ある明治人の記録 の商品レビュー
会津の居酒屋 籠太 の個室に掛けられた、柴五郎の書(掛け軸)を見て、改めて手に取った、ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)であります。会津に対する新政府の非道な扱い等に思いをはせつつ、読んでおります。会津城主の松平容保は、1836年の生まれ、鶴ヶ城落城後も命を長らえて1893...
会津の居酒屋 籠太 の個室に掛けられた、柴五郎の書(掛け軸)を見て、改めて手に取った、ある明治人の記録(会津人 柴五郎の遺書)であります。会津に対する新政府の非道な扱い等に思いをはせつつ、読んでおります。会津城主の松平容保は、1836年の生まれ、鶴ヶ城落城後も命を長らえて1893年に逝去(尚、坂本龍馬も1836年生まれ、同い年)。その容保の孫が皇室(高松宮)に嫁ぐことで、会津藩と新政府(朝廷)は和解した、という事なのでしょうか。柴五郎(1859~1945:年若く白虎隊等に加入できず)が、遺書として残したものが、戦後(太平洋戦争の事です)出版されて、今も版を重ねているようです。明治維新とは何だったか等、色々考えさせらる本です。★5つであります。
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2016年4月「眼横鼻直」 https://www.komazawa-u.ac.jp/facilities/library/plan-special-feature/gannoubichoku/2016/0401-3712.html
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明治維新の重要な人物について、色々な本で読んできたが、会津側(幕府側)の方の伝記は初めて読んだ。明治維新の裏側ではこういうことが起こっていたのかと、とても驚いた。素朴な素直な文章で書かれていて、飾りもないゆえなのか、とてとどっしりと気持ちが伝わってきた。明治維新の話に興味がある方...
明治維新の重要な人物について、色々な本で読んできたが、会津側(幕府側)の方の伝記は初めて読んだ。明治維新の裏側ではこういうことが起こっていたのかと、とても驚いた。素朴な素直な文章で書かれていて、飾りもないゆえなのか、とてとどっしりと気持ちが伝わってきた。明治維新の話に興味がある方は是非読んでほしい。
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京都の守護職として幕府に対する忠義を崩さなかった会津藩に対して、明治政府から追討令が出され、薩摩と長州を中心とする軍勢が錦の御旗のもとに殺戮戦が繰り広げられました。さらに降伏後も下北半島の不毛の荒地に藩主ともども二万人近くの藩士が移封され、厳しい寒さと飢えのため多くの死者を出して...
京都の守護職として幕府に対する忠義を崩さなかった会津藩に対して、明治政府から追討令が出され、薩摩と長州を中心とする軍勢が錦の御旗のもとに殺戮戦が繰り広げられました。さらに降伏後も下北半島の不毛の荒地に藩主ともども二万人近くの藩士が移封され、厳しい寒さと飢えのため多くの死者を出しています。こういった事実は歴史の中に封印されており、あまり知られていません。この本は会津の士族の家に生まれた五郎少年の目を通して維新のときに起こった出来事が克明に記されています。 会津戦争の際には、母と妹が自刃し、下北の冬には寒さと飢えに苦しみ、そして、苦労の末、陸軍士官学校の生徒となります。遺書は、西南戦争の折に、兄弟揃って、会津の雪辱のため西征へと赴くところまでで終わっています。 平明な短文の文語体で事実の描写が積み重ねられ、目に見えるように光景が脳裏に思い浮かびました。自らを律して生きる五郎少年とその家族の姿勢は見事としか言いようがありません。極寒の下北の地で生活する中で、留守居の長男の兄嫁と同じ屋根の下に寝るのは失礼だ、と言って、暖をとる手段さえない小さな小屋に俵や蓆にくるまって寝起きする兄の五三郎、「会津の武士ども餓死して果てたるよ、と薩長の下郎どもに笑わるるは、のちの世までの恥辱なり。ここは戦場なるぞ、会津の国辱雪ぐまでは戦場なるぞ」と父親に叱咤されながら、吐きそうになりつつ死んだ犬の肉を飲み下した五郎少年。小説ではなく実際に起こったことだと知りながらも、たった140年前に本当にこんなことがあったのだろうかと思いたくなります。 五郎少年は、その後、陸軍大将に登りつめ、北清事変の際には冷静沈着な行動で世界の賞賛を浴びたといいます。気骨のある明治人、という使い古された表現では到底語り得ない方だと思います。
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岡田 英弘先生は「歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し理解し説明し叙述する営みである。」と定義した。歴史は自分の立ち場を正当化する武器になる、とも。 歴史が理解・説明・叙述の行為であるあるなら、そこには立ち位置、...
岡田 英弘先生は「歴史とは、人間の住む世界を時間と空間の両方の軸に沿って、一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で把握し理解し説明し叙述する営みである。」と定義した。歴史は自分の立ち場を正当化する武器になる、とも。 歴史が理解・説明・叙述の行為であるあるなら、そこには立ち位置、スタンスと言うものがある。 この本は朝敵といわれた会津藩から見た歴史書と言えるだろう。会津戦で自刃した祖母・母親・姉妹達に関する記述には涙を禁じ得ない。
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会津人柴五郎が残した記録。時期は戊辰戦争の会津落城から西南の役くらいまで。 現在殆どの人は知らないであろう会津藩のその後、全ての日本人に読んでほしいと強く思う。現在の学校の歴史の授業では絶対教えることの無い内容。 かくいう私も会津から北海道へ開拓で移住した人々の子孫。先祖の艱...
