他者と死者 の商品レビュー
1読目 11/25 - 11/26 '12 まんまとはまって 2読目 11/26 - 「『遅れ』を受け容れた瞬間に、読者は(ラカンを理解していようがいまいが)『すでにラカン派』なのである」 ということは、私は 「すでに内田派」なのである。 2読目 - 12/...
1読目 11/25 - 11/26 '12 まんまとはまって 2読目 11/26 - 「『遅れ』を受け容れた瞬間に、読者は(ラカンを理解していようがいまいが)『すでにラカン派』なのである」 ということは、私は 「すでに内田派」なのである。 2読目 - 12/2 0:59 やっと理解しかけた。 「神なき世界」レヴィナス 無秩序な世界、善が勝利に至らない世界における犠牲者の立場、それが受苦である。受苦が神を打ち立てる。救援のためのいかなる顕現をも断念し、十全に有責である人間の成熟をこそ求める神を。
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ラカンのテクスト論を巡る思索、冒頭の師弟論は秀逸である。「他者」とか言えば、賢しく聞こえるが、一言でいえば、師は大き学問的伝統の前に謙虚であり、何よりも師こそが「謙虚に学び続けている者」である、その師に弟子はさらに謙虚さを学ぶというもの。 著者の記述と思考スタイルは、同じフランス...
ラカンのテクスト論を巡る思索、冒頭の師弟論は秀逸である。「他者」とか言えば、賢しく聞こえるが、一言でいえば、師は大き学問的伝統の前に謙虚であり、何よりも師こそが「謙虚に学び続けている者」である、その師に弟子はさらに謙虚さを学ぶというもの。 著者の記述と思考スタイルは、同じフランス畑、さらに同じく武道に精通する前田英樹氏の著作と同じ臭いがするが、内田氏は判断保留のエポケーとしてのためらいを倫理として思考するのに対し、前田氏の倫理は小林秀雄的な決断と自身への責任に向かう。 女性的か男性的かの違いとも言える。
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前半は一冊目と同じようなことを言っていて、一冊目同様よくわからないけど、何度でも読みたいと思った。 後半は、すごく共感することが多かった。自分の中で経験だけしていて、でも上手く抽象化できなかった考えがまとまっている感じで、すごくすっと入ってきた。
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自分の言いたいことを相手に理解されないような言い方で言う。というようなことが要請される状況とはいかなるものか?短絡的な衒学趣味などではなく、真に切実なのは言論統制下で検挙されずに抵抗するさいの技法である。 本邦では花田清輝のレトリックを思いだす。「私の本はまるっきり無視された」と...
自分の言いたいことを相手に理解されないような言い方で言う。というようなことが要請される状況とはいかなるものか?短絡的な衒学趣味などではなく、真に切実なのは言論統制下で検挙されずに抵抗するさいの技法である。 本邦では花田清輝のレトリックを思いだす。「私の本はまるっきり無視された」と後に語っている。 サルトルやブランショこういう技には長けていた。真っ向から反抗してつかまってしまえばおしまいである。つかまらないで抵抗し続けるために知をつくして姑息な手段を用いること、これ自体がまた抵抗となる。 ラカン、レヴィナスの難解さをそう感慨をもって理解させてもらった。 有為転変の果ての(結局それは最初からあったもののように見えてしまうが、論理としてはそうなる)レヴィナス哲学―罪状なき有責性、善の無条件承認、「私」「存在論の帝国」からの脱却(このテーゼは花田と共通する)は「他者による主体の権力性の審問に同意する」という倫理に収斂するダイナミズムにまた感動がある。 たいへんにさまざまなことにぶつかる冒険の書で、およそ30ほどの課題を書きだして見た。実践と次の思索に役立つ素材が連なる。 理解できないことよりも、誤解することが恐ろしい。従ってあいまいなままの棚上げが意味をもつ。これもまたラカンの教え。 本書ももしかするとダブルミーニングの書であるかもしれない。存在論(権力)の語法はそこかしこにあふれている。
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ラカンとレヴィナス。著者はその共通点を「難解であること」としてラカンを通じてレヴィナスを読み解く。こちらとしてはもう難解なものの2乗のようなものだけれども、著者のいう「始原の遅れ」という概念で通じるものがあるようだ。師に対して弟子が「なぜそのようなことをするのか」と問う瞬間に、彼は自分が「ルールを知らないゲームに参加してしまったビギナー」となり、その時点で彼は「絶対的に遅れ」てしまう。武道家でもある著者はおそらくそれを体感的にも既知のものとして知っていたと思われる。この後二重化された謎〜二度問われること。対話には3人目の人格が必要になること。死者という他者の存在。話はどんどん抽象的で難解なものになっていく。しかし彼らのテクストは難解であることに意味がある、と思われる。繰り返し読むしかないだろう。 自分が「分からない」事だけは激しく分かってしまった。
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よくわからないレヴィナスをよくわからないラカンと一緒に読むと、あら不思議、ちょっとわかる、気がする、ような気もする。 しかしレヴィナスの現象学に対する認識と、現象学を超えた他者を想定していたことはわかった。 読みかけになっていた『ヴェール/ファロス』に通ずるところもある。 一番共...
