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邪悪なものの鎮め方 の商品レビュー

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59件のお客様レビュー

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2014/11/03

内田さんが過激派だったとは知らなかった。 道徳律というものはわかりやすいものである。 自分のような人間ばかりだと暮らしやすくなると思う人は自分に祝福を贈っていることになる・・というところに同感。 自分で自分に呪いをかけないように。 マルクスは話がでかくて面白い・・とあったので読...

内田さんが過激派だったとは知らなかった。 道徳律というものはわかりやすいものである。 自分のような人間ばかりだと暮らしやすくなると思う人は自分に祝福を贈っていることになる・・というところに同感。 自分で自分に呪いをかけないように。 マルクスは話がでかくて面白い・・とあったので読んでみようと思う。

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2014/10/14
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「どう振る舞っていいか分からないときに、適切に振る舞うためにはどうしたらいいか」、その答えを「ディセンシー(礼儀ただしさ)」「身体感度の高さ」「オープンマインド」と解く著者。その心は・・。 自分にとって、一番ドキッとさせられた項は、「原則的であることについて」。原則的であることが必須である側面としては、親が子供たいしてとる態度であるが、一方で原則的でない方がよい局面もあるいう。例えば、教師、さらには「老師」というような格になると、相手が幼児的な段階にあるときは原則的に振る舞い、相手がが十分に成長してきたら無原則に応じる。問題は、これを自分に対して適用する場合だ。往々にして、私たちはは自分たちにも原則的を適用し、自分を律しようとする。幼児な自分を制御する親=自分であろうとする。しかも、親と子供の関係と異なり、いずれも自分である場合には、制御する自分を乗り越えようとは思わないため、原則そのものを疑いにくい。その結果陥るのは、「若い頃にはなかなか練れた人だったのが、中年すぎると手のつけられないほど狭量な人になった」というケースであるという。 自律とはかくにややこしいものかと思わされた一節。

Posted byブクログ

2013/06/08

内田さんの本を読むと、自己肯定感が出てくるので好き。家族や社会との関わり方が見えてくる。自分を愛するように他者を愛せよ!

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2013/03/06
  • ネタバレ

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ブログに書きつづった雑多な内容の文章の中から、一つの主題としてまとめられそうなものを編集者が選び出し一冊に編んだもの。著者の数あるコンピ本の中でも読み応えのある一冊に仕上がっている。もっとも、題名は、凄い!の一語に尽きるけれど。 「邪悪なもの」とは何か。とりあえず「どうしたらいいか分からないけど、何かしないと大変なことになる状況」との遭遇とでも考えておけばいいだろう。自殺でも地震でもなんでもいい。個人レベルでも国家レベルでもそういう状況というのは常に存在する。著者は、このところずっと、そういう事態に直面したとき、適切にふるまうことができる手立てについて考え続けてきたという。 何に一番感心したかというと、いささか個人的な感想で恐縮だが、「自分自身にかけた呪い」は恐ろしい、ということである。呪いといっても、丑の刻参りに出てくるわら人形の類の話ではない。誰もが知らない裡に自分の生き方にしてしまっているものだ。当然、忌まわしいものでも何でもない。評者の場合、年少の頃より馴染んできた「個人主義」という考え方と、職業に就いてから知らず知らず身についた労働者意識というのが、それだった。それのどこが呪いだというのだろうか。 仕事の中には、担当が決まっている仕事と、誰かがやればいい仕事というものがある。誰かがやればいいのだから、自分がやってもいいことは分かっているのだけれど、自分の仕事でないことも分かっている。お節介を焼くのも焼かれるのも嫌いな性分で、そういうとき、自分の仕事以外には手を出さないことを原則として生きてきた。また、システムに不具合が生じたとき、責任の所在をはっきりするように発言してきた。それを曖昧なままにしておくと同じことが起きると思うからだ。 内田によれば「システム」に対して、「被害者・受苦者」のポジションを無意識的に先取するものを「子ども」と呼ぶ。世の中は不条理なもので、それらを統べる秩序などない。何の罪もない赤子が死ぬし、生きていること自体が他者の迷惑になるような人物がのさばっている。それなのに、何かが起きたとき、システムをコントロールしている「父」の存在を要請せずにはいられないのは、その人が「子ども」だからだ。 「父」が呼び出されることにより、事態に合理的な解釈が下され、混乱は回避されるが、事あるたびに「父」を呼び出すことは、「父=システム」の増殖を生む。世界はそうして偏在化した父によって支配されることになる。何が起きても、それを「父」との関わりに基づいて説明しようとするのは、一つの「トラウマ」である。 精神科医の春日武彦氏によれば「こだわり・プライド・被害者意識」というのは、統合失調症の前駆症状なのだそうだ。病というのはある状態に居着くことをいうが、これらの三つはどれもある状態に居着くこと(定型性)を意味している。 「人間の精神の健康は『過去の出来事をはっきり記憶している』能力によってではなく、『そのつど都合で絶えず過去を書き換えることができる』能力によって担保されている」と内田は言う。私たちは、過去の記憶を手がかりに現在を生きていくように思っているが、実際は、今の現実に合わせて過去を書き換えているのだ。過去の一点にこだわり、常にそこへ戻る「トラウマ」というのは、書き換え拒否の病態を指す。 一般的に原則を持つ人というのは、しっかりした人のようにいわれている。こだわりがあるというのは誉め言葉として使われる場合の方が多い。目からウロコとは、このことだ。「定型性」に固執する状態というのは、どうやら健康的でないらしい。 しかし、考えるまでもなく問題が起きるたびに「責任者出てこい」と言うばかりで自分は何も行動を起こそうとしなかったり、落ちているゴミを拾うのは自分の仕事ではないと見過ごしたりする人ばかりが周りにいたら、その世界はずいぶん住みにくいことだろう。そういう人たちは、そうすることで、システムの不具合を証明しているわけで、突きつめればシステムクラッシュが起きることで自分の正しさを証明しようとしているのだ。そう言われると、心の奥底にそんな気分があったことを認めたくなる。これが、自分自身にかけていた呪いだったのか。 自分が自分に課していた原則の妥当性が揺らぐことで、世界を見る目も自分を見る目も少し変わってくる。この経験は何やら晴れやかな気分だ。中禅寺秋彦に「憑き物」落としをしてもらったような気分である。なるほどタイトルは嘘ではなかったなと、あらためて感じ入った次第である。

