ひとり暮らし の商品レビュー
確か倉本聰のドラマで萩原健一主演の「君は海を見たか」の中で、不治の病の息子が盗作する「生きる」という詩が谷川俊太郎のものだったと思う。 他には、ビートたけしの「たかをくくろうか」という歌の作詞も、谷川俊太郎だったと思う。 「ひとり暮らし」というタイトルで買った本である。 詩人の...
確か倉本聰のドラマで萩原健一主演の「君は海を見たか」の中で、不治の病の息子が盗作する「生きる」という詩が谷川俊太郎のものだったと思う。 他には、ビートたけしの「たかをくくろうか」という歌の作詞も、谷川俊太郎だったと思う。 「ひとり暮らし」というタイトルで買った本である。 詩人の感覚、日常、それこそ暮らし方を垣間見ることが出来る。
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「昼には青空が嘘をつく」の詩を、私は青空とありながらも地球上のことを表現してると思っていたが、宇宙の虚無を覆い隠している青空という観念のもとに書かれたものだと知ることができてスッキリした! 辻征夫の視座に憧れた、 谷川父の蔵書がある常滑の図書館に行ってみたし
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やっぱり谷川俊太郎まで来ちゃうと、私生活のクリアさっていうか・・・ 世界への視点が一般人と共感するラインと一線を画する部分とが絶妙だな・・・
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谷川俊太郎さんは本当に日本一の天才だ。小学生にもわかる言葉だけで、あんなに豊かな世界を表現することができるのってすごい。神様にお願いして誰かの才能をもらえるとしたらこの人だと思う。弟の名前はこの方から字をもらって付けられているが、正直めちゃくちゃ羨ましい…。 エッセイはさらりとしている。思ったより適当でサバサバしたひとで、死に対する積極的な姿勢が良かった。 私が好きなのは、ロマンチック全開の「恋は大袈裟」と、「ことばめぐり」の章。 「空」から始まって「愛」まで、一つの漢字に対して短い文章が連なっている。言葉に対する感性と世界観がはっきり示されていて面白い。詩人と、世界と、言葉とのつながり。 「……たとえば一個の美しい細工の小箱を前にする時と同じような態度が、読者には必要とされるのではないでしょうか。そこでは言葉は木材のような材質としてとらえられ、それを削り、磨き、美しく組み合わせる技術が詩人に求められる倫理ともいうべきものであり、そこに確固として存在している事実こそが、詩の文体の強さであるはずです。作者である詩人はそういう『形』の中にひそんでいる。」 花の名前をすぐ忘れてしまう、というくだりは私もそれで気にしていたのでちょっとほっとした。名前を付けるという行為は確かに世界からその存在を切り取り、理解の支配に置くという行為だ。それは愛でもあるけれど、手折るその時に零れ落ちるものがある。言葉によって切り取る前の存在を、まるごと捉えるようにして抱き込む、そういう心構えでいればいいのかな…と励まされた。
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詩人の谷川俊太郎のエッセイ集です。 とりとめない文ではあるのですが、老いや死についての率直な考えが伺えるのが面白かったです。ところどころで紹介される自身の詩についても、率直な考えと一緒に読めるので背景がわかり却ってすっと入ってくるように感じました。
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どうも食わず嫌いで読んでこなかった谷川俊太郎である。69歳の時のエッセイであり、その年齢に近づきつつある今、肩の力が抜ける気にさせる本であった。「水俣を取る写真家たちはみな、被写体に自己を捧げざるを得ない。撮っても撮っても撮りきれない現実の重さと深さに打ちのめされることなしでは、...