よくわからないレヴィナスをよくわからないラカンと一緒に読むと、あら不思議、ちょっとわかる、気がする、ような気もする。 しかしレヴィナスの現象学に対する認識と、現象学を超えた他者を想定していたことはわかった。 読みかけになっていた『ヴェール/ファロス』に通ずるところもある。 一番共感したのは冒頭から始まる「師弟論」。 他者としての師匠、見つけたいし誰かの師匠でありたい。 ストーリーテラーとして内田氏は優秀。
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内田先生のレヴィナス三部作の二作目。 私が内田先生に惹かれるようになったのは、ちくまプリマー新書の『先生はえらい』を読んでからだ。『先生はえらい』には、中国古代の戦略家であった張良に関するエピソードとその読み解きが出てくる。黄石公と張良のエピソードは横山光輝の漫画『項羽と劉邦』...
内田先生のレヴィナス三部作の二作目。 私が内田先生に惹かれるようになったのは、ちくまプリマー新書の『先生はえらい』を読んでからだ。『先生はえらい』には、中国古代の戦略家であった張良に関するエピソードとその読み解きが出てくる。黄石公と張良のエピソードは横山光輝の漫画『項羽と劉邦』で知っており、どことなく「変な話だ」とよく『項羽と劉邦』を好きな家族と話していたのだった。そのエピソードに対して、鮮やかな解釈と驚きを私に与えたのが『先生はえらい』だった。師と弟子というイメージとそれにまつわる様々なものが、ひとつの偉大な絵画に収められたように私の心に焼き付けられた。師から弟子へと奥義を渡す様を描いた絵。『他者と死者』にはその張良のエピソードが再掲してある。『先生はえらい』で得られた衝撃が、内田先生の思想をまとめる上で重要な位置づけを果たしているのだろうかと思い、個人的に非常に嬉しかった。 上でも述べたように『他者と死者』はこれまでの内田先生の論考と重複するところがあると先生自身も断っている。以前読んだ『レヴィナスと愛の現象学』なども思い出しながら、一つ一つ内田先生の思考の軌跡を追っていく。一章「知から欲望へ」、二章「テクスト・師・他者」、三章「二重化された謎」と進んでいく。二章では張良のエピソードの他に村上春樹さんの「うなぎ」の例えが引かれる。内田先生の考える際の「構え」を確認しながら読む。振り返ると、この本の半分ぐらいをなす四章「死者の切迫」から終章までが本書独自の読みどころが多く含まれているように思う。 その多くを割いている四章は、レヴィナスの語法について「倫理的」な読み解きをしたもののように思えた。「倫理的」という言い方が妥当かはわからないが、内田先生がレヴィナスを読む時は、姿勢を正してしっかりと時間をとり向き合う、という取り組み方まさにそのものに近いような、姿勢を正されるような読み解きがそこにある。カミュの『異邦人』も話に出てきて、これまで抱いていたイメージが書き換えられた。胸が熱くなるような文章が続く。 難しいし、哲学に疎いので十全に把握して読めたのかは謎である。また読み返すことになるだろうと思う。ただ、序章や一章に書かれていることは、レヴィナスに興味がない人でも、別に哲学を志す人でなくても読んで得られるところのある文章だと思う。自分の理解の範囲を超えているものに立ち向かう際に勇気を与えてくれる文章。読み通すのが難しいような文学に対しても、有効な言葉だと思う。
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「存在するとは別の仕方で」死者は生者の中に存在させられるが、これは同時に生者がいなくとも、死者が存在することを意味する。身近な人間の死は、表面上小文字の他者の死ではあるが、それが私の中では、いたって大文字の他者と同じ審級で存在し続けているということか。しかし、この死者への束縛を解...