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2012/08/18

105 人を見る目……まだ起きていないことについての予測の確かさ p153 誰かがやらないと片付かない仕事…自分の仕事・・・p225

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2012/07/31

「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」を数え上げるのを止めて、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分かち与えることのできるもの」をチェックする仕事に切り替えるということの方が、心身の健康にはずっとよいことであり、すぐれた「危機対応」である。 非現実の幻想を現...

「自分が所有したいのだけれど所有できていないもの」を数え上げるのを止めて、「自分がすでに豊かに所有しているので、他者に分かち与えることのできるもの」をチェックする仕事に切り替えるということの方が、心身の健康にはずっとよいことであり、すぐれた「危機対応」である。 非現実の幻想を現実だと思いなす、かなり身勝手な人間の場合しか「妥協」ということは起こらない。可動域の制約は「織り込み済み」の与件として、それを「勘定に入れた」上で、自分に何ができるかを考えていく。 まさに、「どうふるまってよいのかわからない場面で適切にふるまうことができる」ための発想の転換を促す要素が散りばめられています。

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2012/07/29
  • ネタバレ

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「どうしたらいいかわからない事態に遭遇したときにどう対処したらいいのか」 内田先生の答えは「ディセンシー(礼儀正しさ)」と「身体感度の高さ」と「オープンマインド」でした。(まえがきで書いちゃってます) その理由となるたくさんのお話を集めたもの。なるほどなるほど。

Posted byブクログ

2012/05/19

(以下引用) 安倍内閣が主導した改憲運動の狙いは、九条二項を廃することだが、その直接の目的はアメリカの海外派兵に自衛隊を差し出すことである。戦後六十年間、これほどアメリカに尽くしてきたのにまだ「自立」を認められないのは、「アメリカのために日本人が死んで見せないからだ」と思い込ん...