どうも食わず嫌いで読んでこなかった谷川俊太郎である。69歳の時のエッセイであり、その年齢に近づきつつある今、肩の力が抜ける気にさせる本であった。「水俣を取る写真家たちはみな、被写体に自己を捧げざるを得ない。撮っても撮っても撮りきれない現実の重さと深さに打ちのめされることなしでは、水俣の現実に迫ることは出来ないだろう。だが考えてみれば現実とはすべてそのようなものではないかと思う。」自分の今をそのように感じ続けることが生きることなんだと改めて思う。
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「詩人・谷川俊太郎が書いた」という事実により、面白さが支えられている。エッセイとは大体がそうであるが、内容自体は性格の良いお爺さんの日々でしかない。
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詩人、谷川俊太郎のエッセイ集。 父や母、恋や死、ライフ・スタイルなど何気ない日々の事象をテーマに語る。 日常生活の中で、常に身近にあるもの。空、人、靴、コーヒー、イヤリング、鉛筆。わたしはそのそれぞれと、きちんと向き合ったことがあるだろうか。 世の中に在る万物の中の一つ...
詩人、谷川俊太郎のエッセイ集。 父や母、恋や死、ライフ・スタイルなど何気ない日々の事象をテーマに語る。 日常生活の中で、常に身近にあるもの。空、人、靴、コーヒー、イヤリング、鉛筆。わたしはそのそれぞれと、きちんと向き合ったことがあるだろうか。 世の中に在る万物の中の一つ一つではあるが、わたしに自分の意識とは別に、それらと向き合うきっかけを与えてくれるのは本である。情報に溢れる世界で私たちは知らず知らずのうちに、受け取る情報を主観的に取捨選択している。一生向き合う事のない物事はたくさんあるのだろう。 どうせ、すべては網羅できないのだから無駄な抵抗だと考える人もいるかもしれないが、それでも一つでも多くのものと触れ合いたい。一つでも多くのものを感じたい。 ライフ・スタイルについて。 「スタイルという言葉は、分かっているようでよく分からない言葉である。美術の方では様式といい、文学の方では文体という。例えば一篇の小説を読むとき、私たちはその筋を追い、描写を楽しむ。だが同時に私たちは意識するしないに関わらずその文体をも読み取っていて、それは筋や描写よりもずっと曰く言い難いものである。だが私は一篇一の小説の進化はその文体にこそ表れると信じている。ではその文体に現れるものは一体何なのだろう。うまい言葉が見つからないが強いて言葉にするなら、それはその作家の生きる態度とでもいうべきものだろうか。 文体は一つの形かもしれないが、それは目に見えにくい。だがそこに作家の生きる形が隠れている。ライフ・スタイルという場合のそのスタイルも、今では文体と同じように目に見えにくくなっていると考えることはできないだろうか。目に見えなくても私たちはそれを心で感じる。そこにその人の『生きる流儀』を見出す。ときにそれに反発し、ときにはそれに励まされる。生きることは本来形では捉えきれぬものだと思う。ひとつのうつわに生きることの混沌を容れようとしても、生きるエネルギーはともすればそこからはみ出す。だがそれでも私たちは皆、生きることに何らかの一貫した形を与えようとする。 (中略) 私たちは生きて行く一瞬一瞬に、意識していなくても常に自分のライフ・スタイルにつながる大小の選択をしている。 ライフ・スタイルとはそういう選択のつながりと、そこに否応なしに現れてくる、『暮らし方』よりももっと深い、一人の人間の『生き方』そのもののことではないかと私は思う。選択にはどうでもいいようなものもあれば、一生にかかわる、むしろ決断と呼ぶのがふさわしい大切なものもあるだろう。 (中略) ときには迷いに迷った末の選択、ときには自分でも思いがけない選択が、しかしその人の行動となって表れてくる。それはその人が言葉で言っていることと必ずしも一致しない。しかし他人の目から見ると、そこにその人の人となりが浮かび上がってくる。私はそのようなものとして、つまり既成の形にも、ある種の集団にも属さない極めて個人的なものとして、今ではその形を失いつつあるかのようなライフ・スタイルというものを、考え直してもいいのではないかと思っている。」 私は「ライフ・スタイル」一つをテーマに、ここまで向き合い、自分の心の底にある想いを語れるような大人になりたいのである。
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これも、無印良品店舗の拘り本棚で見つけた一冊。詩集ではなくエッセイ集。文章は80年代から15年間ほどに書き溜められたものだけど、何ひとつとて古びていない。 その中で「これを読んだから、後の文章はお腹いっぱいで読めない」と思う一文があった。 「恋は大袈裟」(作品社『恋歌1』はし...
