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谷崎潤一郎フェティシズム小説集 集英社文庫
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谷崎潤一郎フェティシズム小説集 集英社文庫

谷崎潤一郎【著】

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谷崎潤一郎フェティシズム小説集 集英社文庫

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 集英社
発売年月日 2012/09/20
JAN 9784087466164

谷崎潤一郎フェティシズム小説集

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商品レビュー

3.7

37件のお客様レビュー

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2025/11/08
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※このレビューにはネタバレを含みます

谷崎潤一郎(1886-1965)の、フェティシズムを主題とするアンソロジー。収録作品は以下の通り。  「刺青」(1910)  「悪魔」(1912)  「憎念」(1914)  「富美子の足」(1919)  「青い花」(1922)  「蘿洞先生」(1925) 「刺青」「富美子の足」「青い花」は、いずれも再読だが、やはり面白い。特に「青い花」では、女性の身体とそれを包む女性の衣装に対して男が抱いているフェティシズムが見事に言語化されていて、圧巻である。 解題にドゥルーズ『マゾッホとサド』から次の言葉が引かれている。「否認と宙吊りの過程と定義されるフェティシスムは、本質的にマゾヒスムに属している」(p188)。確かに本書収録の作品を読んでいると、登場する男たちの嗜好がフェティシズムなのかマゾヒズムなのか判然としなくなってくる。他者を断片化し物化して、その他者の極微小部分に拝跪するとき、当の自己もまた、他者が断片化されているよりも一層、極微化されている。フェティシズム=マゾヒズムは、自己を無化して自己ならざる何物かに明け渡してしまうひとつの技法であり、それは矛盾律を逃れて融即律を求める、精神上の疑似自殺のようなものではないか。そして、ちょうど自殺を選択することによって逆説的に自己の最高度の自由を確認することができるように、自己を物化することによって逆説的に自己の最高度の主体性を確認しているのだろう。そこでは支配の欲望が被支配の態度によって現れており、結局のところ裏返された自己愛に過ぎないのではないか。  「刺青」 「その女の足は、彼にとって貴き肉の宝玉であった。拇指から起って小指に終る五本の指の整い方、絵の島の海辺で獲れるうすべに色の貝にも劣らぬ爪の色合い、珠のような踵のまる味、清冽な岩間の水が絶えず足下を洗うかと疑われる皮膚の潤沢。この足こそは、やがて男の生血に肥え太り、男のむくろを蹈みつける足であった。」(p12)  「富美子の足」 「僕は一人の男子として生きているよりも、こんな美しい踵となって、お富美さんの足の裏に附く事が出来れば、その方がどんなに幸福だかしれないとさえ思いました。それでなければ、お富美さんの踵に蹈まれる畳になりたいとも思いました。僕も生命とお富美さんの踵と、この世でどっちが貴いかといえば、僕は言下に後者の方が貴いと答えます。お富美さんの踵のためなら、僕は喜んで死んでみせます。」(p117)  「青い花」 「彼はあぐりを愛しているのか? そう聞かれたら岡田は勿論「そうだ」と答える。が、あぐりというものを考える時、彼の頭の中はあたかも手品師が好んで使う舞台面のような、真ッ黒な天鵞絨の帷を垂らした暗室となる、――そしてその暗室の中央に、裸体のような女の大理石の像が立っている。その「女」が果してあぐりであるかどうかは分からないけれども、彼はそれをあぐりであると考える。少なくとも、彼が愛しているあぐりはその「女」でなければならない、――頭の中のその彫像でなければならない、――それがこの世に動き出して生きているのがあぐりである。今、山下町の外国人街を彼と並んで歩いている彼女、――その肉体が纒っているゆるやかなフランネルの服を徹して、彼は彼女の原型を見る事が出来、その着物のしたにある「女」の彫像を心に描く。一つ一つの優婉な鑿の痕をありありと胸に浮かべる。今日はその彫像をいろいろの宝石や鎖や絹で飾ってやるのだ。彼女の肌からあの不似合いな、不恰好な和服を剥ぎ取って、一旦ムキ出しの「女」にして、そのあらゆる部分々々の屈曲に、輝きを与え、厚みを加え、生き生きとした波を打たせ、むっくりとした凹凸を作らせ、手頸、足頸、襟首、――頸という頸をしなやかに際立たせるべく、洋服を着せてやるのだ。そう思う時、愛する女の肢体のために買い物をするという事は、まるで夢のように楽しいものじゃないだろうか?」(p155-156) 「西洋の女の衣裳は「着る物」ではない、皮膚の上層へもう一と重被さる第二の皮膚だ。外から体を包むのではなく、直接皮膚へべったりと滲みこむ文身の一種だ。――そう思って眺める時、到る所の飾り窓にあるものが皆あぐりの皮膚の一と片、肌の斑点、血のしたたりであるとも見える。彼女はそれらの品物の中から自分の好きな皮膚を買って、それを彼女の皮膚の一部へ貼り付ければよい。〔略〕。可愛いあぐりよ! あそこにある物はみんなお前という「女」の彫像へ当て嵌めて作られたお前自身の抜け殻だ、お前の原型の部分部分だ。青い脱け殻でも、紫のでも、紅いのでも、あれはお前の体から剥がした皮だ、「お前」をあそこで売っているのだ、あそこでお前の抜け殻がお前の魂を待っているのだ」(p158-159)

