光あるうち光の中を歩め の商品レビュー
一行たりとも極太赤鉛筆の出番ないままだった。こういう読書は近年に例がない。序でに教徒としての素質も全くなさそうだ。
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※このレビューにはネタバレを含みます
ユリウスがパンフィリウスと謎の老人の相対する意見によって己の生き方を模索していく物語。パンフィリスの思想に傾倒する寸前で老人が現れるところは、1人の人の中にある陰と陽の部分が見え隠れする感じにも捉えられ、3人の登場人物を1人の心の中の葛藤に置き換えてもおかしくないと感じた。1800年代当時、宗教という難解でナイーブな事物に対して、パンフィリスと謎の老人の意見と言う形でトルストイが明瞭に紐解いていっているのはただただ圧巻であった。
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トルストイは自分の全集の中に、この作品は加えませんでした。 抽象的議論で埋め尽くされ、芸術作品として十分ではなかったということらしいです。 この徹底した文学、哲学に対する姿勢がトルストイの魅力なのだろうと思われます。
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キリスト文学なのである。説明が抽象的なのである。とにかく宗教とはなにかを私的解釈でひろげた一品。タイトルがごっついよなー。
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そもそも、これ小説なのか?というとかなり怪しくはある。 小説らしさなんてなにひとつとしてないからである。 描写もへったくれもなく、簡単な解説と後はひたすらに、 「会話の応酬」である。 つまり、「会話の応酬による思想書」、というのが、 本著を端的に表わした言葉かな。 かつて、と...
そもそも、これ小説なのか?というとかなり怪しくはある。 小説らしさなんてなにひとつとしてないからである。 描写もへったくれもなく、簡単な解説と後はひたすらに、 「会話の応酬」である。 つまり、「会話の応酬による思想書」、というのが、 本著を端的に表わした言葉かな。 かつて、ともだちは宗教のことを、「思考停止」だと言っていた。 マルクスは、宗教のことを「癌」だか「毒」だか言っていたはず。 しかし、トルストイは思考停止に陥ってはいなかった。 ユリウスの許に現れる「医者」と友「パンフィリウス」。 この二人の間で主人公は揺れ続ける。 医者はキリスト教は欺瞞であり、瞞着だと言い、 パンフィリウスはキリスト教こそが正しいのだと言う。 最終的にユリウスはキリスト教に行くわけだが、 そのときには年をとっており、早く、改心しなかったことを、 悔やむわけだが、老人から、 「神の前では我らは卑小、んなこと関係ねーよ」と言われて、 すっかり安心するわけだ。 まあ、今で言うところの「地球論」みたいなやつですね。 「地球に比べれば俺たちは卑小、俺が死んだところで地球が、 どうなるわけでもなし、まあ、気楽にいきましょーや」って感じ。 で、トルストイが思考停止に陥っていなかったという点の、 優れているところは、会話の応酬がかなり本気入ってるからである。 例えば、聖書だとか古事記だとかってやつは、 ひたすら神に都合がいいように書かれているわけだけど、 本著はそうじゃなくて、生々しいやりとりが繰り広げられている。 「君たちは、神の教えを実践できていないじゃないか」 「じゃあ、君たちこそ、自分たちのやろうとしている事業なんかを、 思うとおりに成し遂げられているのかい?」 パンフィリウスがユリウスにこう言ったように。 あるいは、医者がユリウスにこう言ったように。 「いいかい、キリスト教のやつらが教えるのはだね、 百姓が他人に向かって、どうせ思うような量の収穫にはいたってないわけだろ?じゃあ、海に種をまけよ、とそう言ってるようなものじゃないかな?」 この物語の惜しいところは、最終的に、 ユリウスがキリスト教徒の許へ行ってしまったところだろうと思う。 彼は行くべきではなかった。 なぜなら、彼みたいに迷って迷い続ける姿こそに、 ひとってやつが生きるある意味でひたむきかつ真摯な姿があるからだ。 右往左往しているユリウスはかなり間抜けにうつるかもしれないけれど、 人間なんてそんなものだ。 むしろ、パンフィリウスみたいな思考停止に陥ってしまうのは、 やはりいただけないのだ。 ユリウスは流され思考停止をしているように見えるけれど、 彼は彼なりに悩んでいるのであってつまり思考はやめていない。 さて、最後に宗教に対する個人的な見解を。 宗教はあってもいいが、そこに入信している人々は神を盲信するのじゃなく、 宗教の意義についてあれこれ考えて疑い悩み続けるべきである。 それこそが思考停止を防ぐものでありそうすれば無理に教えを、 誰かに押しつけたりもせずにいられることだろう。 逆にそれができない宗教はなくなってしまえばいいと思う、 とまで書くと暴論かもしれないが、 しかし、トルストイみたいに一生懸命考えてもらいたいと思う。 俺にしたって、宗教を端から否定していないし、 その意義も認めている(つもり)。 実際に宗教がなければ立ち直れないひともいるし、 宗教に救われたというひとも数少ないわけじゃないのだから。 つまり、悩み苦しみから逃げるようにして入信するのじゃなく、 悩み苦しみを背負ったまま入信するか、あるいは、 満たされているが敢えて入信するか、それこそが望ましいのではないか。 ひとまず、古典について言いたいのは、 「文字を大きくしてくれ」ということ。 文字が小さいと難解に見えて読む気をなくすが、 実は読んでみれば読めたりもするのだから。
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真実とは親密さ i.e. 直接性のことだと個人的には思う。トルストイがこの本の中で語っているキリスト教の言葉は、実存とは疎遠な抽象語(「人類普遍の神の摂理」「万人への愛」etc.)ばかりに思え、上のような意味での真実味を殆ど感じられなかった。言葉で語られる宗教というのは、どうにも...
