日本語教室 の商品レビュー
今年亡くなった井上ひさしさんがかつて大学で行った講義録をまとめた1冊。変わりゆく”日本語”を独特の視点でとらえ、若者に日本語の価値を再確認して欲しいという思いが込められている。
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井上ひさしが上智大学で行った日本語教室を収録した一冊。玄人はだしの圧倒的な知識量と軽妙な語り口には圧倒されるが、反面人を上っ面だけで小馬鹿にするような発言も多く、しかも人を小馬鹿に出来るほど、本人の発言に筋が通っていない。思想的には一本筋の通った人だと思うし、きっと日本語感覚が鋭...
井上ひさしが上智大学で行った日本語教室を収録した一冊。玄人はだしの圧倒的な知識量と軽妙な語り口には圧倒されるが、反面人を上っ面だけで小馬鹿にするような発言も多く、しかも人を小馬鹿に出来るほど、本人の発言に筋が通っていない。思想的には一本筋の通った人だと思うし、きっと日本語感覚が鋭いという評判も本当なのだと思うが、遅筆で知れた著者にとって推敲もへったくれもない講義集(口述)では、これくらいが限界なのだろう。身も蓋も無い話だが、こんな本を読むくらいなら、過去の文豪の著作を読んだほうが、よっぽどよろしい。
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小学校教育で子供たちに、しっかりとした日本語と日本の歴史を 学ばしてあげたい。 そこから初めて日本人としての誇りと、自分の考えを筋道立てて、 表現できるグローバルな人間が生まれるのだろう。 表面だけの薄っぺらい人間だと、世界を相手に対等に 渡り合うことは不可能であろう。
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井上ひさし氏の母校・上智大学で行われた連続講義。アクセントとリズム、母音の長短の対立といった視点が面白い。普段使っているのに、意外と気がつかない母国語のルール…
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茶畑は「ちゃばたけ」と「畑」が濁音になって 田畑は「たはた」と「畑」が清音になる。 濁音になるか清音になるかは2つの言葉に主従関係があるか、または2つの言葉が同等かで決まって来るらしい。勉強になった。 日本語って深いなぁ〜。外来語や和製英語が氾濫しているこのごろだけど、日本語もも...
茶畑は「ちゃばたけ」と「畑」が濁音になって 田畑は「たはた」と「畑」が清音になる。 濁音になるか清音になるかは2つの言葉に主従関係があるか、または2つの言葉が同等かで決まって来るらしい。勉強になった。 日本語って深いなぁ〜。外来語や和製英語が氾濫しているこのごろだけど、日本語ももっと大切にしたいと思いました。
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どんなにグローバル化が進み、外国語の習得が必要な時代にあっても、日本語を大切にしなくてはいけないと考える。井上さんは、この著書の冒頭で、「母語より大きい外国語は覚えられないということです。つまり、英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語より大きい母語が必要なのです。だから...
どんなにグローバル化が進み、外国語の習得が必要な時代にあっても、日本語を大切にしなくてはいけないと考える。井上さんは、この著書の冒頭で、「母語より大きい外国語は覚えられないということです。つまり、英語をちゃんと書いたり話したりするためには、英語より大きい母語が必要なのです。だから外国語が上手になるためには、日本語をしっかり(中略)大事なところを自然にきちっと身につけなければなりません。」と言われています。今こそ、日本語を見つめなおし、本質を学び直す必要性を痛感します。
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日本語についての講演を纏めた新書。日本語の成り立ちや語法、外国語との比較など。発見が多く、軽い語り口ですいすい読める。演劇出身ということもあり、話すための日本語に大切なものなど、生きた日本語を使っている。
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こういうのは好きです。井上ひさしさんはいい本を残してくれました。ベトナム語をかじったり旅で英語を使ったりすると、日本語ってなんで今みたいな形になったんだろうって考えることがあります。「デフレの正体」とおんなじぐらいおすすめです。みんなで日本語を守ろう!
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朝から始めてスラスラ読めた。日本語の標準は東北弁だった?日本語の成り立ち、常に乱れる日本語、美しい日本語などないと言うことなど。ここでも外来語のカタカナ語の危険性も触れられているのでちょっと掘り下げてみる。 セーフガード、クラフツマンシップ、プロジェクト等々外来語ならなんで...
朝から始めてスラスラ読めた。日本語の標準は東北弁だった?日本語の成り立ち、常に乱れる日本語、美しい日本語などないと言うことなど。ここでも外来語のカタカナ語の危険性も触れられているのでちょっと掘り下げてみる。 セーフガード、クラフツマンシップ、プロジェクト等々外来語ならなんでもカタカナ語に出来てしまう。そうやってカタカナ語にしてしまうことでその言葉の理解を放棄していないか?と思うのね。 明治なって外来語を取り入れるとき、必死こいて日本語に咀嚼しようとしていくつも言葉が生まれた 例えば「社会」「個人」もこのとき生まれた言葉。それ以前はそれら概念が無かったから未だに社会と個人の関係が欧米と日本で違う(このことは「世間とは何か」より)。それでも外国語を理解しようとしていた。 さて、現代のカタカナ語は先人達の努力に比べてなんとまぁ、軽い言葉だなと思う。 カタカナ語にする事で分かった気になっている。それがグローバリズムだから(あっ!カタカナ語使った!!)、そのほうが頭良く聞こえるから 言語は絶えず変化しているという。日本人が言葉を考えるのを放棄したのか?それともこれが変化する日本語の最前線なのか? 以上
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「日本語」について これほど 難しいことを 易しく 易しいことを 深く 深いことを おもしろく 語れる お人が 居なくなってしまったことを つくづく 寂しく 感じてしまいます
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