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2025/07/24

今年の谷崎は変態集。若い頃に読んだ「刺青」は清吉ヤベェなくらいにしか思わなかったけど今読むと どっちも変態だ!になる(語彙の向上なし) 「悪魔」が色々と怖気立つ。 膝裏から脹脛、足首にかけての曲線が堪らなく好きで(聞いてない

Posted by ブクログ

2025/02/28

“フェティシズム”という括りで集められた6編の短編ですが、「刺青」「富美子の足」「青い花」以外はフェチと言うより精神分析の話のように思えました。 「刺青」 谷崎潤一郎のデビュー作。 初めて読んだのはおそらく中学時代。感想は当時とあまり変わらない。よく言えば様式美、悪く言えば頭で...

“フェティシズム”という括りで集められた6編の短編ですが、「刺青」「富美子の足」「青い花」以外はフェチと言うより精神分析の話のように思えました。 「刺青」 谷崎潤一郎のデビュー作。 初めて読んだのはおそらく中学時代。感想は当時とあまり変わらない。よく言えば様式美、悪く言えば頭でっかちな印象を与えるフェティシズム小説。 晩年の「瘋癲老人日記」まで足フェチを貫き通す大谷崎先生に大変失礼な感想だが、そう思ってしまったのだから仕方がない。 「悪魔」 後半は確かにフェティシズムの話なんだけど、前半の電車恐怖症とでも言うべき主人公の症状が気になってしまいます。今で言えばパニック障害?いや脅迫性障害?。なんか現代医学で治療を受けて欲しいような、、、 その強迫観念に後押しされて、後半主人公は一気にフェティシズムに取り憑かれます。対象は従姉妹の照子。 とは言え、やってる事は照子の鼻汁がついたハンカチを持ち歩き舐め回すというソフト?なもの。 やはりフェティシズムよりも、その発露の原因となった脅迫性障害のほうが気になりますね。 「憎念」 手代に折檻される丁稚の醜い鼻の孔を見た事をキッカケに、丁稚の小僧が虐められるところを見たくて見たくてたまらなくなってしまう坊ちゃんの話。幼少期の谷崎潤一郎の実家が裕福だったことから、実話?と勘繰ってしまう。成長と共にいじめの対象が女性に変わっていくのが興味深い。 「富美子の足」 絶対領域など足フェチの風上にもおけぬ。谷崎先生がこだわるのは踝より先、踵や甲、そして足指なのでございます。 「真直ぐな、白木を丹念に削り上げたようにすっきりとした脛が、先へ行くほ段々と細まって、踝の所で一旦きゅっと引き締まってから、今度は緩やかな傾斜を作って柔かな足の甲となり、その傾斜の尽きる所に、五本の趾、、、」以降6ページにもおよぶ富美子の足の描写がなんとも素晴らしいです。 なんでもこの作品、映画化されているらしいです。映像でこの谷崎の熱量を超えることは不可能にも思えるのだけど、はたしてどうなんだろう。 「青い花」 洋装というものはここまでフェティシュなものだったんですね。 「靴屋の店、帽子屋の店、宝石商、雑貨商、毛皮屋、織物屋、……金さえ出せばそれらの店の品物がどれでも彼女の白い肌にびったり纏わり、しなやかな四肢に絡まり、彼女の肉体の一部となる。――西洋の女の衣裳は『着る物』ではない、皮膚の上層へもう一と重被さる第二の皮膚だ。外から体を包むのではなく、直接皮膚へべったりと滲み込む文身の一種だ。」 大正時代に戻って、この高揚感を味わってみたいものです。 「蘿洞先生」 フェティシズム小説(と言うかSM小説?)として捉えるとなんとも物足りない。蘿洞先生と小女のプレイはラスト2ページにも満たずチラ見せで終わってしまう。金返せ!(笑) だとすると、主題はその前の記者と先生のやり取りにあったのか?記者自身がコンニャク問答と言うだけあって、蘿洞先生は何を聞かれてもほとんど応えていない。私生活についても政治についても「う、」とか「あー」とか言うばかり。うーむ、答えないことに意味があるのだろうか。謎な作品。 なんでも「続蘿洞先生」という続編があるらしいのだが、、、

Posted by ブクログ