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善悪の彼岸 新潮文庫
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商品詳細
内容紹介 | |
---|---|
販売会社/発売会社 | 新潮社/新潮社 |
発売年月日 | 1983/01/01 |
JAN | 9784102035047 |
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善悪の彼岸
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商品レビュー
3.6
17件のお客様レビュー
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
「ツァラトゥストラはかく語りき」は読み、二冊目として読んだ本。 「ツァラトゥストラ〜」はそれほど良い本と思えなかった。お話としては面白いが、内容としてはあまりピンと来なかった。例えば「神は死んだ」と書いてあるが、現代人からしたら、神が死んでいるのは当たり前であって、それほど新規性があるようには思えなかった。 もちろん自分の感覚が間違っているのだろうと思って、読んだのがこの「善悪の彼岸」 しかし、余計わからず。全体としては同時代のヨーロッパ人を非難しているようだが、自分はヨーロッパ人ではないので、今ひとつ言っている意味がわからなかった。 さらに、訳が古めかしくて読みづらかったことが、なおさら理解を妨げたと思う。 レビューというのは難しく、それぞれの立場で評価をつけるしかなく、つまり私であれば現代の学のない純日本人という立場であるので、この本は星二つとなってしまう。評価なしにすることも考えたが、別に私の評価など誰も気にしないだろうから、素直に書くことにする。
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善悪の彼岸 (和書)2009年02月03日 16:54 1954 新潮社 ニーチェ, 竹山 道雄 ニーチェの本は何冊か読んだけど、意外と読み易いと感じています。食わず嫌いなところもあったのかも知れません。他の本もどんどん読んでいきたい。 この本にはたくさんの貴重な言葉があり...
善悪の彼岸 (和書)2009年02月03日 16:54 1954 新潮社 ニーチェ, 竹山 道雄 ニーチェの本は何冊か読んだけど、意外と読み易いと感じています。食わず嫌いなところもあったのかも知れません。他の本もどんどん読んでいきたい。 この本にはたくさんの貴重な言葉がありますがその一つを引用してレビューを終わりたいと思います。 ●二八五 『最大の事件と最大の思想は-しかして最大の思想は最大の事件である-理解されるのがもっとも晩い。時を同じゅうする世代は、かくのごとき事件を体験しない。かれらはただそのかたわらに生きて過ぎゆくにすぎない。ここに星の世界に似たことが起こる。もっとも遠い星の光は人間に達することがもっとも晩い。それが達する前には、人は彼方に星があることを否定する。「この精神が理解されるには幾世紀を要するか?」-これも一つの尺度である。人はこれをもって必要な階位と待遇を定める。精神のためにも、星のためにも。』
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2012年版。 まるで唄うような文に潜む毒。ニーチェにとって考えるということは、こういう実践だったのだと思う。だが、この魅力が、ニーチェ語録なるものを生み出し、彼の与える毒を考えずに無条件にありがたがるという害悪を作り出してしまっている。 考えるということは、決して抽象的で非現実...
2012年版。 まるで唄うような文に潜む毒。ニーチェにとって考えるということは、こういう実践だったのだと思う。だが、この魅力が、ニーチェ語録なるものを生み出し、彼の与える毒を考えずに無条件にありがたがるという害悪を作り出してしまっている。 考えるということは、決して抽象的で非現実的なものではない。考えるという自体が実践なのである。彼にとって、本能と理性という分断はない。あるのは、力への意思というものだ。そうせずにはいられない服従と同時に、誰にも泥まない、孤高の理性。それこそが、唯一の彼にとっての真実なのである。 どこかにイデアと呼ばれるものがあるのではなく、この自分こそが、真実なのだ。彼がプラトンを毛嫌いするのは、彼が、イデアと呼ばれるものをことばにしてしまったからである。 彼は、決してそれまでの哲学やなにやらをぶち壊そうとしてはない。彼の述べていること以上に当たり前のことはない。だが、彼のことばは、他の哲学者にはない響きがある。哲学とは、何か目先の興味を満たしたり、人受けしたりするようなものでは決してない。当たり前が当たり前であることに驚いてしまう、それを知ることによって、世界が、生きることが、変わってしまうことを伝えたいのだ。この流れるような歌こそ、彼が生きて伝える精神である。これこそが、彼の仮面である。その驚きを伝えるためにはどうしても、うそを言わねばならない。そのうそを真に受けて、高貴な孤高を取り違えて超人思想なるものに正当性を与えた彼には、大きな罪があると言える。仕方のないことではあるが。 おそらく、発狂したというけれど、考えるということ書くという行為に賭けて、彼ほど冷めていたものはいないような気がする。鳴りやまぬツァラトゥストラの声に圧し潰されながらも、それがツァラトゥストラゆえに、自ら歌うよりほかないという苦しみを自らに課して、彼は書くことをやめなかった。それこそ、道徳なのである。どこかから与えられるものでは決してない。それは、従わざるを得ない、信じずにはいられない強い力で、自らに沸き起こってくるものなのである。その強い呼び声に従う時、ひとは善悪の彼岸へと至るのである。 彼は自らの意志を信じ、善悪の彼岸に飛び込んだまま戻ることはなかった。だが、彼はそんな場所などどこにもないということに気づいていたのだろうか。善悪の彼岸が、力への意志が生まれ、そして還るのもまた、この自分自身であるということを彼は信じきれなかったのか。彼には、ツァラトゥストラの声を抱きしめることができなかったのか。 巻末に、訳者による節ごとのまとめなるものが記されているが、これはニーチェ入門などには決してならない。難解にしてしまているのは、偏にに自分のせいだ。真にわからないということは、ことばにならないはずである。安易に二元論的だとか構成主義的だとかそんなのでまとめてしまっては、彼のことばはいつまでたっても決してわかることなどないだろう。
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