赤頭巾ちゃん気をつけて の商品レビュー
2014.1.30〜2.6 最初はがまんしながら読んでたけど、最後に向かって、なんだがすがすがしく面白くなってきて、最後はよかったなと思った。ただ続きがあるらしいけど、またそれを読むかは別。
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1969年、学生運動真っ盛りの時代。 日比谷高校を卒業し東大へ、という当たり前に用意されていたはずだった進路を学生運動によって絶たれてしまい、突然人生に迷ってしまう薫君のお話。 文体は軽くてシニカルで村上春樹っぽくて正直あまりすきじゃないけど とてもよかった。 基本的に思春期自分語りモノには弱い。 自立した知性とはなんだろうか。 数寄屋橋でゲバ棒を握りシュプレヒコールを唱える学生たちを見て、薫君は考える。 彼らは本当に、自分だけの胸で考えつくし、判断し、決断した結果ここにいるのだろうか。 そして、たとえそうだとしても、その決断を単に青春の過ちとして見殺しにすることなく、一緒背負い続けていけるのだろうか。 彼らはその決断をした自分自身に対する責任をとれるのだろうか。 薫君が彼らに対して抱いた苛立ち。 彼らはその若々しい決断に対して責任など取りはしない。 彼らは若さを免罪符に猛々しく社会に立ち向かっていくが、ばかばかしい現代社会に行く手を阻まれ、ゆくゆくは挫折し、そのばかばかしい現代社会に溶け込んでいくのだ。 あの頃は若かった、おおわが青春の日々よ、などど自らの行動を勲章のように携えながらも、その行動を決断した若き頃の自分自身はすっぱりと切り捨ててしまえる。 「いつでも自分を「部分」として見殺しにできる恐るべき自己蔑視・自己嫌悪が隠されているのだ。」p153 と薫君は言う。 薫君にはそんなことはできない。 彼は自分自身の胸で考え、それが本当に、自分だけではなく皆のために必要だと分ればいつだって立ち上がる。 しかしその時は、中途半端に挫折したりせず、あらゆる手を使って必ずや敵を倒し息の根をとめるだろう。 だかこれも薫君の捨て台詞である。 それをやって開き直ってはおしまいだ、という薫君の諦念めいた呟きがなんとも若々しくてきゅんとする。 若いころの物の考え方はとても真っ直ぐで純粋で、ゆえに極端である。 人は自分だけのことを考えて、時には自分自身の決断すらも切り捨てて生きていくことができる。 その時々の自分のささやかな幸福だけを望み、周囲の人を気に掛けるそぶりは見せても本当に心から他人の心配をしたりなどしない。 ましてやみんなを幸福にするにはどうしたらいいかなど考えもしない。 それは現実の社会ではごく当たり前のことであり、そうやって生きている社会の人々はみな幸せそうに屈託なく生きている。 薫君だって、そんなややこしい考えは打ちやって、皆と同じように適当に物事をこなし、世の中を泳ぎ渡ることだってできる。 「みんなみんな簡単なとっても簡単なことなのだ。そしてなにもぼくが、そういつもよりによって難しいやりにくいことばかり選ぶなんて必要はどこにもないんだ。誰にも頼まれたわけじゃもともとないんだから。」p156 そうして自棄になった薫君が少女と出会ってまた前を向いていく流れもきらきらしていてきゅんとするのだけど。 次から次へと溢れるように紡がれる若い薫君の思想が少し気恥ずかしいような気もするけどよかった。 あれくらい物事を色々と考えられるような学生でありたかった。脳みそ空っぽのまま大人になってしまった自分を反省しつつ。 学生自体に読んでおきたかった。できれば高校生。きっとショックでしばらく打ちのめされてたと思うけど。 全然関係ないけど最近こうやって読後に文章を書いていると、自分が大人になったことを自覚しているのだなと思う。 つい最近までまだ自分は高校生のような気持ちで本を読んでいた気がするのだけど、ここのところ大人になった気持ちで何か懐かしい感じで呼んでいる気がする。 でもなんだか大人になりすぎて40前後のお母さんが思春期の息子の心の中を盗み見ているようなよくわからない感覚。 でも23ってまだまだクソガキだなと思う。これからだ。
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学生運動になにもリアルを感じないの、私は。生まれてなければ、それは遠い時代のようなもので、なにも。なにも。
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村上春樹の系譜に連なる唯一無比の饒舌体に感動。 69年の芥川賞受賞作は学生運動真っ只中の時代の人間賛歌やね。 シニカルな主人公が徐々に人間味を取り戻していくところが良い。
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とても健気で、いじらしく、それでいてしなやかな強さが感じられる作品だと思った。 しかし、同時に私はこの作品に、膝からがっくりくずおれるような、思わず目を固くつぶってしまうような、そんな不安と悲しみも感じてしまった。 みんなが幸せに生きられる、そんな社会を、「本物の知性」で実現す...
