両方になる の商品レビュー
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※このレビューにはネタバレを含みます
いろんなところで賞賛されているのを見て読んだ。ギミックに目を奪われながらも強い物語性を感じる話でオモシロかった。過去と現在をクロスさせながら今の社会における課題を相対化させて小説として表現する語り口の新鮮さがあった。 15世紀のイタリアに住む画家、21世紀のイギリスに住む女の子を主人公として二部から構成されえている。時代も場所も年齢もすべて異なるものの、その二つの物語によってこの小説が完結するようになっていて相互に支え合うようなイメージ。両方ともに魅力があるのだが、個人的には過去パートが好きだった。15世紀の絵描きの生活が中心としつつ幽霊と化して現代へ浮遊する描写があって現在の私たちの生活の奇妙さをアイロニーを交えて描いている点がオモシロかった。たとえばスマホについてはこんな感じ。 *人々がそんな石盤(タブレット)や聖像(アイコン)を覗いたり、そこに語り掛けたり、頭の横に当てて祈ったり、指でなでたり、ただじっと見詰めたりしているのはきっと、彼らの絶望の深さを示しているに違いない だからこそ、彼らは自分たちの世界から常に目を逸らし、熱心に聖像を眺めているのだ* 役割に応じた賃金が支払われない、性別によって差別される。そういった今でも問題になっていることを当時の社会状況に応じて描き出しているのが興味深い。公爵に「私の絵の対価はこんなものではない」と手紙を書く、本当は女性だけど男性でなければ絵描きの仕事がもらえないから男装しているなど。「やっぱ五、六百年前だから前時代的だよね〜」と笑ってられなくて2024年の今でも眼前に同じ問題がある。そうやって時間をスケールにして相対化させて人類の進歩のなさについて、未来への希望とアイロニーで語っているところが好きだった。また句点がないのも特徴的で訳者あとがきで指摘された構造のギミックに対する解釈で納得した。 現在パートも意味深な内容が多く、まずジョージという名前で女の子という時点で察するものがある。この性別に関するギミックが最たる例だがタイトルのとおり両方になる、つまり安易な二項対立に対して懐疑的な視点をいくつも提供している。それは物語のあるべき姿に対しても同様だ。絵画を通じて過去と繋がっていくわけだが、「物語的」な展開に対して鮮やかにカウンターを打っていく姿勢がかっこいい。エンディングは際たる例でメタ性を活かして予定調和に収まらないことによって、新しい物語になるあたりに文学が前進していく気配を感じた。同じく新潮クレストからリリースされている四季シリーズを次は読む。
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15世紀の画家と現代の少女の物語。ト書きのような、頭の中で考えていることをそのまま文字にしたような、リズム感がある短めの文が多く、テンポよく進んでいく。時間も場所もあちこちに移り変わるので、はじめはついていくのが難しい。でも、読み進めていくうちに心地よくなってくるし、2人の物語の...
15世紀の画家と現代の少女の物語。ト書きのような、頭の中で考えていることをそのまま文字にしたような、リズム感がある短めの文が多く、テンポよく進んでいく。時間も場所もあちこちに移り変わるので、はじめはついていくのが難しい。でも、読み進めていくうちに心地よくなってくるし、2人の物語の繋がりが少しずつ見えてくるというのもおもしろい。前半部で何をしているのかよくわからないながらも印象に残った「その様子はまるで幼虫がさなぎから出て羽を伸ばし、大きな回り道を終えた成虫が姿を現しているかのようだった。」という部分は、後半部を読んでから感動してしまった。 『両方になる』というタイトルどおりに相反するものが多く出てくる。「両方というのはありえない。必ずどちらかのはず。」「誰がそう決めたの?どうしてそうでなくちゃいけないの?」二項対立で単純に割り切るのではなく、複雑なものは複雑なものとして受け止めるという姿勢。それがあるから、読んでいて心地よかったのかと思う。
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「バナナが踊っていると、むけていた皮が自然に元に戻り、ティーバッグも踊りだすという広告が流れ、母が決してそのCMを目にすることがないなんて一体どういうことだろう?世界はどうしてこれほどまでにくだらないのか? あの広告が存在する一方で、母がこの世にいないなんて、どうしてそんなことが...
「バナナが踊っていると、むけていた皮が自然に元に戻り、ティーバッグも踊りだすという広告が流れ、母が決してそのCMを目にすることがないなんて一体どういうことだろう?世界はどうしてこれほどまでにくだらないのか? あの広告が存在する一方で、母がこの世にいないなんて、どうしてそんなことが起こりうるのか?」 自分に起こっていることと、周りの世界に起こっていることを比べて、なぜ自分はそうなのかと思うようなことがたまにある。 「実際、そこにいるのは、あなただけではないから。そしてすべてはあなただけに降りかかっているわけではないから。」 作者の考え方が表れているような言葉もあって、読んでいて世界が広がった気がしたし、なにか自分の悩みへの救いになっているような気がした。
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『若い男か女、どちらでもありえそうな人物がいる。美しく華やかな服を着て、手には矢か棒のようなものと金の輪を持っている。まるですべては魔法を使ったゲームだと言いたげだ。男、女?と絵の下に立っている母にジョージが訊く。さあね、と母が言う。母はほほ笑みを浮かべながら、ぼろを着た男を指差...
