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歩道橋の魔術師 の商品レビュー

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37件のお客様レビュー

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2024/04/15

 今は無き商業施設「中華商場」に生き、その歩道橋にいた“魔術師”の記憶をめぐる10篇から成る連作短篇集。  殊更に惜しみ懐かしむことなく、各篇の語り手たちは幼年期に確かに在った物・起きた事を淡々と語っていく。あんな人がいた/こんな事があったを静かに思い出して紡いでいく、ただそれだ...

 今は無き商業施設「中華商場」に生き、その歩道橋にいた“魔術師”の記憶をめぐる10篇から成る連作短篇集。  殊更に惜しみ懐かしむことなく、各篇の語り手たちは幼年期に確かに在った物・起きた事を淡々と語っていく。あんな人がいた/こんな事があったを静かに思い出して紡いでいく、ただそれだけ。彼ら彼女らが体験した魔法そのものの真偽は重要ではない。

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2024/03/28

喪失の物語。 大人になって、少年時代に何を失ったのかに気づく。誰かに語ることによって。 エドワード・ヤンの映画と同じ匂いが。 村上春樹とも。 さらに付け足すなら、小沢健二とも。 魔法が解けたあとの哀しさ。

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2024/03/01

1980年代初頭、台北の今はない中華商場が舞台のすごく不思議で、胸がギュッと掴まれる10編の短編集。 文章のリズムがとても心地よく、台北の街の雰囲気が目に浮かび、おもしろくて懐かしさや切なさも感じる物語でした。 とても素敵な翻訳の文章で、この作品を翻訳をさ...

1980年代初頭、台北の今はない中華商場が舞台のすごく不思議で、胸がギュッと掴まれる10編の短編集。 文章のリズムがとても心地よく、台北の街の雰囲気が目に浮かび、おもしろくて懐かしさや切なさも感じる物語でした。 とても素敵な翻訳の文章で、この作品を翻訳をされた天野健太郎さんの訳書を他にも読んでみたいと思って調べてみたら、2年前に47歳という若さでお亡くなりになったと知りとても悲しく残念に思います。

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2023/11/16

光は流れる水のようにが素敵だった 藤子不二雄F先生の四畳半SL旅行を思い出した。 「なんだかできそうな気がしてきたよ、スゥッと吸い込まれていきそう…」 アカとぼくはこの中にいる気がした 不思議具合がちょうどいい按配 郷愁を感じるお話とディティール 欄干に結ばれて風に弄ばれる靴紐...

光は流れる水のようにが素敵だった 藤子不二雄F先生の四畳半SL旅行を思い出した。 「なんだかできそうな気がしてきたよ、スゥッと吸い込まれていきそう…」 アカとぼくはこの中にいる気がした 不思議具合がちょうどいい按配 郷愁を感じるお話とディティール 欄干に結ばれて風に弄ばれる靴紐など独特の美しい風景が胸に迫る 子どもの世界と子供から見た世界 唾はき競争 子どもが大人になる時 義眼の魔術師の哲学のような言葉 いつか合うことがあるかもしれない鍵 象の着ぐるみ 生き残った双子 金魚 ベビーオイル 氷と水 切手 ネオンとタイル シマウマ 寓話的なアイテムがすごくちょうどいい按配で出てきてなんとも感心したり感動したり 好きな本です

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2023/08/06

私も日本の市場で育った。両親が市場で商売をしていた。当時の市場のごちゃごちゃっとした中に渦巻く独特の活気は、今の人には想像できないのではないか? ショッピングモールとはもちろん違う。狭い通路を挟んで個々の店舗が小さくて男1人か夫婦で経営している店が密集しているのが市場だ。それにア...