とても健気で、いじらしく、それでいてしなやかな強さが感じられる作品だと思った。 しかし、同時に私はこの作品に、膝からがっくりくずおれるような、思わず目を固くつぶってしまうような、そんな不安と悲しみも感じてしまった。 みんなが幸せに生きられる、そんな社会を、「本物の知性」で実現することは、果たして可能なのだろうか。 この本の主人公・薫くんは、そのことについて、よくよく、自分で考えている。そして、そのためには、今、自分はどうするべきなのか、ということも、彼はとても真面目に考えている。 けれども、わからないのだ。彼は作中でも何度も何度も、「でも、どうしたらいいんだろう?」と言っている。それはゲバ棒を振り回して安田講堂に立てこもったり、あるいはそういう世間と開き直ってよろしくやっていくことだったりではないのではないか、と彼は思っている。思っているがしかし、ではどうすればいいのか、となると彼は悩むのである。 自分はこんなにも美しいものを愛し、人に優しくし、多くのものに感動し、しっかりした知性を身に着け、強くなりたいと思っているのに、そのはずなのに、どうしたらいいのか、それがわからなくて……むしろ、そのことを真剣に考えると、自分の中の冷酷なものに、怒りに、憎しみに、気が付いてしまうのである。 私たちはどう生きればいいのだろう? 私たちは、本当に、賢くなれるのだろうか? その答えは、この作品が書かれて半世紀が経とうとしている今でも、全然、まったく、はっきりとしていない。いやむしろ、もっともっと混沌としていると言えるような気がする。 それを思うと私は、固く目をつぶりたくなるし、耳をふさぎたくなるし、何も言いたくなくなる。 それでも……けれど、それでもやっぱり私も、この本の主人公・薫くんの言うように、大きくて深く優しい海のような人間に、のびやかで力強い素直な森のような人間に、なりたいと思うのである。 それを強く強く、仰ぐように、願い続けたいと思うのである。 赤頭巾ちゃん、気をつけて。
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何となく進むこの話で、意識・考えが目まぐるしく変化している。自分にもあるこの情緒不安定かのような変化。
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高校を卒業してはや6年近く、世間的にはまだまだ若者の分類に入る私ですら、どうしてどうして、高校時代の考えかたといまの考えかたは180度異なってしまっている。それぐらい高校時代は特別であり、この一瞬を切り取って一篇の小説に仕立て上げることに、どれだけの困難があるかわからない。でもか...
高校を卒業してはや6年近く、世間的にはまだまだ若者の分類に入る私ですら、どうしてどうして、高校時代の考えかたといまの考えかたは180度異なってしまっている。それぐらい高校時代は特別であり、この一瞬を切り取って一篇の小説に仕立て上げることに、どれだけの困難があるかわからない。でもかつてベスト・セラーとなった本作は、その難題をみごとに解決してしまっている。ガールフレンドのこと、大学受験のこと、学園紛争のこと、セックスのこと、……etc。青春時代はとかく悩みごとが多すぎるが、その全部をしっかりと反映しているのが本作なのだ。さすがに世代が違うので、読んでいてはっきりと頷けるシーンは多くないし、とくに小林のくだりなんて、なにをいっているかさっぱり理解できないのだけれど、それでもどこか惹かれてしまうのは、なぜだろう。それどころか、薫くんは私の分身であるような気さえする。共通点なんてまるでないのに、そういう不思議な魅力があるのがこの小説の凄いところであり、また「高校生」という世代がもつ凄いところだろう。どこがいいのか、と問われれば答えに窮してしまうが、とにかく傑作というしかない。これはベスト・セラーになるのもまったく当然の話である。
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1969年芥川賞受賞作。読み始めた瞬間、ああホールデンくんだと、日本版「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だとおもった。というか、あまりに似過ぎていて、この小説の良さに思う存分浸りたいのに、「それにしてもあまりに似ているんじゃないか」ともやもやしたりしちゃって浸りきれない部分があった...
