風立ちぬ・美しい村 の商品レビュー
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「風立ちぬ」はかなり面白かったです。 これは穿った読み方なのですが、トマス・マン『魔の山』と2000年代のセカイ系とを架橋するような作品だと思いました。 この八ヶ岳のサナトリウムには、『魔の山』のセテムブリーニのような癖の強い絡みをしてくる患者はいません。 ただ、節子の死を予告するために、No.17は死にます。 主人公はNo.17と話すことなく、その死を階下の音で知るわけです。 「風立ちぬ」では、死の予感を登場人物に与え続けるサナトリウムという舞台装置だけが取り出されています。 サナトリウムには、実質的に主人公と節子しか登場人物がいません。 そこでは「お互に与え合っているこの幸福、―皆がもう行き止まりだと思っているところから始まっているような生の愉しさ」を味わおうとして、それが終わる物語が展開します。 主人公の構想する小説は、主人公のこの悲劇的な境遇に対する陶酔の表出ですが、メタ的には決して長続きしないもの=死亡フラグとして機能しています。 実際にこの幸福が瞬間的にでも実現しているかというのも、議論の余地がありそうです。 二人はぼんやりとしたり、考え事をしたりして、核心的な話題に触れることを避け続けているからです。 二人は主人公の思っているとおりに通じ合っているのか、すれ違っているのか、すれ違っているとしたらいつからか。そういったことが、一人称小説の特性により終始曖昧にされています。 私としては、幸福からの死という筋立てと、サナトリウムという舞台装置が作り出す物語の圧力がある以上、二人の心は終始通じ合っていて、「風立ちぬ」の序盤には幸福が確かにあったと読むべきだと思います。 病弱な少女だけが主人公の世界の全てであるような物語は、2000年代のサブカルでしばしば描かれ、陳腐化しましたが、それでも否定しきれない魅力があったのは確かですから。 この幸福に綻びが生じたのは、節子の父の来訪でした。 父を前に節子は少女に戻ったように興奮しましたし、主人公は自身の小説を書くという仕事を思い出させられます。 世間から遊離しているサナトリウムという空間で、時が止まったような幸福を享受していた二人が、世間の一員であって幸福がもう続かないことを再認識させられます。 小説の終わりに彼女の死が待っていることは明らかです。 といっても節子の死そのもののシーンは描写されません。 この本は、できるだけ美しいもの(自然、節子、死の予感)を捉え続けようとしているからでしょう。 途中、地の文で節子を指して「病人」ということが増えてくるため少し怖かったのですが、多分、節子よりも病の持つ死の予感をフィーチャーしていたのでしょう。 長い文も多く、表現としては分かりにくいことも多いのですが、主題が親しみ深いので、読みやすいというか懐かしい作品でした。
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風立ちぬ。 “風立ちぬ、いざ生きめやも”出会いから別れまでを淡々と描いている。美しい自然の描写をからめながら静かに、けれどしっかりと生きようとしている2人の姿が浮かび上がる。
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2作品収録。 何気ない日常や心の動き、自然が丁寧で素朴な表現で描かれていた。激しい派手な出来事は起こらないのに、固唾を呑んで2人の行く末を見守ってしまう引力のある作品。 両作品とも4〜5話に分かれており、各話のつながりについていくのが難しく感じられる瞬間があった。しかし、その語ら...
2作品収録。 何気ない日常や心の動き、自然が丁寧で素朴な表現で描かれていた。激しい派手な出来事は起こらないのに、固唾を呑んで2人の行く末を見守ってしまう引力のある作品。 両作品とも4〜5話に分かれており、各話のつながりについていくのが難しく感じられる瞬間があった。しかし、その語られない空白の期間に何があったのかを読者に想像させるヒントが前後にあり、人によって読み方がかなり変わるのではないかと思った。 何度も読み返したい、面白い作品である。
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1930年頃から発生した新興芸術派でしたが、2年ほどでその活動が見られなくなります。 「新興芸術派十二人」に名を連ねた堀辰雄は、「意識の流れ」、「内的独白」の手法をもって人間の深層心理を描く『新心理主義』を取り入れ、新感覚派から連なる作風をさらに深めます。 本作収録の"...
