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シッダールタ の商品レビュー

4.2

173件のお客様レビュー

  1. 5つ

    72

  2. 4つ

    48

  3. 3つ

    25

  4. 2つ

    5

  5. 1つ

    2

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2011/08/25

本書は仏教祖であるシッダールタの悟りへの道程を描いたフィクションである。 ヘッセの豊富なインド思想と青年の懊悩を書き出す技巧が上手く噛み合い、独特の世界観が醸し出されている。 親友ゴーヴィンダとともに沙門となった青年シッダールタ。頭脳明晰だがどこか世間を嘲ることの多い彼は、常に...

本書は仏教祖であるシッダールタの悟りへの道程を描いたフィクションである。 ヘッセの豊富なインド思想と青年の懊悩を書き出す技巧が上手く噛み合い、独特の世界観が醸し出されている。 親友ゴーヴィンダとともに沙門となった青年シッダールタ。頭脳明晰だがどこか世間を嘲ることの多い彼は、常にゴーヴィンダの一歩先を歩んでいた。彼らは覚者ブッダとの出会いを機にそれぞれ異なる道を選択するのだが、我が道を貫くことに決めたシッダールタは次第に放蕩児へと転落してしまう・・・ シッダールタは最終的に「ことば」や「思想」によらず「物」を重視する境地に至った。 つまりは言語化され、単純化された他人の経験や思想に頼るのではなく、自分自身で混沌とした人生を生き、道を切り開くことを説くのである。 本書で描かれるシッダールタは、たとえ研究に基づいたものであってもそれは西洋からの視点であり、史実からかけ離れた単なるオリエンタリズムなのかもしれない。しかし、それでもなんとも言えないこの世界観は唯一無二。 ヘッセはスゴイ。

Posted byブクログ

2011/07/23

悟りを開いたあとの「ブッダ」ではなく、悟りを開くまでの「シッダールタ」をヘッセが描く。 本を読むのが生活の一部になっているとはいえ、さすがに宗教関係の本ばかり読むと疲れてくる。なので、先生から課題として本を十冊読んでくること、と言われていたが、最後の一冊はちょっとサボってこの前...

悟りを開いたあとの「ブッダ」ではなく、悟りを開くまでの「シッダールタ」をヘッセが描く。 本を読むのが生活の一部になっているとはいえ、さすがに宗教関係の本ばかり読むと疲れてくる。なので、先生から課題として本を十冊読んでくること、と言われていたが、最後の一冊はちょっとサボってこの前読んだ『星と祭』(井上靖・著。十一面観音信仰のことが出てくる話)を入れちゃおうかなー、と思っていた。が、一応もう一冊借りるだけ借りとこう、と予備のために借りてきていたのが本書。 ところが、読み出したら止まらなかった。素晴らしくて。 ヘッセというと、『車輪の下』とか、あと教科書に載っていた短編(題名を忘れた・・・クジャクマユの話、というとわかる人はわかると思う)のイメージが強かったせいで、なぜに仏教をテーマに? というのか最初に思ったこと。 けれど、読み始めるとそんなことは吹っ飛んだ。 やれ仏教的な思想がどうのだとか、ブッダが悟りを開くのがどうのだとか、そんなことは何も知らなくていい。ただ、この本の世界観や、流れている空気の肌ざわりが濃密に、かつ繊細に練り上げられていることに、素直に感動すればいいと思う。 というより、「ブッダ」や「仏教」がテーマとして描かれている、ということを忘れてしまうくらい、本の中の空間がリアルなのである。読んでいて全く鼻につくところがない。宗教としてどうのこうのというよりは、私はひとつの物語として、噛んで含めるように読んだ。 あとがきを読むと、ヘッセは20年も仏教思想について研究をしていたのだそう。道理で・・・。 しかし、この本は仏教云々を差し引いても(知らなくとも)、本当に文学として素晴らしい。もっともっと、たくさんの人に知って欲しい本だと思う。正直に言うと、主人公に共感できないところも一度と言わずあったのだが、それでもあまりある文章の素晴らしさが、読書する感動を与えてくれた。 この本を読んで、ヘッセの本をもっと読みたいと思った。文学の力ってすごいな、と久々に思った一冊だった。 いやぁ、課題をきちんとやると、いいことってあるんですね。

Posted byブクログ

2012/03/18

少年の頃、「車輪の下」を読んで、よし、ヘッセは取りあえず押さえたと思ったのだ。何にも知らない子供だった訳。だから、「デミアン」も読んでいない。 英国のバンド、YesのClose to the Edge(邦題 危機)のアイディアはこの本だそうである。Yesのファンではないが、文庫を...