『若い男か女、どちらでもありえそうな人物がいる。美しく華やかな服を着て、手には矢か棒のようなものと金の輪を持っている。まるですべては魔法を使ったゲームだと言いたげだ。男、女?と絵の下に立っている母にジョージが訊く。さあね、と母が言う。母はほほ笑みを浮かべながら、ぼろを着た男を指差し、次に宙に浮かぶ女、そして華麗に装った、遊びや芸術が好きそうな人物を順に指し示す。男、女、両方と彼女は言う。みんな美しいわ、羊も含めて』―『第一部(監視カメラ)』 「五月、~」に刺激を受けて、アリ・スミスの長篇を読む。案の定、一筋縄ではいかない小説。すらすらと読み通すという感じではない。けれど読む速度は印象に反して徐々に上がる。 主人公(たち)の生真面目さは作家のそれを反映したものなのか。「非情に軽いタッチで」と翻訳者が評するアリ・スミスの文体は確かに一見ふわふわと落し処が定まらないようではあるけれど、それは一つの言葉に付着した多様な意味を巡りながら芯に近付こうとする「真面目さ」に溢れたアプローチであるようにも思える。あちらこちら漂っているようでありながら、それは何処か一つ処の周りをぐるぐると旋回しているよう。文法、言葉の定義に執着するティーンエイジャーの主人公とその母親という組み合わせは、イーユンリーの「理由のない場所」を思い出させるが、この小説の中で亡くなっているのは子供の方ではなく、母親の方。しかし果たして、本当にそうだと言い切ってよいのか。アリ・スミスの問い掛けるような文章に触れていると、それさえじわじわと曖昧になる。 旋回[ツイスト]、と言えば、この本は構成そのものが、遺伝子の二重螺旋、を意識しているように読める。各々「第一部」と掲題され、ノンブルもふり直された二つの小説は、観る側と観られる側の二人の登場人物が入れ替わり進行する。また、本来、順序としては第二部となるべき「目」のイラストが中表紙に描かれた「第一部」は、「始まり」と「終わり」の文章が「螺旋」を思わせる段組みで記される。本全体が二重螺旋を思わせる非常に凝った作り。 それは「対[ペア]」となるもの、「男と女」あるいは「今と昔」のように二項対立しがちなものの組み合わせが、二つで一つという世界に繋がっていることを意識させる。「アデニン - チミン」、「グアニン - シトシン」、連綿と続くその組み合わせの鎖のどちらからでも「同じもの」が複製される。オリジナルに拘ることの怪しさが示唆的に内包されているような生命の絡繰り。「両方になる(How to be both)」というタイトルの意味の一端が見え隠れする。この作家は、単純なシスターフッドや多様性を信奉している訳ではなく、本来的な斉一性を信じているのだろう。 二つ目の第一部を読み始めた途端、つまり観ていた側の人物が観られる側へと転じた途端、少し小難しい年頃の主人公が母親を亡くしたことによる喪失感から抜け出す物語だと思っていた小説は、一気により普遍的な題材を扱う小説へと変貌する。それもたった一言、観られていた側の人物が観る側になって発する「絵の前にいる少年」という一言によって。翻訳者は、こちらの第一部を最初の第一部の登場人物による創作である可能性を示唆するが(確かにFrancescoがFranceschoと綴られることに隠された意味についての解釈は興味深い)、それがそうであってもなくても、どちらであっても提起される問題の本質が変わることはない。視点が変われば全ての意味は変わってしまう。「A」にとっては「T」が従だが、「T」にとっては「A」が従。「主」となる視点が常に正しいとは限らない。第一部でカウンセラーとの会話を通して投げ掛けられたその問いは、二つ目の第一部で時間の経過による視点の変化を通して強調される。 『私には、彼の顔が初めて見える。まず目に入るのは、目の周りを囲う悲しみの黒だ (鼻梁上端の両脇に、曲線に沿って塗られた、焦げたピーチストーン色)。少年はまるで、影に浸した白い毛皮のようだ。それから私は、彼がとても少女っぽいことに気付く。この年頃にはよくあることだ。偉大なるアルベルティ、母が私を産んだ年にすべての絵描きのための本を出版し、そこに(少年や若い女の動きに対して)男の動きには力強さが足りないと記し、両方になるのに必要な柔軟性と簡素さを理解していた人物』―『第一部(目)』 もしかすると、実在したルネサンス期の画家フランチェスコ・デル・コッサがつぶやくこの言葉に、作家アリ・スミスの言いたかったことは集約されているのかも知れない。
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特に後半楽しく読んだけど、「大抵の読者が見たこともないような仕掛け」が全く分からず。こりゃ、再読案件ですな。
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テーマはまさに「両方になる」。 読み進めていかないと、いっても、理解できたのかはわからない。不思議にあたたかい読後感で、わからないのに、良いものに出会えたということは確かに感じる。 どういう思想をしていたら、こういうお話が書けるんだろう。 "仕掛け"の件があ...