1930年頃から発生した新興芸術派でしたが、2年ほどでその活動が見られなくなります。 「新興芸術派十二人」に名を連ねた堀辰雄は、「意識の流れ」、「内的独白」の手法をもって人間の深層心理を描く『新心理主義』を取り入れ、新感覚派から連なる作風をさらに深めます。 本作収録の"美しい村"と"風立ちぬ"はその体現といえる文学で、会話や状況説明、自然主義的な登場人物の行動の露骨な描写とは異なり、主人公の五感で起きたこと・感じたことを書くことで、読者はその世界を知り、心動かされる内容となっています。 本作収録の2篇は文体が非常に徒然としていて、小説でありながら詩を読んでいるかのような印象さえ受けます。 堀辰雄は1930年"聖家族"で高い評価を受けたのですが、同時期に喀血し、療養のため長野県のサナトリウムに入りました。 病臥中にプルーストの"失われた時を求めて"を手にし、その後の療養期間にジェイムズ・ジョイス等ヨーロッパ文学に触れていったことが、氏の作品に影響を受けていきました。 私自身プルーストを不勉強ながらまだ読んでいないのですが、"美しい村"はプルーストの文体を意識して取り入れられていると言われています。 各作品の感想は以下の通りです。 ・美しい村 ... まずははっきり言って読みにくいです。 というのも一文が異様に長く、句点までなかなかたどり着かないんですね。 例えば、"美しい村"は以下の文章から始まります。 "或る小高い丘の頂にあるお天狗様のところまで登ってみようと思って、私は、去年の落葉ですっかり地肌の見えないほど埋まっているやや急な山径をガサガサと音させながら登って行ったが、だんだんその落葉の量が増して行って、私の靴がその中に気味悪いくらい深く入るようになり、腐った葉の湿り気がその靴のなかまで滲み込んで来そうに思えたので、私はよっぽどそのまま引っ返そうかと思った時分になって、雑木林の中からその見棄てられた家が不意に私の目の前に立ち現れたのであった。" 早い話が、「頂上に天狗のモニュメントかなにかある丘を登ったら、知らない家の前に出てしまった」わけなのですが、とにかく文章が冗長でテンポが悪いです。 読んでいる途中で主文がわからなくなり、日本語を読んでいるのに頭に入ってきづらい感じを受けます。 情景を頭に思い描きながら読む必要があり、つらつらと読むとあっという間についていけなくなるので注意が必要です。 川端康成のように表現が難解というわけでもなく、描写は過ぎるほど丁寧なのですが、濃いめの珈琲と共に繙くことをおすすめします。 なお、ストーリーはほとんど無いです。 文章を生業にしている「私」は避暑地のK村に訪れます。 後半そこである少女に出会い、小説のインスピレーションを受けるという内容で、説明してしまえはそれだけです。 ただ、本作は起承転結を追うものではなく、主人公の心象を通した自然描写、作品内の空気の流れ、時間の流れ、あるいは停止を感じる作品だと思いました。 ちなみに本作登場の少女は、同書収録の"風立ちぬ"でヒロインとして登場します。 ・風立ちぬ ... こちらも"美しい村"と同じ感じの文調で、読みにくい部分があるのですが、"美しい村"で慣れたのか、結構すいすい読めました。 堀辰雄の代表作として有名な作品で、氏の私小説と言っていい内容だと思います。 信州長野の美しい高原に囲まれたサナトリウムがメインの舞台で、重い胸の病を患った婚約者「節子」との共同生活を描いた作品です。 5章からなり、出会ったばかりの節子との日々から始まり、結核が重くなりサナトリウムに入院して主人公も側室に止まることになり、病が進行し、そして。 ラストは静かな残心が感じられ、タイトルの元になったヴァレリーの詩「Le vent se lève, il faut tenter de vivre.」に込められた思いが、痛切に感じられました。 "美しい村"は読むのに苦心しましたが、本作を楽しむために是非、"美しい村"から読んでほしいと思いました。
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内的現実の世界が溶け込んだ風景と、めんどくさい性格。もしく愛と死。 ”舞台となった軽井沢が彼の内的現実の世界へ溶け込んで”と解説に在りましたが、その通りだと思います。 一冊を通して 軽井沢の風景が、まるっと作者の心の中にとけ込んでいて、 物語の中に、現実の世界の風景描写によ...