私も日本の市場で育った。両親が市場で商売をしていた。当時の市場のごちゃごちゃっとした中に渦巻く独特の活気は、今の人には想像できないのではないか? ショッピングモールとはもちろん違う。狭い通路を挟んで個々の店舗が小さくて男1人か夫婦で経営している店が密集しているのが市場だ。それにアメ横や京都の錦小路とも違う。市場には食料品店や食べ物屋だけでなくて、多くの職種が集まっていた。私が育った市場には、漬物屋や金物屋の隣に燃料屋があった(燃料屋って今の人にわかるかな?練炭や灯油を売る店のこと)。つまり大げさではなくて、そこに行けばほとんどの生活用品が調達できるという、雑多でありながらコンパクトという、私から言わせれば百均やコンビニ以上に手近に日常生活必需品が手に入る空間が市場だった。 でも私が育った市場と中華商場とでは決定的な違いがある。それは、中華商場は居住スペースも一体化しているところ。つまり商売だけでなく生活空間がそこにある。私の場合、幼時は両親が市場で共働きだったので、家に親といっしょに帰るまでは、市場じゅうが遊び場(兼)店がヒマなおっちゃんからいろんなことを教わる教室(兼)屋上の入り組んだ階段で探検できる場…など市場は子どもでも時間をつぶすのには事欠かなかったが、あくまで日常生活空間とまでは言い切れないものだった。 ところが中華商場では、店から中二階に上がれば、食べて寝てアレしてetc.のすべてのことが行われる空間というのが違う。そこでは単なる住居ではない、仕事の場だけでもない、人間の日常がすべてそこに収まっている。鈴井貴之監督が映画「銀のエンゼル」でローソン本社と喧嘩までして、1階がコンビニで2階を住居として暮らす家族という設定にこだわったのは、そういう日常すべてがコンパクト化された空間でこそ、ありふれた家族の物語であっても見る人は必ず何らかの共感を心に奏でられると確信したからだろう(実際にはローソンは住居一体型の店舗形態は認めていないらしい)。だから鈴井監督の映画のようにフィクションではなく中華商場という実在したものの小説化ということで、(私の幼時の思い入れもあって)大いに期待したのだが… 期待外れだった。ページをめくり次々と短編を読むうちに、早く終わってほしいとばかり思うようになった。つまり私の期待とは全然違ったのだ。私が期待したのは、台湾版「高円寺純情商店街」であり、台湾版「たけしくん、ハイ」だった。商店街や市場で過ごした少年の誰もが感じるであろう、記憶の奥で癇癪玉が破裂するような爽快感をもう一度味わいたかったのだ。 だがこの小説は台湾版(出来の悪い)村上春樹だった。そもそも村上春樹が読みたければ本家を読むだけの話なのだが… また、魔術師が何を意味しているのか結局最後まではっきりしなかったのも、私が評価を下げる要因だ。マジックリアリズムか何か知らないが、商場のリアルな記憶をたどってリアルな感触の作品にする文章力が低いから、商場の実態とは直接関係がない春樹やG・ガルシア=マルケスを切り貼りして、それっぽくしつらえただけでは?と穿ってしまう。 だって中上健次であれば、私が行ったことがない路地の細くて急な石段を見上げるような光景が文章からリアルに伝わってくるのに。そして私が会ったことのない作中人物が姿を変えてまるで過去に会ったことがあるかのようなデジャヴをもたらしてくれるのに。この作品ではそのような「読者の体験を裏書きするようなリアルさ」がない。 作者はリアルさに窮するとセックスを持ち出して安直なリアルさに走るか、少年少女の夢心地でふわふわっとした記憶を魔術という便利なキーワードで目くらましをするかの両極端のように感じた。 台湾では新感覚なのかもしれないが、私には「もどき」小説を読まされた後の徒労感がずしりと残り、先人へのあこがれが先走りしてその分自己が薄くなるという、典型的な田舎者の小説のように思えた。

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2023/06/25

かつて台北にあった巨大な商業施設「中華商場」。8棟3階建のビルが2キロの敷地に連なり、台北市民の生活の中心地だった。1961年の落成以降、鍵屋、電気屋、服屋、食事処と1000を超える雑多な店舗が林立し、店を営む人々の居住空間もあったという。ネット上には当時の賑わいをうかがわせる写...

かつて台北にあった巨大な商業施設「中華商場」。8棟3階建のビルが2キロの敷地に連なり、台北市民の生活の中心地だった。1961年の落成以降、鍵屋、電気屋、服屋、食事処と1000を超える雑多な店舗が林立し、店を営む人々の居住空間もあったという。ネット上には当時の賑わいをうかがわせる写真が多く上がっている。しかし、時代の流れとともに廃れていき、1992年に解体されることとなる。 本書は80年代の中華商場を舞台に、当時は子どもだった登場人物たちが過去を振り返る連作短編集である。「歩道橋の魔術師」とは不思議なタイトルだが、商場の8棟の建物それぞれが歩道橋でつながっていたことに由来する。下に降りることなく、商場の棟々を伝い歩くことができた。歩道橋にも多くの露天商人がおり、その中の一人が魔術師だった。彼は道ゆく人にマジックを披露するパフォーマーなのだが、各短編の子どもたちと浅からぬ関わりをする。そこで彼は奇術ではなく、魔法としか思えないことをして見せるのだ。 作者の呉明益さんは1971年生まれ。ご自身、21歳までこの商場で暮らしていたという。だからだろうか、細やかな描写を読み進めるうちに、商場の空気感や人々の息づかいが少しずつしみ込んでくるような錯覚を覚えた。おそらく、訳者の天野健太郎さんの力も大きいのだろう(あまりに早いご逝去が惜しまれる)。 呉さんと同世代以上の読者には、特に響く本だと思う。私は呉さんよりやや下の世代だが、昭和の1980年代も同じような空気感だったように思う。今のようなショッピングモール等はなく、買い物は近所の商店街。八百屋さん、魚屋さん、酒屋さん、本屋さんとそれぞれが元気だった。小銭を持って駄菓子屋へ通ったし、土曜の8時はドリフにお腹を抱えて笑った。小学校の前に時折怪しげな露天商のおじさんがやってきて、魔術師と同じく、踊る紙人形を披露したりもしていた。 本書は台湾でドラマ化され、それをきっかけに中華商場の写真や映像記録を残す動きも起きているらしい。それだけの力がある小説である。呉さんの他の作品も読みたくなった。

