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なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか の商品レビュー

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33件のお客様レビュー

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2012/11/30

フレデリック・ワイズマン 結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである 個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている ショットが長ければ長い...

フレデリック・ワイズマン 結果的にテーマが出てくるのはよいが、製作中にテーマに縛られないことが肝心なのである 個人的には、タイトルはシンプルであればシンプルであるほど、観客の頭の中でイメージが広がりやすく、強い印象と余韻を残すのではないかと思っている ショットが長ければ長いほど、観客に自分の目で観察・解釈できる時間が与えられるので、映像は多義的になる。逆にショットが短ければ短いほど、作り手による操作の強度が高くなり、映像は多義性を失っていく 観客に観察モードを立ち上げさせるために、長いショットを使う つくづく思うのは、作品が結果だとすれば、方法論は原因である。旧態依然たる作り方をすれば、必ず作品もそうなる。原因をそのままにして、結果だけ変えようとしても無理だからである。逆に言うと、作品を変えたければ、方法論を変えればよい。それは映画だけでなく、あらゆる分野の「イノベーション」に言えることだと思う マース・カニングハム チャンス・オペレーション ブレアウィッチは、映し出された学生たちが現実に存在し、彼らの身に降り掛かった出来事が実際に起きたものだという前提があってはじめて、観客を魅了することができた 同じ映画を観ても、それをドキュメンタリーだと思って観るのと、フィクションだと思って観るのでは、こうも印象が違うものか 観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察にならざるを得ない 映像にはそのような言葉の呪縛、つまり固定観念を乗り越えられる可能性がある。既成の言葉を介在させることなく、現実をダイレクトに映し出すことが可能だからだ。だからこそドキュメンタリー映像は、うまくすれば、現実を理解する枠組そのものを溶解させ、更新するための契機になり得る。ドキュメンタリーにナレーションによる説明が不要であることの、もう一つの重要な理由であろう 演劇を観る人々は、「人間の心の中を垣間見たい」と思って劇場にやってくる(平田オリザ) そして、俳優が演じる演劇なら、いくら人間の心の内側を覗き見ても、倫理に反することはない

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2012/11/14

 ナレーションもBGMもないドキュメンタリー映画『選挙』を観て、想田和弘という監督を知る。この手法を彼は「観察映画」と呼んでいる。ここでは、その理論と実践、方法論などが明かされている。  「観察」とは、製作者である監督のみが行うものではなく、映画を観る者も行うという二重性を持たせ...

 ナレーションもBGMもないドキュメンタリー映画『選挙』を観て、想田和弘という監督を知る。この手法を彼は「観察映画」と呼んでいる。ここでは、その理論と実践、方法論などが明かされている。  「観察」とは、製作者である監督のみが行うものではなく、映画を観る者も行うという二重性を持たせた概念である。そのため、「しっかり観ること」「耳を傾けて聴くこと」が基本となり、ナレーションもBGMも自ずから排除されることになる。しかも、台本もなく撮影が始まるので、「観察映画」は、「偶然に遭遇し続ける旅」の様相を見せる。そして、スクリーンで展開されるドキュメンタリーは、人生そのものへと変貌する。  「犬も歩けば棒に当たる」という言葉が思い浮かぶ。  「偶然とは街だ。限りなく真実をはらみ、変幻する街、それでいて書物より単純な街」というセリーヌの言葉も想起させられる。  寺山修司の『書を捨てよ、町に出よう』」というタイトルの本があったことも思い出される。  平凡な日常も、実は偶然の連続であることに気付かされる。すると、「私は、はたして、目の前に生起する毎日の出来事を<観察>しているのだろうか?」という自問が立ち上がってきた。

Posted byブクログ

2012/10/26

ドキュメンタリーが作り手の作為から自由になれないという意味ではフィクションとの境が曖昧であるという主張は森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」と同じであった.森達也が同書でドキュメンタリーのフィクション性に徹底的に論及するしていったのと比較して、本書では作り手の意思から全く自由に...

ドキュメンタリーが作り手の作為から自由になれないという意味ではフィクションとの境が曖昧であるという主張は森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」と同じであった.森達也が同書でドキュメンタリーのフィクション性に徹底的に論及するしていったのと比較して、本書では作り手の意思から全く自由になる事はできないが、「台本主義」からできるだけ自由になるための参与観察の重要性を説く. ドキュメンタリー論だけでなく、それぞれの映画への思い入れ、舞台裏、各登場人物の細かな感情描写、映画制作の台所事情など色々バラエティに富んだ内容となっている. 何より著者の登場人物達に対する親しみの気持ちがよく伝わってくる. 映像をとりあえず撮り貯めておいて、編集の時に多くの事に気づくなどは興味深かった. 以下同書から. 「観察」の対義語は「無関心」である. 観察は、他者に感心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである.それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる.観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない.

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2012/04/17

台本主義を捨て、僕らの目の前でおこっていることを観察することでみえてくる世界がある。僕らは台本主義、マニュアル、事前知識のおかげで、今そこでおこっていることを見逃してしまっているかもしれない。字幕も、ナレーションもない想田映画が、とてもワクワクして、説明抜きでも何が起きているかが...

