乱読のセレンディピティ の商品レビュー
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本をありがたがって、読みすぎると、心の近眼になって、ものがよく見えなくなる。 わけもわからず、むやみに本ばかり読んでいると、心眼は疲れ、ものをはっきり見きわめることが難しくなる。読書メタボリック症候群型近視になってしまう。頭の近視は、目の近視ほど不便ではないから、なかなかこれを治療しようとしない。(p.50) 本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。年をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているためである。知識は、化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。 知識、そして、思考の根をおろしているべき大地は、人間の生活である。その生活を大切にしない知的活動は知識の遊戯でしかない。いくら、量的に増大しても、生きていく力とのかかわりが小さい。(p.52) さらに頭をきれいにする、はたらきやすくすることで、忘却は記憶以上のことをすることができる。知識によって人間は賢くなることができるが、忘れることによって、知識のできない思考を活発にする。その点で、知識以上の力をもっている。これまできらわれてきた忘却に対して、こういう創造的忘却は新忘却と呼ぶことができる。これからますますこの新忘却が大きな力をもつようになるだろう。(p.176)
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『思考の整理学』でお馴染みの外山氏によるエッセイ作品。読みやすいです。 精読ではなく、乱読。読み乱れる中での偶然の出会い。セレンディピティ。 --- No. 1354 三十年後の関所を越えたものが古典として永い生命をもつ
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【読書・勉強】乱読のセレンディピティ/外山滋比古/20140816(67/241) ◆きっかけ 日経広告 ◆感想 ・セレンディピティーを期待するのなら、軽く風のような読書をせよ。知的空間を彷徨う乱読がよろしい。しかし、知識メタボには気をつけよ。メタボ解消には忘却がよろしい。忘却...
【読書・勉強】乱読のセレンディピティ/外山滋比古/20140816(67/241) ◆きっかけ 日経広告 ◆感想 ・セレンディピティーを期待するのなら、軽く風のような読書をせよ。知的空間を彷徨う乱読がよろしい。しかし、知識メタボには気をつけよ。メタボ解消には忘却がよろしい。忘却を潜り抜けた記憶は、自分のオリジナルとなって身に着く(=生きる力に結び付く)。 ・散歩による思考力の向上との相乗効果を狙え。 ・こうして結構なボリュームでメモとること自体ナンセンス?そういえばあまり読み返してない。 ◆引用 ・乱読がよろしい。かりそめの読者がしばしば大きいものを読み取る。 ・本を読んだら忘れるに任せる。心に刻まれないのなら記録しても足しにはならない。 ・知識はすべて借り物。頭のはたらきによる思考は自力。知識は自分で考えたように錯覚してしまう。 ・本を読んでものを知り、賢くなったように見えても、本当の人間力がそなわっていないことが多い。歳をとる前に、知的無能になってしまうのは、独創力に欠けているため。知識は化石みたいなもの。それに対して思考は生きている。 ・読書がいけないのではない。生きる力に結び付かなくてはならない。 ・β読み:内容、意味が分からない文章を読む、のがベター。CF)α読み:読み手があらかじめ知識を持っているときの読み方。 ・小さな分野にこもらず、広く知の政界を好奇心に導かれて放浪すること。 ・一生懸命するより軽い気持ちのほうがうまくいくことがある。なにより面白い。しかし失敗は多い。しかし、その失敗の中にあたらしいことが潜んでいるのであって、それがセレンディピティにつながることがある。怪我の功名。 ・エディターシップ:第二次創造論。第一次を下にして読者の良くする読み物に仕立て上げる。CF)第一次創造論:素材を作る。 ・知識メタボにかかっていては、健全な生き方はかなわない。知的メタボの解消には、忘却。頭をきれにする、はたらきやすくすることで、忘却は記録以上のことができる。知識のできない思考を活発にする。つよい記憶は忘却をくぐりぬけて再生される。そのまま保持されるのではく、創造的変化を伴う。 ・ものを考えるのに歩くことは大切。頭は歩かないと眠ってしまう。読書で知識は得れるが、思考力はつけてくれる本は少ない。思考力を育むのは散歩。=歩けば解決する。 ・朝は重要。
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タイトルと著者で期待が大きかった。 「セレンディピティ」とは、「思いがけないことを発見する能力」のこと。 この言葉がとても好きで、日常の生活の中でいかにセレンディピティを起こしていけるかが重要だと考えていた。 この具体例が書かれているが、言葉の持つ意味自体に「思いがけない」と入っているため、偶発的に起こるものだとわかる。 しかし、一冊を、しかもジャンルの偏った書籍群の一冊を熟読するのではなく、まったくジャンルの異なった本を乱読することを勧めている。 そこには、その人自身の根底に、考えている、もしくは考えるべき何かがありながら、読むこと、そして考えながら読むことが重要であると思う。確かに、書店で立ち読みしている時のほうが、発想が浮かぶことが多い気もする。 本からいったん入れた知識を、忘却する時間、忘却した状態のまま、考える時間(著者は散歩という方法を数十年とっている)を持つことの重要さには改めて気づかされた。何もしないで考える時間を仕組みに組み込む必要がある。
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名著”思考の生理学”の筆者による読書論 本書のテーマは読書のみに限られていないが、”興味に任せて読み散らかせばいいんだよ”ということ
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この本では、本があふれるほど出版されている現代に向けた読書法として「乱読」を勧められています。著者は英文学や日本語論の教授。ただし、読書法について書いた本というよりは、読書に関するエッセイという感じでした。 乱読とは、ひとの意見によらず自分の判断で本を選び、購入する。そして読んで...
