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ひとり暮らし の商品レビュー

3.6

123件のお客様レビュー

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2020/07/24

 詩人、谷川俊太郎のエッセイ集。  父や母、恋や死、ライフ・スタイルなど何気ない日々の事象をテーマに語る。  日常生活の中で、常に身近にあるもの。空、人、靴、コーヒー、イヤリング、鉛筆。わたしはそのそれぞれと、きちんと向き合ったことがあるだろうか。  世の中に在る万物の中の一つ...

 詩人、谷川俊太郎のエッセイ集。  父や母、恋や死、ライフ・スタイルなど何気ない日々の事象をテーマに語る。  日常生活の中で、常に身近にあるもの。空、人、靴、コーヒー、イヤリング、鉛筆。わたしはそのそれぞれと、きちんと向き合ったことがあるだろうか。  世の中に在る万物の中の一つ一つではあるが、わたしに自分の意識とは別に、それらと向き合うきっかけを与えてくれるのは本である。情報に溢れる世界で私たちは知らず知らずのうちに、受け取る情報を主観的に取捨選択している。一生向き合う事のない物事はたくさんあるのだろう。  どうせ、すべては網羅できないのだから無駄な抵抗だと考える人もいるかもしれないが、それでも一つでも多くのものと触れ合いたい。一つでも多くのものを感じたい。  ライフ・スタイルについて。  「スタイルという言葉は、分かっているようでよく分からない言葉である。美術の方では様式といい、文学の方では文体という。例えば一篇の小説を読むとき、私たちはその筋を追い、描写を楽しむ。だが同時に私たちは意識するしないに関わらずその文体をも読み取っていて、それは筋や描写よりもずっと曰く言い難いものである。だが私は一篇一の小説の進化はその文体にこそ表れると信じている。ではその文体に現れるものは一体何なのだろう。うまい言葉が見つからないが強いて言葉にするなら、それはその作家の生きる態度とでもいうべきものだろうか。  文体は一つの形かもしれないが、それは目に見えにくい。だがそこに作家の生きる形が隠れている。ライフ・スタイルという場合のそのスタイルも、今では文体と同じように目に見えにくくなっていると考えることはできないだろうか。目に見えなくても私たちはそれを心で感じる。そこにその人の『生きる流儀』を見出す。ときにそれに反発し、ときにはそれに励まされる。生きることは本来形では捉えきれぬものだと思う。ひとつのうつわに生きることの混沌を容れようとしても、生きるエネルギーはともすればそこからはみ出す。だがそれでも私たちは皆、生きることに何らかの一貫した形を与えようとする。  (中略)  私たちは生きて行く一瞬一瞬に、意識していなくても常に自分のライフ・スタイルにつながる大小の選択をしている。  ライフ・スタイルとはそういう選択のつながりと、そこに否応なしに現れてくる、『暮らし方』よりももっと深い、一人の人間の『生き方』そのもののことではないかと私は思う。選択にはどうでもいいようなものもあれば、一生にかかわる、むしろ決断と呼ぶのがふさわしい大切なものもあるだろう。  (中略)  ときには迷いに迷った末の選択、ときには自分でも思いがけない選択が、しかしその人の行動となって表れてくる。それはその人が言葉で言っていることと必ずしも一致しない。しかし他人の目から見ると、そこにその人の人となりが浮かび上がってくる。私はそのようなものとして、つまり既成の形にも、ある種の集団にも属さない極めて個人的なものとして、今ではその形を失いつつあるかのようなライフ・スタイルというものを、考え直してもいいのではないかと思っている。」  私は「ライフ・スタイル」一つをテーマに、ここまで向き合い、自分の心の底にある想いを語れるような大人になりたいのである。

Posted byブクログ

2020/04/01

これも、無印良品店舗の拘り本棚で見つけた一冊。詩集ではなくエッセイ集。文章は80年代から15年間ほどに書き溜められたものだけど、何ひとつとて古びていない。 その中で「これを読んだから、後の文章はお腹いっぱいで読めない」と思う一文があった。 「恋は大袈裟」(作品社『恋歌1』はし...