会津人柴五郎が残した記録。時期は戊辰戦争の会津落城から西南の役くらいまで。 現在殆どの人は知らないであろう会津藩のその後、全ての日本人に読んでほしいと強く思う。現在の学校の歴史の授業では絶対教えることの無い内容。 かくいう私も会津から北海道へ開拓で移住した人々の子孫。先祖の艱難辛苦を改めて知ることができた。 歴史は勝者が都合良く作るというのは確かな事実だろう。靖国神社が戊辰戦争のいわゆる賊軍を祀っていないことをどれだけの人が知っているのか。現在の自民党でも藩閥政治の名残りが強くある。 貴重な一冊。さすが中公新書。
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柴五郎はあの義和団によって北京が包囲されたとき、勇猛に戦い、援軍がくるまでの間各国の大使館をも守り、西洋人の信頼を得て、のちの日英同盟のきっかけをつくった人として知られている。ぼくもずいぶん昔に本書を買ったのだが、そのままになっていた。今回手に取る気になったのは、内田樹さんが新聞...
柴五郎はあの義和団によって北京が包囲されたとき、勇猛に戦い、援軍がくるまでの間各国の大使館をも守り、西洋人の信頼を得て、のちの日英同盟のきっかけをつくった人として知られている。ぼくもずいぶん昔に本書を買ったのだが、そのままになっていた。今回手に取る気になったのは、内田樹さんが新聞で本書を推薦していたことがきっかけである。会津人の戦いについては、さきにNHKの大河ドラマで新島襄の妻八重を描いた『八重の桜』で知っていたが、本書を読むと幕府軍の残酷さがひしひしと伝わってくる。明治維新の見直しが昨今言われているが、会津藩主の容保は京都守護職として朝廷を守っていたにもかかわらず、徳川慶喜がだらしないものだから、いつのまにか朝敵にされ、しかも、恭順を願い出たにもかかわらず薩長軍によって総攻撃を受けた。さらに、かれらは公称3万石実質7千石という下北半島の火山灰地に配置換えされ、ことばでは言えないほどの苦渋をなめさせられた。しかし、その中でも何人もの逸材が出ているのは、会津人の不屈の精神のなせるわざではあるが、当時藩閥跋扈の世にもかかわらず逸材を取り立てようとした人々がいたことも事実である。柴五郎は当時まだ10歳でものごとがよくわかっていなかったが、祖母、母、姉妹は自害し、兄たちも戦死するものあれば、藩の罪を背負って何年もの間獄につながれたものもあるという悲惨な環境下で育ったが、さいわい取り立ててくれるものがあり、陸軍幼年学校に入り、最後は陸軍大将の位まで昇った。本書はその柴五郎が幕末の戦いからはじまり、四番目の兄(のちの東海散士)がアメリカへ留学するところで筆を折っている。あとの部分や柴が述べなかった部分は編著者の石光氏の「柴五郎翁とその時代」が補って詳しい。石光氏は、柴が亡くなる昭和20年の数年前に本書のもとになった原稿を託され、読みながら不明の箇所を尋ね書き上げたという。中公新書本は1971年の出版なので、その間になんらかの形で出されたものか。石光氏は本書が衝撃の書と述べている。明治100年からまもない当時からすれば確かにそうであろう。ただ、ぼくは柴が抜擢されたあと、家のことを思えどなにもせず、しかも牢につながれた姉のことをそのあとなにも書いてないのが気になった。また、貧乏な暮らしをしたせいか、性格的に屈折してしまっていることも気になった。西南戦争のとき会津の人々は競って討伐軍に加わろうとした。つまり、それはあくまで私憤から出たものであった。この五郎青年がその後どうやって世界から賞賛され、将軍にまで登ったか知りたいところである。(ネット出調べると光人刊から村上兵衛『守城の人』1992年が出ていた。本書は600頁を越える大著でぼくは今この本に挑戦している)
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
1971年刊行。◆戊辰戦争で敗れた会津藩士の記録と聴取調査録である。中でも、戊辰戦争後、会津藩士が移転させられた陸奥国二戸、三戸での奮闘録はなかなか目にする機会がないかもしれない。
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今まで読んだ自伝の中では一番面白い。また一人 尊敬すべき日本人が増えた もっと軍人時代の話が知りたい。福沢諭吉、西郷隆盛、吉田松陰と比較して、本が少ない。福島県へ行ったら、図書館、歴史館で 柴五郎の史料を探したい
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旧会津藩士の息子として生まれ、義和団の乱で英国はじめ世界からその活躍を称賛された柴五郎の少年期の記録である。 『城下の人』の石光真清の息子である石光真人が、柴が自ら記録、保存していたものを、柴の死の三年前に筆写する機会を得たことによって、公となったものである。 本書には、1860...
旧会津藩士の息子として生まれ、義和団の乱で英国はじめ世界からその活躍を称賛された柴五郎の少年期の記録である。 『城下の人』の石光真清の息子である石光真人が、柴が自ら記録、保存していたものを、柴の死の三年前に筆写する機会を得たことによって、公となったものである。 本書には、1860年に会津に生まれた柴が、1868年の会津落城の際に祖母、母、姉妹を失い、移封された陸奥国斗南で寒さと飢えに苦しむ生活を送り、1873年に陸軍幼年学校に入校、1877年に陸軍士官学校に進むまでの記録が綴られている。 明治維新については、薩長側から語られることが多く、佐幕の会津が戊申戦争後このような境遇にあったことに驚くとともに、石光真人が本書の第二部「柴五郎翁とその時代」で書いているように、「いったい、歴史というものは誰が演じ、誰が作ったものであろうか」との思いを強く持った。この思いは、2013年のNHK大河ドラマ『八重の桜』を見た際に更に強くなった。 中立な歴史・客観的な歴史というものは存在しないのかもしれないが、「歴史」に接する際には、そのことを十分に意識する必要があることを改めて感じる。 (2011年5月了)
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