「存在するとは別の仕方で」死者は生者の中に存在させられるが、これは同時に生者がいなくとも、死者が存在することを意味する。身近な人間の死は、表面上小文字の他者の死ではあるが、それが私の中では、いたって大文字の他者と同じ審級で存在し続けているということか。しかし、この死者への束縛を解放するとは、一体生者の側において死者の意味をどう扱えばよいということなのか。生者が死者を召喚するのではなく、死者が生者を召喚する時、私は死んだ人間が死を選択、覚悟した時の叫びと思いを想像するのみなのか。
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わたしが内田樹を「師」と(仮定)するのは、 おそらく考え方のパラダイムシフトを喫緊の課題として抱えているからだと思う。 本書に沿って言えば、 「存在論的な話法」からの脱却である。 それはつまり、 「私」の「外部」にある何らかの実体に「悪」を凝縮させ、 それと「戦う」主体としての「私」を立ち上げるという物語のあり方からの脱却である。 この「存在論的な話法」は、 政治家を叩くマスコミであれ、 マスコミを叩く2ちゃんねるであれ、 上司の悪口を言う会社員であれ、 それこそ石を投げれば必ず当たるほどに瀰漫している。 だからといって、 「そこから即脱却せねばならない」と声高に叫んでみたところで、 これほど広くしかも無意識的に膾炙した考えを取り去ることは難しい。 であるならば、 この「存在論的な話法」を、 とりあえず太陽とか空気とか海とかといった自然条件として捉えてはどうだろう。 ありていに言ってしまえば「前向きに諦める」のである。 そんなブレイクスルーもあっていいんじゃないのかしら。
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2004年既刊の文庫版(2011年9月)。 ナチスを経験し「生き残ってしまった」ユダヤ人レヴィナスを語る内田さんの言葉(2004年)は、まるで3.11の大震災を受けてから書かれた言葉であるかのように届いてくると思う。ので、以下、ネタバレだけど、書き留めておきたい。 「 生死の分節線を引くこと、それが『死者を弔う』ということである。 弔うのは、この場合、それによって『無意味に死んだ』人々の霊を慰めるためというよりもむしろ、『無意味に生き残ってしまった』自分たちの生き残りという事実に何らかの意味をもたらし来たらすためである。死者たちに向かって『私たちが生き残ったのは、あなたがたのために/あなたがたに代わって、ある仕事を果たすためだったのです』と告げることができなければ、『私が生き残った理由が分からない』という、生きていることの根源的な無根拠性に彼らは耐え続けなければならない」(165)。 「レヴィナスたち『ホロコーストの生き残り』が、生き残ったことをそれでも自分に向けて合理化することばがあるとすれば、それは『私たちは自分たちの責務に加えて、あなたたちの責務をもあわせて引き受け、それによってあなたたちが死んだことによってこの世界にもたらされた欠如を最小化するつもりである』という決意を述べることの他にない。 生き残ったことに意味を与えるとすれば、それは生き残った者は、より多くの責務を果たし、より多くの受苦に耐えるために、つまり特権のゆえではなく、より多くの義務を引き受けるために選ばれたのだ、という自己規定をみずから引き受けることの他に道がない」(166)。
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