(以下引用) 安倍内閣が主導した改憲運動の狙いは、九条二項を廃することだが、その直接の目的はアメリカの海外派兵に自衛隊を差し出すことである。戦後六十年間、これほどアメリカに尽くしてきたのにまだ「自立」を認められないのは、「アメリカのために日本人が死んで見せないからだ」と思い込んだ政治家たちの結論である。私はこの意味をある意味で「可憐」だと思う。(P.131) 1960年代の初めまで、日本の会社の重役たちは三種類くらいの「お稽古事」は嗜んでおられたのである。なぜか。私はその理由がわかりかけた気がする。それは「本務」ですぐれたパフォーマンスを上げるためには、「本務でないところで、失敗を重ね、叱責され、自分の未熟を骨身にしみるまで味わう経験」を積むことがきわめて有用だということが知られていたからである。本業以外のところでは、どれほどカラフルな失敗をしても、誰も何も咎めない。そしてまことに玄妙なことであるが、私たちが「失敗する」という場合、それは事業に失敗する場合も、研究に失敗する場合も、結婚生活に失敗する場合も、「失敗するパターン」には同一性がある、ということである。(中略)だからこそ、私たちは「自分の失敗のパターン」について、できるかぎり情報を持っておくべきなのである。(P.189) 災厄は「芽のうちにつんでおく」方が巨大化してから対処するよりずっと手間がかからない。共同体における相互支援というのは要するに「おせっかい」ということである。最初に「災厄の芽」を見つけてしまった人間がそれを片付ける。誰もが「自分の仕事」だと思わない仕事は「自分の仕事」である。そう考えるのが労働の基本ルールである。(P.225) 「内向き」が繰り返し問題とされるのは、「内向き」では飯が食えないビジネスモデルを標準仕様にしたからである。「外向け」になるにはアメリカにはアメリカの、フィンランドにはフィンランドのそれそれの「お国の事情」がある。その切ない事情についてご配慮して差し上げるべきだろう。だが、わが日本には世界でも稀なる「内向きでもご飯が食えるだけの国内市場」があるのである。そこでちまちまと「小商い」をしていても飯が食えるなら、それでいいじゃないか。(P.243) 環境への負荷や食料自給の観点から見れば、人口減は「最適ソリューション」以外のなにものでもない。どう考えても、地球上に65億も人間がひしめいているのは「種として」危機的じゃ状況だからである。減らせるところから減らしたほうがいいに決まってる。「自分の食べる分のパン」の量をあらかじめ決めており、それを「神聖不可侵」の権利だと信じている人間の眼にだけ市場の縮小は危機的なものに見える。けれども「自分の食べる分のパン」を抑制する術を知っている人間にとっては市場の減少や人口減や経済活動の失速は「いつか見た風景」である。かつて小さな市場、乏しい人口、ぱっとしない経済活動の下でも、私たちの父祖たちはそれなりに快適に威厳をもって社会性粥を営んできた。どうして私たちに限ってそれができないと判断できるのか。(P.247) よく人々は「一度生活レベルを上げると、下げることができない」という言葉を口にする。その言葉は実感の裏付けがあって言われているのか。私は違うと思う。一度も「生活レベルを下げる」という経験をしたことのない人間がそういうことを断言できるのは、「みんながそう言っている」からというだけである。「一度生活レベルを上げると、下げることができない」というのは資本主義市場が消費者の無意識に刷り込み続けた「妄想」である。そう信じているせいで、人々は給料が減ると、アイフルやプロミスから金を借りてまで「今の生活レベル」を維持しようとする。(P.249)

Posted byブクログ

2012/01/10

とりあえず、「すべてのことを同じ論理(論法)で説明できない。だからガチガチに考えを固めない」っていうことだけが読みとれればいいと思っている。そしてそれは大事なことだと思う。

Posted byブクログ

2011/12/13

ブログの冊子化。共感できる文章もありできない文章もあり。 「どうしたら良いのかわからないけど何かしないと大変なことになるということは確実なとき」に適切な対応ができるためには? が大きなテーマです。その主語は個人家族日本学校大人子供etc さて、これを読んで私は“適切な...

ブログの冊子化。共感できる文章もありできない文章もあり。 「どうしたら良いのかわからないけど何かしないと大変なことになるということは確実なとき」に適切な対応ができるためには? が大きなテーマです。その主語は個人家族日本学校大人子供etc さて、これを読んで私は“適切な対応”がとれるようになったのか? …そうやって、ここで感じたものを糧としてもう一度自分と言うもののあり方を問い直すことができるのが、この本の成果であり目的でしょう。 蛇足。小学生向けに書いたと言う文章は、確かに難しすぎでした笑

Posted byブクログ