真実とは親密さ i.e. 直接性のことだと個人的には思う。トルストイがこの本の中で語っているキリスト教の言葉は、実存とは疎遠な抽象語(「人類普遍の神の摂理」「万人への愛」etc.)ばかりに思え、上のような意味での真実味を殆ど感じられなかった。言葉で語られる宗教というのは、どうにも奇妙なものに思えてしまう。一言で言うと、説教臭い。
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放蕩息子が世俗での欲望追求と高みを目指しながら、精神の安らぎの世界にも魅かれる葛藤を問答形式で描く短編小説。本の著者紹介を読むと、自身の葛藤とその精神の終着を地でいくような作品であることがよくわかる。解説によれば短編ながらかなりの推敲があったようで、二転三転する主人公の心と重なり...
放蕩息子が世俗での欲望追求と高みを目指しながら、精神の安らぎの世界にも魅かれる葛藤を問答形式で描く短編小説。本の著者紹介を読むと、自身の葛藤とその精神の終着を地でいくような作品であることがよくわかる。解説によれば短編ながらかなりの推敲があったようで、二転三転する主人公の心と重なり、本人の葛藤のほどを覗える。 聖と俗のはざまで繰り返される宗教問答が会話の大半であるので、論理過多状態となって少々読みづらかった。 ラストは著者自身の最後に行き着いた心情がよくわかる結末となっている。
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トルストイの晩年の作品。 何度か全集的なものを読んだ記憶はあるが、この作品は記憶に無い。 晩年の原始キリスト教に傾倒した後の作品らしく、ローマ時代を舞台にしながら、キリスト教に帰依しそうになりながら説得されたり思いとどまったりする主人公の葛藤をベースに、教義や説得ロジックを伝え...
トルストイの晩年の作品。 何度か全集的なものを読んだ記憶はあるが、この作品は記憶に無い。 晩年の原始キリスト教に傾倒した後の作品らしく、ローマ時代を舞台にしながら、キリスト教に帰依しそうになりながら説得されたり思いとどまったりする主人公の葛藤をベースに、教義や説得ロジックを伝えていく仕立て。 言いたい事やゴールイメージは明確であるので、読んでいて違和感はあまりないが、トルストイの面白さだと僕の思っている「言語化されていない共通認識の言語化」はあまり無い気がする。 ただ、文化や宗教背景の違いである可能性も高そうなので一概には言えないけれども。 説得されそうになりながら、別のロジックで説明をされて思いとどまる。しかし、そのロジックを破る新しい考え方の説明、の繰り返しという手法はプレゼンテーションのやり方としては王道に感じた。
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キリスト教徒パンフィリウスの共産主義的思想と医者の資本主義的思想。二人の意見を聞く度に納得し意見が変わる主人公ユリウス。最終的にどちらを選ぶのか。。
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快楽と富と肉欲に溺れながら、人間の欲望を体現するように生き、ハイリスク・ハイリターンな人生を歩むユリウス。対してキリストの教えに忠実に神の国的共同体でストイックな生活を営む、パンフェリウス。 対照的な2人の対話が、ゆるやかな歴史の流れにそって進められていきます。 社会主義社...
快楽と富と肉欲に溺れながら、人間の欲望を体現するように生き、ハイリスク・ハイリターンな人生を歩むユリウス。対してキリストの教えに忠実に神の国的共同体でストイックな生活を営む、パンフェリウス。 対照的な2人の対話が、ゆるやかな歴史の流れにそって進められていきます。 社会主義社会の生まれる土壌における、共同幻想。 寒い国の人たちって孤高なくせに、何でこんなにも寂しがり屋なんだろうか。 ここに描かれているのは、さまざまな愛の形。 つまり、私たちを守る武器は「愛」であり、 私たちを滅ぼす最終兵器も「愛」であるということ。
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