内的現実の世界が溶け込んだ風景と、めんどくさい性格。もしく愛と死。 ”舞台となった軽井沢が彼の内的現実の世界へ溶け込んで”と解説に在りましたが、その通りだと思います。 一冊を通して 軽井沢の風景が、まるっと作者の心の中にとけ込んでいて、 物語の中に、現実の世界の風景描写によって、主人公の心情が書かれてるように思いました。 それが美しく、すばらしい作品でした。 この文庫本は美しい村が先に収めらており、 主人公の男性が書いた手紙から始まるのですが、 その手紙の、 人懐っこい、それでいてどこか強がっているような性格、自分勝手な内容と、丁寧な文面に惹かれて読み始めました。 野薔薇と霧の中で少女の幻想を語ったかと思えば、 元カノ(もしくはリア充の友人)に会いたくないがために遠回りをしたり 美しい庭で美しい女性と運命的な出会いをしたかと思えば、 デート中に「意地悪!」と子供みたいに言い合ったり、 幻想的で美しい心理描写と、 若者らしい、ちょっとめんどくさい性格(これが青春の美しさってやつ?)のコントラストが面白い作品でした。 風立ちぬは ”死”というものがひとつのテーマとなっていますが 死は日常として緩やかに持続しており、その中で、静かに愛情が語られています。 静かにといっても淡々と悟りきったものではなく、 幸せな生活の夢を見たり、自問自答したり、 それを言っちゃだめだろ、、と思うような発言を口にしたり。 苦悩の中での発見や、相手の存在を見つめ直していく姿と、 そうした主人公を受け止めている病人の姿は、 思いやりに溢れています。 相手がそこにいるという幸せを噛み締める、目と目で見つめ合うだけの静かな愛情。 そんな風に人を愛せるように、なってみたいものです。
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サナトリウム文学って言葉を初めて知った。「風立ちぬ」は病気療養のため山の中の療養所(サナトリウム)で暮らす女性とその婚約者を描いた話(婚約者目線で書かれてて堀辰雄の実体験に基づくらしい)。こういうサナトリウムでの生活を描いた文学をサナトリウム文学っていうらしい。 「風立ちぬ」。せ...
サナトリウム文学って言葉を初めて知った。「風立ちぬ」は病気療養のため山の中の療養所(サナトリウム)で暮らす女性とその婚約者を描いた話(婚約者目線で書かれてて堀辰雄の実体験に基づくらしい)。こういうサナトリウムでの生活を描いた文学をサナトリウム文学っていうらしい。 「風立ちぬ」。せつなーい。いかにも儚い。残された命をだいじにだいじに過ごす系の恋愛小説の原点か。これ自体細ーいガラス細工みたいな話だった。飛行機の話がいつ出てくるのかと思ったら出てこなかった。 「美しい村」は、避暑地で、中学生みたいな主人公の男の人が小さいことで緊張したりどうしようとか思いながら過ごした日常の話、と受け取った。
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2013.11.8読了。 読んだのは改変版ではないやつだけど、登録は改変版しかできなかった…。 美しい村も風立ちぬも描写はいいなあと思うけど、どちらも唐突に終わる気がする。文学作品は突然終わるのが主流なのかな? 風立ちぬは切ないなぁ。結末がある意味確定してるから余計切ない。 しかも心情とかは主人公側からの描写しかないから、節子が本当は何を思っていたのかがわからないのがまた切なさを助長させてるというか… にしても文学作品というより当時は言葉遣いが美しくていいなぁ。
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ジブリ映画にもなった風立ちぬ。 映画を見る前に、原作も読みたいと思う。 貴方は映画と原作、どっちを見ますか? あるいは両方!? 志學館大学 : 90(くまる)
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映画の影響でとりあえず読んでみました。 残念ながら、全部は読みませんでしたが、風立ちぬの話はなんとも切ない話でした。映画の原作かと思っていたので、多少残念ではありましたが、これはこれで結構な内容でした。
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美しい言葉、美しい物語だった。 「死」というものをとても身近に感じながら、お互いを見つめること。きっと死んでしまうだろうということが分かりながら、そんな終わりを感じながら、だからこそ、どこまでも純粋に、どこまでも清潔に、愛は昇華していく。でも、決定的に節子が死に向かう中で病気では...
美しい言葉、美しい物語だった。 「死」というものをとても身近に感じながら、お互いを見つめること。きっと死んでしまうだろうということが分かりながら、そんな終わりを感じながら、だからこそ、どこまでも純粋に、どこまでも清潔に、愛は昇華していく。でも、決定的に節子が死に向かう中で病気ではない主人公が生に向かう時、愛の昇華は破綻を迎える。 若いうちの死は、本来のものではないからこそ、美しい。あるはずだったその先の生を想像力にだけ委ねることが出来るから。でも残された者は、生きていくしかない。それが責務であるかのように。「いざ、生きめやも」の誤訳問題は、生きることなど出来はしないという悲しみの思いと、それでも生きる以外にはないのだという強い思いの、どちらもが本当の気持ちであるということを示した訳ではないかという気がしている。 山のすがすがしい空気の中で、生と死のあわいをたゆたいながら、純化した心、儚い命、まるで、そう、絵柄としては、崖の上でキスをするクリムトの「接吻」を思い浮かべた。あんなに華やかな色彩ではないけれど、むしろ白一色が似合うと思うけれど、幸福そうに、でもすぐそこに死があって、退廃というほど爛れたイメージはなくても、それは紙一重かもしれないと思うのだ。
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