これも、無印良品店舗の拘り本棚で見つけた一冊。詩集ではなくエッセイ集。文章は80年代から15年間ほどに書き溜められたものだけど、何ひとつとて古びていない。 その中で「これを読んだから、後の文章はお腹いっぱいで読めない」と思う一文があった。 「恋は大袈裟」(作品社『恋歌1』はしがき1985)。  初め私は母親のからだの中にいた。私のからだと母親のからだは溶け合っていた。 ‥‥と始まる。確かにそうだよね。  私は母親のからだから出て、私自身のからだをもったが、そのからだはともすると、母親のからだの中へ帰りたがった。 ‥‥と続く。ここまでは、マザコンの文章とも言えなくはない。  母はひとりの人間であるとともに、自然そのものであった。 (略)母と一体になりたいという欲望は、自然に溶け込みたいという欲望と区別できなかった。 ‥‥ここまで来れば、それは最早不平等社会を批判して「自然に帰れ」と謳ったルソーを彷彿させる。だが、やがて母親は自分の身体の死などを以て人間社会のしきたりをも教えるのである。そうやって、子供は親離れをして「母親に代わる存在を求める」。  恋とは私のからだが、もうひとつのからだに出会うことに他ならない。 ‥‥ここで初めて「恋」の文字が出てくる。壮大なのである。  心とからだの矛盾に満ちた関係は、人間と自然の矛盾に満ちた関係から生まれた。矛盾を生きることで、調和を見出そうとする欲求も両者に共通なものであるとすれば、恋もまた、人間同士の戦いであるとともに、人間の自然との戦いのひとつと見ることもできる。そこでの平和がいかに得難いものであるかは、誰もが知っている。 ‥‥山極寿一さんは『暴力はどこからきたか』の中で、人類をサルから人間に変えたものは、直立歩行と、もう一つは「家族」だと喝破しました。家族という共同体を守るために人間は進化したのであるが、その共同体を守らせるために、人間は暴力装置(=国家)を作りました。その国家は、「戦争」という矛盾の固まりを発明しました。しかし、戦争は40万年の人類の歴史の中で、まだ1万年以下の日にちしか経っていません。これからが、改善過程なのだ。恋をして、平和な家族が可能なように、平和な国家関係はきっと可能なのに違いない。 谷川俊太郎さんは以下の様に最後の行を書きます。あまりにも要約し過ぎて意味が通じないかもしれませんし、ちょっと大袈裟に紹介し過ぎたかもしれませんが、私が「もうお腹いっぱい」と言った気持ちだけはわかってくれたでしょうか?  ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことにそんな努力も人類を根絶やしにするほどの力はもてなかった。  恋は大袈裟なものだが、誰もそれを笑うことはできない。

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2020/03/15

詩人でもあり翻訳家など様々な顔を持つ谷川俊太郎さんが書いた、雑誌のコラムや記事をまとめた文庫本 言葉のプロが語るコラムは、1つ1つが丁寧できれいな言葉でまとまっており、1つの詩を聞いているように耳に残ります。 何となく、お盆休みのおじいちゃん家の軒下で、ゆっくり進む時間の中、お...

詩人でもあり翻訳家など様々な顔を持つ谷川俊太郎さんが書いた、雑誌のコラムや記事をまとめた文庫本 言葉のプロが語るコラムは、1つ1つが丁寧できれいな言葉でまとまっており、1つの詩を聞いているように耳に残ります。 何となく、お盆休みのおじいちゃん家の軒下で、ゆっくり進む時間の中、おじいちゃんの世間話を聞いているような感覚。どこか懐かしい情景を想いながら読み進めていました。 「人は死ぬと暇になるということだ。あの世にいる人間は、この世のあわただしさに煩わされないので、いくらでも相手をしてもらえる」 故人を思い出すときは、きっかけがあったり、突発的であったり。 そのことを表す言葉にピッタリの言葉に胸打たれました。

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2020/01/28

谷川俊太郎さんが、60歳から70歳くらいの間に、日常生活を淡々と綴った作品。友人と会って食事したり、展覧会にいったり、自炊したり。一人暮らしをマイペースで過ごされている様子が伝わってきました。亡くなられたお父様、お母様への思いが語られるところにはジーンときました。

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2019/09/08

1985~2001年の間に各所で掲載されたらしいエッセイを時系列にまとめている。前半はテーマや言葉に沿ったもの、後半は「ある日」と題されたもので1999~2001年の日記を抜き書きしたような体裁。 平易な言葉で読みやすく、詩人の思考をたどるのはなかなか面白いものだ。小説家の旅行記...

1985~2001年の間に各所で掲載されたらしいエッセイを時系列にまとめている。前半はテーマや言葉に沿ったもの、後半は「ある日」と題されたもので1999~2001年の日記を抜き書きしたような体裁。 平易な言葉で読みやすく、詩人の思考をたどるのはなかなか面白いものだ。小説家の旅行記なども好きだけど、この本のように日々思うことを書いたものもいい。谷川さんの場合、そこには当然、詩の存在がある。 たとえば「朝」という言葉について書かれた中の、こんな一文。 「若いころはいざ知らず今の私は朝が愉快ではありません。・・・しかし、そういう現実の私の朝の気分の単調さをそのまま詩にもちこむことはあまりありません。・・・曖昧な感情と認識の複雑さが詩句にあらわれていなければ、詩の魅力の大半は失われてしまうでしょう。」 また、ダライ・ラマ法王が東京に来た時の話も、興味深い。

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2019/07/16

小学生の頃から、谷川俊太郎さんの書く詩に親しみを感じ、大人になっても何となく好きな詩人。 その人が書くエッセイってどんなものだろうと、わくわくしながら手にとった。 詩人というと、哲学的で高尚なことを常に考えている人をイメージするが、このエッセイにも書いてある通り、「普通のおじい...

