嗤う日本の「ナショナリズム」 の商品レビュー
殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよい...
殺伐としたコミュニケーションが展開される「2ちゃんねる」の書き込みは、一見したところ、あらゆる対象から距離をとる「メタ」の立場から語られているように思えます。しかし、その「2ちゃんねる」から『電車男』という「ベタ」そのものの感動物語が生まれたという逆説を、どのように理解すればよいのでしょうか。こうした、皮肉でありながら感動を志向するという対照的な態度の共存は、若者の間に広がる「この私」と「世界」との直結という現象にも見られると著者は述べます。本書は、連合赤軍事件以後の「反省」のあり方の変容をたどることで、こうした問題に答えようとする試みです。 連合赤軍事件の内部で進行したのは、「総括」と呼ばれる自己否定の無限のプロセスでした。その後、自己否定という反省の形式から距離を置く「抵抗としての無反省」の時代だがやってきます。著者はその象徴的な存在を、コピー・ライターの糸井重里に見ています。彼が生み出した数々のコピーは、単に商品を代理・再現する役目を離れ、それ自体が商品の価値を構築するものとなっていきました。糸井は、消費社会的な資本主義を与件として受け止めながら、世界を記号の集積体として相対化するアイロニズムの戦略を彼が取っていたと著者は論じています。 ところが80年代になると、こうした「抵抗としての無反省」から「抵抗としての」が脱落してしまうことになります。「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」では、テレビ的な「お約束」を顕在化させてテレビそのもののパロディを作り出す手法が使われました。これは、「お約束」を「お約束」として相対化できるリテラシーをもった視聴者の存在が前提となってはじめて成立する番組だと言えます。ここに至っては、アイロニカルなポジションに立つことは、もはや距離を置くべき相手に対する「抵抗」の意味を失っており、テレビ視聴というきわめて日常的な課題をこなすための前提になっていると言わなければなりません。 現代において「メタ」と「ベタ」が直結する土壌は、この頃に作られたと著者は言い、こうしたテレビのあり方に抵抗したナンシー関の試みを高く評価しつつも、テレビと馴れ合いつつテレビに冷笑を向ける感性が80年代を通じて育まれていったと論じています。「2ちゃんねる」という空間を支配しているのは、こうした感性に基づく内輪的なコミュニケーションを、ひたすら再生産してゆくための「文法」としてのアイロニズムではないかと著者の主張しています。
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この本も同じ、2ch的な極私的文脈とアホみたいなニッポンコールがどうして結びつくかというのを解こうとして、ちょっと社会学的な衒学の調味料を使って、何とか学問的に見せているというセコい内容。
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良く分からないところ多数。 赤軍 自己批判・自己欺瞞・自己否定 ずいぶん懐かしい言葉だと感じた。 学生運動 原動力は何だったのだろう?
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60年代生まれの私にピッタリの本である。 浅間山荘事件のテレビ生中継に釘付けになり、オールナイトニッポンを聴きながら大人の仲間入りをした気になって、「おれたちひょうきん族」、「元気が出るテレビ」を観て、テレビってここまでやって良いの?と目から鱗が落ちた。PARCOのコピーに踊らさ...
60年代生まれの私にピッタリの本である。 浅間山荘事件のテレビ生中継に釘付けになり、オールナイトニッポンを聴きながら大人の仲間入りをした気になって、「おれたちひょうきん族」、「元気が出るテレビ」を観て、テレビってここまでやって良いの?と目から鱗が落ちた。PARCOのコピーに踊らされて消費社会のお手伝いをして、2ちゃんねるを覗いて多様な意見があることを学んだ。 流行ものに手を出すのが好きなので、その流行を作り出す人たちにまんまと踊らされてきた訳だ。負け惜しみではなく、別に悔しい訳ではない。むしろ楽しかった。自分が過ごしてきた時代を総括してくれる本に出会ってスッキリした気がする。 消費社会、メディアを通じてアイロニカルなモノの見方をするのは、我々の世代にとって必然であった。さらに景気や政治情勢などによって、本当の世代というものは形成されるであろうが、サブカルの視点からの社会学的分析は非常に面白かった。
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イラク人質事件の頃、「あれって、自作自演なんでしょ?」という声を、現実の耳で聞いて驚いたことがあった。会社の隣の島で、女性が得意げに話していた。ネット上ではそういう現実の「ネタ化」が日常茶飯事だったし、そういう料理の仕方にも慣れ親しんでいたのだが、私にはあまりにも「下品」に思え...