テーマはまさに「両方になる」。 読み進めていかないと、いっても、理解できたのかはわからない。不思議にあたたかい読後感で、わからないのに、良いものに出会えたということは確かに感じる。 どういう思想をしていたら、こういうお話が書けるんだろう。 "仕掛け"の件があるので、内容を程よく忘れた頃に再読したい。
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「両方になる」https://shinchosha.co.jp/book/590152/ 読んだ。超絶よかった!題名ままの内容でテーマが深い。性別も時間も生死も虚実も創作の過程も、そしてこの本そのものも、どちらか一方で完結することはない。カメラと眼もそゆことなんだな。なお自分がど...
「両方になる」https://shinchosha.co.jp/book/590152/ 読んだ。超絶よかった!題名ままの内容でテーマが深い。性別も時間も生死も虚実も創作の過程も、そしてこの本そのものも、どちらか一方で完結することはない。カメラと眼もそゆことなんだな。なお自分がどっちを読むことになるかは開いてみてのお楽しみ(おわり
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多分作者は自己顕示欲が少ない人なんじゃないかなあ。わかってもらえない人にわかってもらう努力をするより、その世界観の存在を守ることをしたい人だと思う。この本が訳され世の中に出た頃も、やれ仕掛けが、読んだ人にしか味わえない、とかの煽りにうんざりしたけども。個々がそれぞれ自分で味わえば...
多分作者は自己顕示欲が少ない人なんじゃないかなあ。わかってもらえない人にわかってもらう努力をするより、その世界観の存在を守ることをしたい人だと思う。この本が訳され世の中に出た頃も、やれ仕掛けが、読んだ人にしか味わえない、とかの煽りにうんざりしたけども。個々がそれぞれ自分で味わえばそれでいいと思う。映像作品と違い、読書に共感は必要ないと思っている。独りで歩き、独りで対峙する。そのことの一つが読書だと思う。
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言葉遊びと独特な世界観に早いうちから「わからん…」と挫折しそうになったけど、面白い、と言われている理由がどうしても気になって知りたくて読了。いや、面白かった…。 「仕掛け」に関しては、どっちから読んだところでこの話への印象がそんなに変わると思わないので、一度忘れたい!とはならない...
言葉遊びと独特な世界観に早いうちから「わからん…」と挫折しそうになったけど、面白い、と言われている理由がどうしても気になって知りたくて読了。いや、面白かった…。 「仕掛け」に関しては、どっちから読んだところでこの話への印象がそんなに変わると思わないので、一度忘れたい!とはならない。難解な語り口にくじけそうになっても、多少読み飛ばしてもいいのでとりあえず進めていってほしい。大まかに流れを把握できたらちょっと戻って、とやっていけば、紐解いていくように「小説」としての形で楽しめると思う…。個人的には、「目」のストーリー(画家の過去の生涯の話が)とても好き。
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さすがジョイスを生んだイギリスらしい、知的興奮を誘う小説だった。ただし、この本を読むのにはかなりのエネルギーを要する。休み休み、行ったり戻ったりしながら、結局読み通すのに十日ほどかかってしまった。「両方」とは時間、空間、性別(ジェンダー)等々、様々な要素が織り込まれているわけだが...
さすがジョイスを生んだイギリスらしい、知的興奮を誘う小説だった。ただし、この本を読むのにはかなりのエネルギーを要する。休み休み、行ったり戻ったりしながら、結局読み通すのに十日ほどかかってしまった。「両方」とは時間、空間、性別(ジェンダー)等々、様々な要素が織り込まれているわけだが、それを謎解き風に分析していてはこの小説の面白みがなくなる。ひたすら、この小説世界の中に耽溺して不思議な時間を過ごすことに意味がありそうに思う。音楽に例えると、形式なり内容なりが簡単に伝わってくる古典派音楽、せいぜいロマン派音楽を情緒的に聞いていると、それなりにわかった気になるが、60年代以降の現代音楽では、そこに意味を見出そうとすること自体が無意味な音楽を聞くのと同じではないかというのと同じような感覚で読んでしまった。いやぁ、面白い本だが、もう一度読みたいと思うだけのエネルギーはもうない。
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