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老いの流儀
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老いの流儀

吉本隆明(著者), 古木杜恵(その他)

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老いの流儀

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 日本放送出版協会/
発売年月日 2002/06/24
JAN 9784140806340

老いの流儀

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2022/10/17
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向こう側から見る-親鸞の還相    -2008.05.27記 吉本隆明の「老いの流儀」-NHK出版-のなかに、親鸞の思想、とりわけ「還相」の捉え方を分かり易く説いてくれている一章がある。以下はその論旨に沿って要約してみたもの。 親鸞の場合、「本当の死」とは、肉体の死でもなく精神の死でもない。「ある場所」だという解釈をしている。それは実体化した死とも実体化した浄土とも異なる場所であり、これを親鸞は仏教用語で「正定聚の位」と云う。 比喩で云うなら、王や天皇になる前の皇太子のようなもので、王や天皇が退位-大概は死ぬことだが-すれば、これを継承することは約束されている。ある場所-正定聚の位とは、そういった約束された場所であり、そこへ行けば浄土へ行ける、それが「本当の死」だということで、「現世」と「来世」の間にある「ある場所」なのだ、と。 親鸞の師である法然は、ひたすら念仏を唱えれば、必ず浄土へ行ける、とした。ところが、親鸞の他力本願は、念仏を唱えれば浄土-来世-に行けるというのではなく、「ある場所」に行けると云っているのだと思う。さらに、その「正定聚の位」から「現世」の人にまみれて生きることができたときに、初めて衆生-民衆-の救済は可能になる、というのが親鸞の考え方だ。念仏を唱え、「正定聚の位」に行って、そこから帰ってこなければならない。帰ってきたときに初めて救済の問題は出てくるのであって、そうでないかぎりは、どんな救済も不徹底なものでしかない。ひとたび「正定聚の位」まで行って、そこから帰ってきて人々の中にまみれたときに、初めて徹底的に人を助けおおせることができるのだ、と。 宗教者ではない立場から見れば、親鸞が云うこの「ある場所」とは、ある精神の場所というか観念の場所ではないか。現実のわれわれが物事にぶつかるとき、それはいつもこちら側から向こう側に、である。だがもし「向こう」から、あるいは「背後」から、また未来からその出会いを見られたら、その向こうからが「死」という場所だろう。向う側からの視点、それは、いわゆる生きている「生」でもなければ、息絶えた「死」でもない、「ある場所」であり、そこから見ることなのだ。 そのある場所からなら、死や未来にあるべき姿を全体のイメージで見られるのではないか、生のこちら側から見ても、ある程度は見当もつくが、すべてが分かることはありえない。向こう側から見ること、向こう側の「ある場所」から見られるとすれば、完全に事柄の全体像が分かるはずだ、と。 ※「正定聚-ショウジョウジュ-」とは、岩波仏教辞典に拠れば、 正性決定-ショウジョウケツジョウ-とも云い、まさしく悟りが決定している人またはその位を意味する。親鸞は「信心定まるとき往生また定まるなり」-未灯鈔-と云い、無量寿経に「即ち往生を得、不退転に住す」とある「即得往生」とは、此の世-現世-において正定聚に住することである、と現世正定聚ということを強調する。「信心の定まらぬ人は、正定聚に住したまはずして、うかれまひたる人なり」」-未灯鈔-、とある。

Posted by ブクログ

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