1969年芥川賞受賞作。読み始めた瞬間、ああホールデンくんだと、日本版「キャッチャー・イン・ザ・ライ」だとおもった。というか、あまりに似過ぎていて、この小説の良さに思う存分浸りたいのに、「それにしてもあまりに似ているんじゃないか」ともやもやしたりしちゃって浸りきれない部分があったのがかなしい。まあでも、わたしはキャッチャーを読んだとき、あっ救われないんだ、じゃあどうしようって思って本当に絶望したので、庄司薫の描くやさしさがけっこうありがたい。たぶん世の中には狂いきれないけれど苦しくてどうしようもない、っていうひとがそれなりにいると思うので、この小説はそういうひとたちをきちんと助けたと思う。良く出来た小説だ、素晴らしい文学だ、とは思わないけれど、確実に世界に存在していて欲しい種類の小説で、その点において非常に評価したいです。「自分を少しでもまともに保ち、誰かを少しでもまともに愛する努力をすること」と言ったのは村上春樹ですが、庄司薫がやろうとしたことはまさにそれ。
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庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、良かった~。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』みたいでもあり、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』みたいでもあり。。 もっとも、主人公の薫くんは、ホールデンくんのように精神分裂病の気があるわけではないし、時田秀美くんのような劣等生とは対...
庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』、良かった~。サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』みたいでもあり、山田詠美の『ぼくは勉強ができない』みたいでもあり。。 もっとも、主人公の薫くんは、ホールデンくんのように精神分裂病の気があるわけではないし、時田秀美くんのような劣等生とは対極の存在で、全盛期の日比谷高校から東大文Ⅰを「なんとなく」めざしちゃおうとするエリートの卵なんだけど。 口語調で括弧書きの中に沢山の譲歩と仮定とイイワケを詰め込みまくった庄司薫の文体は、確かに軽くて瑞々しくて、スイスイと読めるんだけど、その中に「おいおい、それ言っちゃうか」って思うような、17歳のエリートの卵だからこそ辿り着いた真理(にかなり近そうなもの)が時限爆弾みたいに仕込まれていて、読後はなんだかいろいろと考えてしまった。 『もっともこれは日比谷だけではないかもしれない。芸術にしても民主政治にしても、それからごく日常的な挨拶とかエチケットといったものも、およそこういったすべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。』 あとは、物語の転換点になる小林くんの独白が、けっこう、ずーんってきたなー。 『つまりね、おまえが読んでるかどうかは知らんけどね、みんなが言うことにゃいまや狂気の時代なんだそうだよ。つまり知性じゃなく感性とかなんとかだ。まあおれには、どうして感性やなんかか知性から切り離されて存在するのか全く分らないけどね。でもそんなことを言ってみても始まらないんだ。要するにおれみたいに、おれの感受性も含めた知性に或る誇りを持っていたりすると、それだけでもうパーだ。』 これ本当に40年前の小説かー、すごいなー。未だに、というか、いよいよ最近、〈なんだか理屈では説明できないんだけどこれってオシャレでイイカンジでイケテルよね〉みたいな感覚だけの土俵で優劣つけたがる感じ、あるじゃないですか。なんとなくイケテル音楽ふわふわ聴いて、なんとなくイケテルカフェで美味いかどうかもわからん珈琲飲んで、なんとなくイケテル企画展観て最先端だなーってつぶやいちゃう、的な。こりゃ小林くんも浮かばれないよ。というわけで文庫版の解説にあった『これは戦いの小説である。あえてもっと言えば、知性のための戦いの』という評は、わりと腹落ちしました。
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ぼくは言葉を探し、 さまよい、迷い子になり、 そしてどうしてもつかまえられぬまま もどかしく繰返した。 「とても嬉しかったんだ。」 (ぼくは本当に、それだけでいいんだから)
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