この本では、本があふれるほど出版されている現代に向けた読書法として「乱読」を勧められています。著者は英文学や日本語論の教授。ただし、読書法について書いた本というよりは、読書に関するエッセイという感じでした。 乱読とは、ひとの意見によらず自分の判断で本を選び、購入する。そして読んでみて、これは違うと思ったらさっさと放り出し、次の本に行く読み方。乱読により思いがけない発見(セレンディピティ)が起きるのではないかという主張。 確かに直感的にはそうなんだろうと思いましたが、科学的な裏づけなどが書かれていなかったのでモヤモヤした感じで読み終わりました。
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serendipity 思いがけないことを発見する能力。 本を読んだら、忘れるにまかせる。大事なことをノートしておこう、というのは欲張りである。心に刻まれないことをいくら記憶しておいても何の足しにもならない。 以上、本文より。 読書ノートに書くことで満足してしまうことも多々あるので、ドキッとしました^^;
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齢90にてなお矍鑠とされている様子が、本文から伝わってくる。 かれこれもう何年も、乱読を続けていて、今更ノートを取ろうかなどと思っていた矢先だったので、いささか呆然とする。 忘れてもよい。むしろ不必要な部分をそぎ落としてこそ、読書の意味があるという風に受け取った。 アウトプットの重要性、急がば回れの精神。朝型、散歩の効能。ジャンル違いの本にこそ答えがあったりするなどなど。 そうして、読みおわって、思考の整理学のなかみを一切忘れていることに気がついた。
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全体を通して、バランスの重要性を説いている。 それは、読むべき対象としてのジャンルもそうだし、知識と思考、肉体と精神のバランス(著者は、思考が活性化されるという理由で、散歩を薦めている)と、読書を単なる知識を増やすための装置に留めぬよう戒めている。 その主張の内容には、幾分か...
全体を通して、バランスの重要性を説いている。 それは、読むべき対象としてのジャンルもそうだし、知識と思考、肉体と精神のバランス(著者は、思考が活性化されるという理由で、散歩を薦めている)と、読書を単なる知識を増やすための装置に留めぬよう戒めている。 その主張の内容には、幾分かの既視感を覚える。 ショウペンハウエルも、その著作「読書について」において、知識は借り物に過ぎず、他人のふんどしで相撲を取るようなものであることを指摘している。 更に古くは、孔子の「学びて思わざれば・・・」のあの有名なくだりも、趣旨としては近いものがあるだろう。 もし、目新しさがあるとすれば、バランスの範囲を、知識と思考のみならず、読むべき対象や肉体と精神にまで至らしめていることであろうか。 実際、運動生理学の観点からも、50%VO2max以下の運動により、脳が活性化するという報告もある。 ジャンルを問わない乱読や、運動により思考を活性化することで、読書体験を総合人間学としての営みに変えたいものだ。 この本は、その一助となれば幸いだ。
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人は衰える、と実感。あの名著と同じ筆者とは思えないのは、自分の方が変化しているのか。乱読を語るのにネット文化に触れないのでは、時代に取り残されてるとされても仕方ないだろう。 セレンディピティの実例があまりにも小さくて乱読したいとも散歩したいとも思えない。 余りに重複記述が多いので...
人は衰える、と実感。あの名著と同じ筆者とは思えないのは、自分の方が変化しているのか。乱読を語るのにネット文化に触れないのでは、時代に取り残されてるとされても仕方ないだろう。 セレンディピティの実例があまりにも小さくて乱読したいとも散歩したいとも思えない。 余りに重複記述が多いので雑誌連載だろうと思っていたら新稿だというのでびっくり。 おじいちゃん、まだまだ頭も元気ですねー、と言うためのものであるのならいいが、現役の研究者、文筆家として評価するなら非常に低い評価にならざるを得ないだろう。
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