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2021/09/08
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

目次 ・歩道橋の魔術師 ・九十九階 ・石獅子は覚えている ・ギラギラと太陽が照りつける道に ・ギター弾きの恋 ・金魚 ・鳥を飼う ・唐(とう)さんの仕立屋 ・光は流れる水のように ・レインツリーの魔術師 1980年代の台北に本当にあった中華商場。 戦後に建てられた鉄筋コンクリート3階建ての建物が8棟、歩道橋で繋がるショッピングモール。 ショッピングモールと言っても、個人商店の集まりで、人々はそこで暮らしてもいた。 子ども達はそこで遊び、家の手伝いをし、大人になって町を出る。 1980年代と言えば、日本だとバブルの直前くらい? なのに頭に浮かぶ光景は白黒で、生き生きと遊ぶ子供たちの姿にすら喪失の影が見える。 歩道橋でマジックを披露する「魔術師」は、子ども達の憧れであり、怖れの対象でもあった。 特に「九十九階」「石獅子は覚えている」の魔術師は、喪黒福造のように怖い。 自分でした選択の結果とはいえ、そのツケを払う覚悟もない子どもに対して容赦なさすぎる。 しかしこれはホラー小説ではない。 アジア的マジックリアリズムとでもいおうか、不思議なことは、日常の中に普通にあるわけで。 それを介在する人が「魔術師」であり、それの行われる場所が今はもうない「中華商場」である。 だからかなあ、読んでいてずっと恒川光太郎の「夜市」の雰囲気を感じていた。 何かを得るということは、何かを失うこと。 それは瞬間の出来事のようでありながら、連綿と続く現実の裏と表なのだろう。

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2020/08/13

台湾の友だちに教えてもらった、すごくよかったのでこの人の他の本も読みたい〜! 『複眼人』が読みたい〜と思ってしらべたら、2019年に刊行予定だったけど、翻訳者の天野さんが2018年に亡くなられたんですね。呉明益さんが追悼として寄せた文章が、ほんとうに心によくわかりました。その後に...

台湾の友だちに教えてもらった、すごくよかったのでこの人の他の本も読みたい〜! 『複眼人』が読みたい〜と思ってしらべたら、2019年に刊行予定だったけど、翻訳者の天野さんが2018年に亡くなられたんですね。呉明益さんが追悼として寄せた文章が、ほんとうに心によくわかりました。その後に翻訳を出すのがなんとなく、出しにくいと思うけど、お願いですからはやく出してください…! これまで台湾の作家とか小説を全然知らなくて、なんだかとても失礼だったなと感じた。こんなにいい作家もいるのに、まるで小国を無視して生きるのは自分にとって惜しいことだし、悔しいことだ。これからの私はもっともっと小さなことを追いかけて、こだわり続ける気がする。村上春樹がいっていた「人生において大切なことは、何を得たかではなく、どのように求めたかだと思う」ということを、いつも心のすみっこのポケットにいれて、持ち歩くようにしている。 

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2020/07/13

今は無き台北の商店街(雑居ビル街)で育った子供たちの、小学校頃の思い出とその後をオムニバスで綴った小説。狂言回し又は、物語の影の動力として、ビル間を繋ぐ歩道橋に立つ魔術師(手品を見せて道具を売っている)が登場する。 ハッピーな話はほとんどなく、死ぬ話も多いが、悲惨な感じがしないの...

今は無き台北の商店街(雑居ビル街)で育った子供たちの、小学校頃の思い出とその後をオムニバスで綴った小説。狂言回し又は、物語の影の動力として、ビル間を繋ぐ歩道橋に立つ魔術師(手品を見せて道具を売っている)が登場する。 ハッピーな話はほとんどなく、死ぬ話も多いが、悲惨な感じがしないのは、御伽話のような語り口によるものだろう。 なんとなく、三宮や梅田の古い雑居ビルを思い出す。細長く、服屋、靴屋、眼鏡屋、古本屋、レコード屋、食べ物屋など様々な店が廊下に沿ってずっと並んでいる細長い世界だ。アジア的な空間なのかもしれない。

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2020/02/16

エドワード・ヤン『台北ストーリー』を想起せずにはいられない装丁だと思えば、作中にホウ・シャオシェン『恋恋風塵』が出てきて驚く。 どのエピソードもおぼろげな余韻を残し、それは魔術師の影がもたらすのか、少年時代の記憶そのものの不確かさなのか。「マジックの時間」が、記憶の橋渡しで浮かび...

エドワード・ヤン『台北ストーリー』を想起せずにはいられない装丁だと思えば、作中にホウ・シャオシェン『恋恋風塵』が出てきて驚く。 どのエピソードもおぼろげな余韻を残し、それは魔術師の影がもたらすのか、少年時代の記憶そのものの不確かさなのか。「マジックの時間」が、記憶の橋渡しで浮かび上がる商場にかすかに温かく流れる。

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