イラク人質事件の頃、「あれって、自作自演なんでしょ?」という声を、現実の耳で聞いて驚いたことがあった。会社の隣の島で、女性が得意げに話していた。ネット上ではそういう現実の「ネタ化」が日常茶飯事だったし、そういう料理の仕方にも慣れ親しんでいたのだが、私にはあまりにも「下品」に思えたので、現実に耳で聞いたときは思わず振り返ってしまった。とうとう現実に2ちゃんねるが侵入してきたのか、と感じた瞬間だった。 「嗤う」という態度ですべてを斬る「2ちゃんねる」。ところが、ベタな恋愛モノである『電車男』にはまってしまうのも2ちゃんねるの住人だ。この、奇妙なシニズムとロマン主義の精神構造はいかにしてできたのか? 著者は「反省」というキーワードを軸に、71年の「あさま山荘事件」から、現代までつらなる変化を描き出している。 著者が導入した「反省」というキーワードは、かなり成功しているように見える。また、「シニズムの変容」の例として解説されている、ナンシー関(この人の視線と文体が、若者世代に与えた影響は大きいと思う)についての論考もおもしろかった。 「2ちゃんねる」化する現実に、どう対処していくか。2ちゃんねるは嫌いじゃないけど、あまりにもあっけらかんと「嗤うナショナリズム」になじむことはできない。そんな今の自分の心境を整理するためにも、現状分析としてこの本は興味深く読めた。私は著者とかなり年齢が近いので、そういう意味で共感することも多いのかもしれない。若者にとまどいつつ、上の世代とはなじめない、30代の読者にぜひおすすめ。
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講義のため読了。 この人の本の書き方、 "意味不明な横文字文章"ーすなわち、"わかりやすい文章"、がなかったら読めなかった。確実に辞めていた。初めて耳にする横文字だらけで、社会学なら普段から触れているのだろうけど、経済学の言葉はわかりやすいとどうでもいい感想。 同時に、事例研究なので「そんなん取り上げるもの次第やんけ」とは思ったけど、あとがきでそこに触れていたので、まぁキリがないのは事実やけど。100個事例あげたら真実味があるけど99個やとないな、というわけではないからな。 「事件」は一つで十分だと思う。連合赤軍みたいな。そこに至るまでの過程がたくさんあるし、その分事件という形で表れてきたものを検証する意味は大きいと思うが、人間を対象とする場合、ちょっと難しいような。際立った思想、みたいなことはちょこちょこ放出していくわけで、どうしてもグラつく日もあるやろ まぁ、ちょっとレポート書くつもりやけど、もう少し時間的に余裕があるので別の本も読んで書いていこうと思う。
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2005年刊ということで、かなり状況も変わっているだろう。うーん、かなり頑張って読んだのだが、ちょっと違うんじゃないか、という気がした。
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7年前にインターネットにおけるナショナリズムの勃興を検証した一冊。 系譜学の手法によって60年代末の連合赤軍の総括から05年のぷちナショナリズムまでの思想的な流れを追っていく。 2012年に当時の現代社会分析を読むことで、現在の「ナショナリズム」の05年当時の立ち位置がわかって...
7年前にインターネットにおけるナショナリズムの勃興を検証した一冊。 系譜学の手法によって60年代末の連合赤軍の総括から05年のぷちナショナリズムまでの思想的な流れを追っていく。 2012年に当時の現代社会分析を読むことで、現在の「ナショナリズム」の05年当時の立ち位置がわかってとても有意義であった。 60年代から90年代にかけて、マルクス主義やメディアといった審神者がアイロニーを通して打ち破られる事によって、「何も信じない」という価値観だけが残り、世界と唯一裏切らない実存としての「私」が直接向き合うことを余儀なくされるまでの過程が明らかにされている。この「セカイ系」的感覚がアイロニズムに強いられたものだという指摘は面白かった。60年代から80年台に至る否定の連鎖の結実として2ちゃんねるが存在するという指摘は、2ちゃんねるでしばしば語られてきた団塊の世代に対する怨嗟やバブル世代に対する侮蔑といった戦後日本人の「生き方」の否定についてその根源を指摘できていることからも著者の議論は私にとってはとても説得力を持つように感じられた。 翻って現在について考えてみると、ロマン主義的アイロニズムからより「ナイーブなロマン主義」に移行してきているように感じられる。 否定連鎖の結実として裸一貫でセカイと向き合うことになった私達であるが、結局自らが抱える実存的悩みを独りで受け止めるということも出来なかったのだと思う。そしてその逃避先として「私と分かり合える『仲間』」といった小規模なつながりのもとで日常を暮らし、分かり合えないものについては無視をし、排除をするという社会を構築しているように思われる。「SNS」の登場はその『仲間』のみがいる日常のつながりを加速させる装置として働いている。 一方で周辺諸国の国際的地位上昇に伴い、日本の比較優位が不安定になる中で『仲間』共同体としての日本が強調されるようになってきた。現在のともすればレイシズムや歴史修正主義すれすれのナショナリズムが寛容される下地は、『仲間』の論理を優先している現代日本の状況を表しているのではないか。 著者は本書にて「ぷちナショナリズム」についての評価をペンディングしているが2012年現在の「ぷちナショナリズム」はロマン主義から実体を持つものに変化する兆しを帯びており、嫌な雰囲気を匂わせているのである。