小学生の頃から、谷川俊太郎さんの書く詩に親しみを感じ、大人になっても何となく好きな詩人。 その人が書くエッセイってどんなものだろうと、わくわくしながら手にとった。 詩人というと、哲学的で高尚なことを常に考えている人をイメージするが、このエッセイにも書いてある通り、「普通のおじいさん」なんだなぁという感想を持った。 宣伝郵便物の多さに辟易し、多忙な仕事をこなし、仲の良い友人たちと旅行にいったりする、普通のおじいさん。 でも、そんな飾り気のない文章の合間に、時折見せる「言葉」への想いは、やはり詩人だなぁと思う。

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2019/04/06

このひとの手にかゝれば、日々のあらゆる出来事が「詩」となる。 生きること。そのことに対する心からの驚きと敬意。頭で考へられた、脳みそ的な人生ではない。谷川俊太郎の生活を示す情報としてのエッセイではない。等身大のひとりの人間が生きることを感じ、考へてゐる、そのひとつの生きた存在であ...

このひとの手にかゝれば、日々のあらゆる出来事が「詩」となる。 生きること。そのことに対する心からの驚きと敬意。頭で考へられた、脳みそ的な人生ではない。谷川俊太郎の生活を示す情報としてのエッセイではない。等身大のひとりの人間が生きることを感じ、考へてゐる、そのひとつの生きた存在であると思ふ。 生きてゐれば、身体は衰へるし、頭もぼけてくる。大切なひとは徐々に死んでゆき、気づけば子らも成長し家には自分ひとり。 ことばは、概念といふ形のないものであると同時に、確固たる輪郭をもつたひとつの形である。その狭間で揺れ動き、どこまでも考へると同時にその実体に触れる時、存在といふものを知る。詩とは、さうした詩人(ひと)の歩いた印だと思ふ。茨木のり子さんが数年もの間、次のフレーズが書けずにゐたこと、リルケが存在を前にして、ことばが尽きてしまつたこと。さうして詩の一粒がはらりとこぼれ落ちる。 生活のあれこれを綴つてゐるやうにみえるこの詩たちも、どれほど丁寧に生活を詩としてゐるのかの現れではないか。自分の詩に対して迷ひのない解説が加へられ、確かな声で朗読ができるといふのは、単にそれが対価を貰つて成される仕事であるといふこと以上に、詩が彼自身であるからではないか。 ”さびしさ”を「さびしさ」と呼べるやうになるまでに一体どれほどひとは選び、そして捨ててきたのか。捨ててきたもの、ことばにはならないもの、それも含めて”さびしさ”であることには変はりない。それを切り捨て、忘れていくのではなく、共に抱へていくことこそ、愛といふものだと彼は信じて今日も生きてゐる。

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2018/12/08

有名な詩人のひとの随筆 詩とか歌とかはさっぱりわからんので そのものでなく随筆なら理解の一助にでもなるかと思って読んでみた まあふつう 思えば随筆単体だけでみるということは少なく 小説作品などを書いているひとが書く随筆というかたちしか 読んだことがなかった気もする そうでない場合...

有名な詩人のひとの随筆 詩とか歌とかはさっぱりわからんので そのものでなく随筆なら理解の一助にでもなるかと思って読んでみた まあふつう 思えば随筆単体だけでみるということは少なく 小説作品などを書いているひとが書く随筆というかたちしか 読んだことがなかった気もする そうでない場合すなわち作者の作品傾向を知っていないと ふつうのことを書いているようにしか見えない 随筆とはそういうものかもしれないが

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2018/03/03

谷川俊太郎さんのエッセイには、驚くくらい共感するところが、たくさんある。こんな風に生きていければ素敵なんだけれど。

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2017/09/03

谷川俊太郎…敬称をつけるべきでしょうか…小学生の教科書に載っていたぐらいだから、とっくにいなくなっていたかと思いきや、まだ生きてるんですよね?ここ数年で検索したら、結婚、離婚を繰り返し、随分好き勝手やってる、飄々としたオトコなんだな…と。 で、この人のエッセイは初めて。初めてこ...

谷川俊太郎…敬称をつけるべきでしょうか…小学生の教科書に載っていたぐらいだから、とっくにいなくなっていたかと思いきや、まだ生きてるんですよね?ここ数年で検索したら、結婚、離婚を繰り返し、随分好き勝手やってる、飄々としたオトコなんだな…と。 で、この人のエッセイは初めて。初めてこの人の思ってることに触れられました。文を読んでも、やはり好き勝手やってる…という印象ですが。でも爺さんだから時代が違うから、エッセイなのにスルスル読めるようで、どこかスムーズにいかない。そこが谷川俊太郎を舐めてかかってはいかんぜよ…てことかもしれない。ゆっくりじっくり爺さんを味わいます。

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