台本主義を捨て、僕らの目の前でおこっていることを観察することでみえてくる世界がある。僕らは台本主義、マニュアル、事前知識のおかげで、今そこでおこっていることを見逃してしまっているかもしれない。字幕も、ナレーションもない想田映画が、とてもワクワクして、説明抜きでも何が起きているかがわかって、見返したくなる魅力があるのは、これほどストイックに観察をし続け結果だった。映画PEACEのメイキングとしても楽しめます。

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2012/01/02

一種のメディア論でもあるが、筆者の映画や被写体、そしてこの偶然の積み重ねである世界に対する愛情が感じられた。 結局、映画でもテレビでも何かを表現することは世界を切り取ることであり、つくり手の「主観」が入るわけだけれど、この本に書いてあるようなことを知っているか知っていないかって...

一種のメディア論でもあるが、筆者の映画や被写体、そしてこの偶然の積み重ねである世界に対する愛情が感じられた。 結局、映画でもテレビでも何かを表現することは世界を切り取ることであり、つくり手の「主観」が入るわけだけれど、この本に書いてあるようなことを知っているか知っていないかってことは結構重要であると思う。

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2011/11/14

映画作家である想田監督が提唱・実践する「観察映画」とは?監督のドキュメンタリー論に触れて人、環境、社会、あらゆる出来事に対する見方が変わりました。想田監督の映画とあわせてオススメです! 【九州大学】ペンネーム:カカオ

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2011/12/10

この本、思いの外、面白い。新書向けの文体だと思う。新書でも、学術論文っぽいくせに、冗長的なものもあるけれど、これは、スルスルと、文字通り映画でも見ているかのように読み進んでしまう。構成が、ドキュメンタリー映画作家ならではだと感じるのは、褒めすぎ? けれど、著者が提唱する観察映画が...

この本、思いの外、面白い。新書向けの文体だと思う。新書でも、学術論文っぽいくせに、冗長的なものもあるけれど、これは、スルスルと、文字通り映画でも見ているかのように読み進んでしまう。構成が、ドキュメンタリー映画作家ならではだと感じるのは、褒めすぎ? けれど、著者が提唱する観察映画が、ナレーションも台本もない、つまり、準備された言葉で説明されないこととは対照的に、これは本。それゆえに、言葉で伝えなければならないジレンマがなかったのだろうか。観察映画には、台本、ナレーション、音楽や効果音が一切無いという。テレビ番組のディレクター時代の経験から、真逆の作り方を提唱するようになったのだそうだ。独身の頃、深夜のテレビ・ドキュメンタリーが好きでよく観ていた。深夜枠だったから、著者の考え方に近い作り方だったかもしれない。けれど、効果音こそなかったけれど、ナレーションは内容を伝える、重要な機能を持っていたように思う。著者は、最初にテーマや台本があると、対象を深くとらえられず、発見が得られない、と言う。対象を撮り続ける過程を通じ、テーマを発見していく手法は、僕達が恩師のもとで学んだ、居住環境/空間のフィールドワークと共通する。対象に対して、心を開くと言うスタンスも。【途中の感想につき、書きかけ】

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2011/11/09

今夏「Peace」という映画を見ました。 その監督がこの本を書いているのですが、映画の裏側、思いを綴っていて、予備知識なく映画を見た私の(映画を見て不思議に思っていたことの)謎解きをしてもらいました。

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2013/01/23

気付きの多い本だ。「台本至上主義」からの脱皮を望む潜在願望があったのだろう。 例えば何かのプロジェクトや会議の前には事務局として「落としどころ」を模索しがち。オチに無理矢理持ち込むんじゃなくて、もっとその場のライヴ感みたいなものから新しい発見があったりしないのかと思ってたところ...

気付きの多い本だ。「台本至上主義」からの脱皮を望む潜在願望があったのだろう。 例えば何かのプロジェクトや会議の前には事務局として「落としどころ」を模索しがち。オチに無理矢理持ち込むんじゃなくて、もっとその場のライヴ感みたいなものから新しい発見があったりしないのかと思ってたところ。 そうゆうとこでも、前半の観察映画製作プロセスの考え方は大いに参考になる。 テーマは原因ではなく結果。テーマは後から発見される。深いな、考えさせられる。 善悪二元論、どっちかに決めつけるから思考が止まる。グレーの濃淡の揺らぎこそアート。これもまた深い。 後半は著者の作品「Peace 」の撮影・編集・上演されるまでの過程を。読んでるだけで作者がカメラひとつで撮影に臨む真摯な姿勢がよく分かる。感動すらおぼえた。 現在、平田オリザの劇団の観察映画製作中とのこと。

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2011/10/06

想田監督の創作態度に大いに共感。 モチーフを100%伝えるなんてできっこないことをわかりながらも 清濁あわせのむ世界を自らのフィルタを通し誠実に表現したいと努力する監督。 そうやって意識して作っているドキュメンタリー作者、意外と少ないんじゃないかと思った。 望ましくない現実も許容...

想田監督の創作態度に大いに共感。 モチーフを100%伝えるなんてできっこないことをわかりながらも 清濁あわせのむ世界を自らのフィルタを通し誠実に表現したいと努力する監督。 そうやって意識して作っているドキュメンタリー作者、意外と少ないんじゃないかと思った。 望ましくない現実も許容すること。

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