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嗤う日本の「ナショナリズム」 NHKブックス1024
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 日本放送出版協会/ |
| 発売年月日 | 2005/02/25 |
| JAN | 9784140910245 |
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嗤う日本の「ナショナリズム」
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商品レビュー
3.6
21件のお客様レビュー
- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
あの時の時代だけではなくて、人間の性質と置き換えて見ることもできて、それもよかった。 今のSNSでも同じような構造と反転が見られる。アカウント枠から、かっこいいものを載せるよう要請されているわけだから。媒体、憑依、素の熱、こういった作りが見える。立憲主義的な、守破離的な、過去を捨てないことで現在にそれを召喚でき、未来に繋げられる。要は資本主義の無限サイクル、新しいラベルを張り替える作業のせいで、未来に行けなくなっているし、この本で解説されていた時代の癖、転倒が起きるのだと思う。 個人的な書留 僕の場合は好きなことをやると最後まで行けない。ドーナツのようなもので、頭で、言葉で説明できるものは言葉の説明に限界がこない。そのように好きなものは、こだわりがあって崩せない。つまり、うまくやれない。こうやれば売れるのにとかそういった展開ができない。 明確に好きなことはダメだが、無意識的なもの、それをやっても嫌じゃないし好きらしいようなこと。そういうものは理屈が湧いてこない。言葉にできるようなことではなく頭はやや外せるので、余計な口出しをさせないで済む。言葉で説明できるものはその重力から抜け出せない。でも言葉にならないような好きなものは、勝手にやれる上に変なこだわりもなくやれるし、うまくいく。 頭で狙ったものはドーナツの穴の部分で、いくら頑張っても終わりがない。読書が好きだが一生かかっても終わらないと思う。そうではなくて終わりのあるものをやれている時にうまくいく。言葉や頭を外せるので、いうならば菩薩状態でやれる。そのように「それ」ではないもの。「それ」の外に、なんとなくだけど間違いないく好きなものがあり言葉にしなくて済む。そのドーナツの実の部分でうまくいく。 終わりがあるだろうと思っているもの。終わりのないものは穴の部分だし。 まあそういった感じの頭のこだわりが、いうならばズッコケが作ってきた60年代以降が説明されているのかなと思った。頭が信じているのだから、頭を外せないよ。信じていたら煩悩、越えられない。
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殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよい...
殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよいのでしょうか。こうした、皮肉でありながら感動を志向するという対照的な態度の共存は、若者の間に広がる「この私」と「世界」との直結という現象にも見られると著者は述べます。本書は、連合赤軍事件以後の「反省」のあり方の変容をたどることで、こうした問題に答えようとする試みです。 連合赤軍事件の内部で進行したのは、「総括」と呼ばれる自己否定の無限のプロセスでした。その後、自己否定という反省の形式から距離を置く「抵抗としての無反省」の時代だがやってきます。著者はその象徴的な存在を、コピー・ライターの糸井重里に見ています。彼が生み出した数々のコピーは、単に商品を代理・再現する役目を離れ、それ自体が商品の価値を構築するものとなっていきました。糸井は、消費社会的な資本主義を与件として受け止めながら、世界を記号の集積体として相対化するアイロニズムの戦略を彼が取っていたと著者は論じています。 ところが80年代になると、こうした「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が脱落してしまうことになります。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、テレビ的な「お約束」を顕在化させてテレビそのもののパロディを作り出す手法が使われました。これは、「お約束」を「お約束」として相対化できるリテラシーをもった視聴者の存在が前提となってはじめて成立する番組だと言えます。ここに至っては、アイロニカルなポジションに立つことは、もはや距離を置くべき相手に対する「抵抗」の意味を失っており、テレビ視聴というきわめて日常的な課題をこなすための前提になっていると言わなければなりません。 現代において「メタ」と「ベタ」が直結する土壌は、この頃に作られたと著者は言い、こうしたテレビのあり方に抵抗したナンシー関の試みを高く評価しつつも、テレビと馴れ合いつつテレビに冷笑を向ける感性が80年代を通じて育まれていったと論じています。「2ちゃんねる」という空間を支配しているのは、こうした感性に基づく内輪的なコミュニケーションを、ひたすら再生産してゆくための「文法」としてのアイロニズムではないかと著者の主張しています。
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この本も同じ、2ch的な極私的文脈とアホみたいなニッポンコールがどうして結びつくかというのを解こうとして、ちょっと社会学的な衒学の調味料を使って、何とか学問的に見せているというセコい内容。
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