これも、無印良品店舗の拘り本棚で見つけた一冊。詩集ではなくエッセイ集。文章は80年代から15年間ほどに書き溜められたものだけど、何ひとつとて古びていない。 その中で「これを読んだから、後の文章はお腹いっぱいで読めない」と思う一文があった。 「恋は大袈裟」(作品社『恋歌1』はしがき1985)。 初め私は母親のからだの中にいた。私のからだと母親のからだは溶け合っていた。 ‥‥と始まる。確かにそうだよね。 私は母親のからだから出て、私自身のからだをもったが、そのからだはともすると、母親のからだの中へ帰りたがった。 ‥‥と続く。ここまでは、マザコンの文章とも言えなくはない。 母はひとりの人間であるとともに、自然そのものであった。 (略)母と一体になりたいという欲望は、自然に溶け込みたいという欲望と区別できなかった。 ‥‥ここまで来れば、それは最早不平等社会を批判して「自然に帰れ」と謳ったルソーを彷彿させる。だが、やがて母親は自分の身体の死などを以て人間社会のしきたりをも教えるのである。そうやって、子供は親離れをして「母親に代わる存在を求める」。 恋とは私のからだが、もうひとつのからだに出会うことに他ならない。 ‥‥ここで初めて「恋」の文字が出てくる。壮大なのである。 心とからだの矛盾に満ちた関係は、人間と自然の矛盾に満ちた関係から生まれた。矛盾を生きることで、調和を見出そうとする欲求も両者に共通なものであるとすれば、恋もまた、人間同士の戦いであるとともに、人間の自然との戦いのひとつと見ることもできる。そこでの平和がいかに得難いものであるかは、誰もが知っている。 ‥‥山極寿一さんは『暴力はどこからきたか』の中で、人類をサルから人間に変えたものは、直立歩行と、もう一つは「家族」だと喝破しました。家族という共同体を守るために人間は進化したのであるが、その共同体を守らせるために、人間は暴力装置(=国家)を作りました。その国家は、「戦争」という矛盾の固まりを発明しました。しかし、戦争は40万年の人類の歴史の中で、まだ1万年以下の日にちしか経っていません。これからが、改善過程なのだ。恋をして、平和な家族が可能なように、平和な国家関係はきっと可能なのに違いない。 谷川俊太郎さんは以下の様に最後の行を書きます。あまりにも要約し過ぎて意味が通じないかもしれませんし、ちょっと大袈裟に紹介し過ぎたかもしれませんが、私が「もうお腹いっぱい」と言った気持ちだけはわかってくれたでしょうか? ひとつのからだ・心は、もうひとつのからだ・心なしでは生きていけない。その煩わしさに堪えかねて、昔から多くの人々が荒野に逃れ、寺院に隠れたが、幸いなことにそんな努力も人類を根絶やしにするほどの力はもてなかった。 恋は大袈裟なものだが、誰もそれを笑うことはできない。
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詩人でもあり翻訳家など様々な顔を持つ谷川俊太郎さんが書いた、雑誌のコラムや記事をまとめた文庫本 言葉のプロが語るコラムは、1つ1つが丁寧できれいな言葉でまとまっており、1つの詩を聞いているように耳に残ります。 何となく、お盆休みのおじいちゃん家の軒下で、ゆっくり進む時間の中、お...
詩人でもあり翻訳家など様々な顔を持つ谷川俊太郎さんが書いた、雑誌のコラムや記事をまとめた文庫本 言葉のプロが語るコラムは、1つ1つが丁寧できれいな言葉でまとまっており、1つの詩を聞いているように耳に残ります。 何となく、お盆休みのおじいちゃん家の軒下で、ゆっくり進む時間の中、おじいちゃんの世間話を聞いているような感覚。どこか懐かしい情景を想いながら読み進めていました。 「人は死ぬと暇になるということだ。あの世にいる人間は、この世のあわただしさに煩わされないので、いくらでも相手をしてもらえる」 故人を思い出すときは、きっかけがあったり、突発的であったり。 そのことを表す言葉にピッタリの言葉に胸打たれました。
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