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テレビとかマスメディアを叩くのって、単にマスメディアがダメだからとか言うだけではダメかなと思った。本書を読むとマスメディアを叩くというアイロニカルな態度そのものが60年代~(あるいはそれ以前から?)の日本の社会の通奏低音となって引き継がれていることが分かる。私が実際に経験したのは2ちゃんねるぐらいで、本書に出てくるサブカルチャーをあまり知らないせいかもしれないが、ちょっとサブカル系固有名詞が多くて読みづらかった。以下、読書メモ。 1章 ---- 連合赤軍による「総括」は、到達不可能な自己へ至る、限りない自己否定(反省)のプロセスである。「革命のために死を賭すことができるか?」という問いかけに答えることは本質的に不可能。なぜなら、生きているものは生きているがゆえに死を賭していないとなるか、「敗北死」した、ということになるかのどちらかであるから。連合赤軍の森恒夫は自己の総括によって仲間のもらい泣きを誘ったことによって、身体的に肯定された。 このときから森は死にながら生きるもの(=ゾンビ)としての身体性を獲得した。結局「総括」とは、歴史をめぐる主体性の問題(唯物史観に対する、毛択東/サルトル的主体性の獲得)から離れて無限に自己を反省しなおすオートマティックなプロセスになった。無限に自己を反省しなおすプロセスとはアンソニー・ギデンズのいう「再帰的近代」の理論で説明される。 再帰的近代=近代以前には歴史とか伝統は所与のものであり、それに背くような出来事は「神の怒り」とかで片付けられた。近代に入って歴史・伝統に対して、私達は参照しながらも、それを再帰的に再生産しているのだという認識が生まれた。 連合赤軍の「総括」がただ頭のおかしい人たちのいかれた行為なのではなく十分に「合理的」な行為であったという点に注意すべき。 2章 ---- 60年代的反省を反省する「無反省」な態度の象徴的存在が糸井重里であった。「好き/嫌いが判断基準で、他の人が嫌いだろうと自分が好きだったら良い」という相対主義的な態度は「コピーライターの論理」(=言葉の主体性。現実世界を正しく反映するものとしての言葉ではなく、それ自体現実を変えていく力がある)を基盤としている。70年代的アイロニーはコピーライターの論理によって、過剰なメタ指向に向かう。一方オタク的共同体主義的な指向(膨大な文脈を読み、閉じた共同体内でしか分からない笑いを共有する)もこのころ。 3章 ---- メタ/ベタの両方に足を踏み入れながらそれを笑いとしてしまう「ユーモア」とベタでありつつメタを偏執狂的に指向してしまう「アイロニー」。「ビックリハウス」の消費社会的アイロニーは、テレビで反復され、80年代のテレビは「お約束」を嗤うことによって視聴者を獲得していった。川崎徹的「アイロニー」が糸井重里的「ユーモア」を打ち負かしたのが80年代であった。80年代のテレビは、テレビという虚構をネタ(=虚構)として楽しむ「純粋テレビ」である。このようなテレビを楽しむためにはアイロニカルな視点、虚構を虚構として楽しむリテラシーが必要である。このようにしてアイロニカルな嗤いの共同体が広まった。アイロニーの方法論が形式化して大衆に広まっていった。(「サラダ記念日」)このような形式主義は連合赤軍の総括の回帰であるようにも見える。 4章 ---- なぜ2ちゃんねるはアイロニーと「電車男」のようなベタな感動が共存することができるのか?メディアそのものを嗤う2ちゃんねらーには、「虚構を信じる他者/虚構を信じない自分」という二重化ができない。なぜなら、80年代のテレビが担った「虚構を信じる他者」を与えてくれる超越者を持たないからである。2ちゃんねらーにとっての他者は、自分に接続する可能性のある、希薄な他者であり、自分は絶えず、アイロニストとして振舞わなければならない。認知の水準/行為の水準、ベタ/ネタの区別が失効した、アイロニカルであることが困難な状況の中でアイロニカルたろうとする絶望的な試みがロマン主義的シニシズム(内面なき実存主義)となって現れる。
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大学4年の時に読んだ本。「2ch化する社会」「皮肉と感動の共同体」としての日本社会論。60年代安保闘争以降のアイロニカルな感性の変容。ここ最近の嫌韓流やら炎上マーケティングやら思うところあって再読してみる。
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