を包む泡のようなものだ、ということだけでも面白いし、そう考えると色々納得できる。偏っている宇宙の中、たまたまエントロピーの増大によって秩序が崩壊する世界(これも錯覚。知覚できない秩序はカウントできないので、ぼんやりとしか世界を認識できない)にいる私たちは(あらゆる“私たち”のこと)変化する。故に時間を感じる。エントロピーの変化は痕跡を残し、そこに私たちは過去を知る。そして現在という粒子を珠の緒のように連ね、脳の発達のおかげで未来を予測していくのだ。なんと美しい世界なのだろう。絵を描き、音楽を楽しみ、詩を吟ずることができるのだから。過去を知覚し未来を予測することは悲しみをもたらすが、それは喜びと表裏一体のことだ。 著者が毎回古典を引用してくれるので、それを足掛かりに量子物理学という馴染みの薄い世界を垣間見ることができる。最後の方でシュトラウスとホーフマンスタールが出てきてくれたことが嬉しい。引用されている文章自体が美しいこともあるが、やはり薔薇の騎士を生み出したことが印象深いからである。オペラの花道を飾った二人なのだから、この本の終盤で引用されるにふさわしいだろう。 取り上げられているわけではないけど、オデュッセイアで繰り返し登場する台詞「いったいあなたは、どういう方で、どこからおいでか、また御国やご両親は?」は、時間と人との深い関係性を象徴しているように思えてならない。出身地や両親との血の繋がりは、そのまま時間の連続体として見ることができる。時間は存在しないとしても、そのような共通認識があるからこそ、アテーネーはオデュッセウスの子テーレマコスを助けるし、テーレマコスは旅先で混酒瓶(クラーテール)の饗応にあずかることができる。 ぼんやりとしか見えない世界から相互関係を透かし見て、その結び目として人は起こる。

Posted by ブクログ

2025/04/02
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

“するとナーガセーナは勝ち誇ったようにいう。「馬車と同じように、ナーガセーナという名前も関係と出来事の集まりを指しているにすぎない」と。 わたしたちは、時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ。 それにしても、わたしたちが独立した実体でないとすると、何がわたしたちのアイデンティティー、「自分は一つのまとまった存在だ」という感覚の基になっているのか。このわたし、カルロをまとまりあるものとし、その髪や爪や足、さらには怒りや夢をも自分の一部だと感じさせ、悩み考えさまざまなことを感じている今日のカルロが昨日や明日のカルロと同じだと思わせているのは何なのか。” 自分が何者であるのかという問いでもあり、哲学的(宗教的?)、叙述的とも言えるが難しい。 “わたしたちは、時間と空間のなかで構成された有限の過程であり、出来事なのだ。”とあるが、ある意味自分が世界だということかもしれない。 しばらくしてから、また再読したい。

Posted by ブクログ