1,800円以上の注文で送料無料

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか 講談社現代新書
  • 中古
  • 店舗受取可
  • 書籍
  • 新書

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか 講談社現代新書

想田和弘【著】

追加する に追加する

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか 講談社現代新書

定価 ¥880

220 定価より660円(75%)おトク

獲得ポイント2P

在庫わずか ご注文はお早めに

発送時期 1~5日以内に発送

店舗受取サービス対応商品

店舗受取なら1点でも送料無料!

店舗到着予定

7/5(金)~7/10(水)

商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 2011/07/16
JAN 9784062881135

店舗受取サービス
対応商品

店舗受取なら1点でも送料無料!
さらにお買い物で使えるポイントがたまる

店舗到着予定

7/5(金)~7/10(水)

なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか

¥220

在庫わずか
ご注文はお早めに

カートに追加するカートにいれる

商品レビュー

4.1

32件のお客様レビュー

レビューを投稿

2019/07/20

(01) 観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。 人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には...

(01) 観察、そして参与観察という問題が、著者のドキュメンタリーの中心として語られる。当然、観察にともなる加害者性や暴力についても言及されている。 人間の「やわらかい部分」を撮影(*02)し、公開することにおいて、被写体の同意があるとはいえ、著者も含め、ドキュメンタリー作家には罪悪の意識がともなわないわけではない。そのような加害性のある映像についての著述は、贖罪にもなりうるし、言い訳のように読めることもある。 (02) ドキュメンタリー映画もフィルムからデジタルへと技術が転換し、低予算で多くの撮れ高を生産できるようになったことが、ドキュメンタリーの再興につながったと説明されている。また、編集作業は、観察映画にとって発見の過程であるとされる。二次三次にわたる取材内容の点検が作品の質に寄与しているが、それ以前の多産性は、ドキュメンタリーのより大きな可能性につながるように思える。映像素材の量的な氾濫は、ドキュメンタリーのみならず、映画の変革を促すのかもしれない。

Posted by ブクログ

2019/07/12

2019年7月12日読了。 ●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極 力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に (ダイレクトに)語...

2019年7月12日読了。 ●観察映画の源流となっているのは、1960年代にアメリカ で勃興した「ダイレクトシネマ」と呼ばれるドキュメン タリー運動である。それは、ナレーションなどの力を極 力借りずに、撮れた映像と現実音で全てを直接的に (ダイレクトに)語らせる方法である。 →『大統領予備選挙』ロバート・ドリュー監督/1960年 ●ダイレクトシネマ 「生の素材=現実や登場人物に雄弁に語らせる」ことを 主眼にした、一種の思想運動と捉える事が出来る。 「現実に耳を傾け、何かを謙虚に学ぶための装置」 ●毎回1人の人物を取り上げる20分間のドキュメンタリー 『ニューヨーカーズ』NHK ●『戦艦ポチョムキン』エイゼンシュタイン/1925年 →モンタージュ理論 ●観察映画で発揮すべき作為とは「無作為の作為」。 作り手の「ああしよう、こうしよう」という作為を 可能な限り消すこと。 ●マース・カニングハム ニューヨークを拠点に活躍した、ダンス界の巨人。 前衛音楽家のジョン・ケージと親交が深かった彼は 1950年代、サイコロや易を使ってダンスの振り付けを 始める。偶然性を基盤に振り付けを行う「チャンス・オ ペレーション」と呼ばれる手法を確立。 ●ドキュメンタリーとは、「偶然の出来事の連なりをとら え、作品に昇華される芸術」 ●本 『ドキュメンタリーは嘘をつく』森達也 「ドキュメンタリーもフィクションである」佐藤真 ●世界初のドキュメンタリー映画 『極北のナヌーク』ロバート・フラハティ/1922年 ●『A』森達也/1997年、『阿賀に生きる』佐藤真/1992年 ●原一男は自らのドキュメンタリー作りを「冥府魔道に入 る」(踏み越えるキャメラ)と表現し、佐藤真は「あら ゆるドキュメンタリー作家は、いかに善人ぶったふりを していようと、本質的には悪党である」(ドキュメンタ リー映画の地平)と書いた。 ●会話を入れ込むヒントとなった映画 『フォーエバー』エディ・ホニングマン/2006年 ●師匠・中村英雄 日テレの『すばらしい世界旅行』などを制作。

Posted by ブクログ

2019/05/03
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

 ナレーションや音楽をかぶせないということは、映像が本来持つ多義性を尊重し、残すということなのである。(p.90)  そもそも、ドキュメンタリー=フィクションでいいなら、ドキュメンタリーというジャンルの存在自体がナンセンスである。ドキュメンタリーという分野が存在し、僕らを虜にするのは、実在する人物や状況を被写体とすることに、独特の面白さ、危うさ、残酷さがあるからである。また、作品に偶然性を取り込むことによって、作り手や観客の予想を超えた思いがけぬ展開=ドキュメンタリー的驚天動地が期待できるからである。(p.117) 「観察」という行為は、一般に思われているように、決して冷たく冷徹なものではない。観察という行為は、必ずといってよいほど、観察する側の「物事の見方=世界観」の変容を伴うからだ。自らも安穏としていられなくなり、結果的に自分のことも観察せざるを得なくなる。(p.125) 「観察」の対義語は、「無関心」ではないかと、ある人が言った。僕は、なるほど、と同意する。観察は、他者に関心を持ち、その世界をよく観て、よく耳を傾けることである。それはすなわち、自分自身を見直すことにもつながる。観察は結局、自分も含めた世界の観察(参与観察)にならざるを得ない。観察は、自己や他者の理解や校庭への第一歩になりうるのである。(p.126)  橋下さんは自らの死について語るとき、必ずちらりとカメラを見るのである。たいていの場合、それはほんの一瞬なので、たぶん大多数の観客は気がつかない。僕も撮影のときには気づかない一暼が多かった。(中略)ただひとつ言えることは、橋下さんはカメラの前で、あたかも撮影されていないかのような、とても自然な振る舞いをされているけれども、実はカメラの存在に意識的であったということだ。少なくとも、カメラを一瞥する際、つまり自らの死について言及する瞬間には、カメラと僕の存在を強く意識していた。(p.165)  映画作家が撮れるのは、撮影者の存在によって変わってしまった現実以外に、あり得ない。だとすれば、撮影者の存在必死でかき消し、“なかったことにする”ことに、僕は積極的な意義をあまり見出せない。(p.178)

Posted by ブクログ

関連商品

最近チェックした商品