少年の頃、「車輪の下」を読んで、よし、ヘッセは取りあえず押さえたと思ったのだ。何にも知らない子供だった訳。だから、「デミアン」も読んでいない。 英国のバンド、YesのClose to the Edge(邦題 危機)のアイディアはこの本だそうである。Yesのファンではないが、文庫を見付けて手を出してみる。 ドイツ人の書いた釈迦。どうせ変なところが多いんだろうと思っていたが、そんなことはなかった。勿論、自分の知る釈迦の話とは違う物語であったけれど、そう云ったら手塚治虫のブッダだって違うモノだろう。こういう釈迦も有り得たかもしれない。兎に角、美しく端正な文章に終始魅了された。ヘッセは20年もインド思想を研究していたそうである。まったく僕は無知だった。 ところで、Yesの歌詞との関連はあるような、ないような。ただ、「危機」という邦題は大誤訳だな。

Posted byブクログ

2011/06/05

2011/06/05 「シッダールタ」という作品 * ヘルマン・ヘッセの著作に、「シッダールタ」という作品がある。ヘルマン・ヘッセはドイツのロマン派作家であると認識しており、「車輪の下」という作品が特に有名である。 「シッダールタ」という作品は長編小説と云うより中編小説であろう。...

2011/06/05 「シッダールタ」という作品 * ヘルマン・ヘッセの著作に、「シッダールタ」という作品がある。ヘルマン・ヘッセはドイツのロマン派作家であると認識しており、「車輪の下」という作品が特に有名である。 「シッダールタ」という作品は長編小説と云うより中編小説であろう。新潮文庫で高橋健二訳となっている。 原書を読む事は出来ないため、翻訳者の文体に頼る事になるのだが、そして本屋で何度か手に取ってはいるのだが、購入に至っては至ってはいない。が、やはり気になっている。 「シッダールタ」の伝記作品はいくつか持っており読んでもいるのだが、ヨーロッパの特にキリスト教を信仰する人の手によって書かれた事に興味を持っている。 翻訳であれ、作者の表現力も伝わってくるだろう。 この作品の紹介記事には以下のような文章がある。 * 【シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。――成道後の仏陀を讃美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。】 * 購入して読んで、初めて作品の良さに触れる事が出来るのだろう。 * 新潮文庫(ISBN : 978-4-10-200111-0) C-CODE : 0197、発売日 : 1959/05/04、380円(定価) * そしてその日に購入した。閉まろうとする本屋に駆け込んで買った。

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2011/05/20

仏教の祖・釈尊の出家以前から悟りを開くまでの物語。 知識や学識からでは、悟りは得られず、自ら生きることを体験しなければならない。このことを書くために、ヘッセ自身数年にわたって苦行を行ったらしい。かっこよす。 史実書ではなく、物語であり、芸術だと思う。

Posted byブクログ

2011/05/09

「断食すること――待つこと――考えることができる」と言い切るシッダールタはその能力を持って、バラモンとしても、シャラマナとしても、カマーラの愛人としても、商人としても、頂まで上り詰める。しかし、彼はそれらをことごとく捨て去り失っていく。釈迦と出会いながらも、彼に感化を受けながらも...

「断食すること――待つこと――考えることができる」と言い切るシッダールタはその能力を持って、バラモンとしても、シャラマナとしても、カマーラの愛人としても、商人としても、頂まで上り詰める。しかし、彼はそれらをことごとく捨て去り失っていく。釈迦と出会いながらも、彼に感化を受けながらも、しかし、釈迦から教わるのはあくまで釈迦の内で編み出された法則でしかなくそれは受け売りでしかないのだと考え釈迦の弟子とはならず、一人遍歴する。やがて彼は、自らの人生における遍歴は全て、実感を得るためのものだったのだと知る。 「彼の内の司祭とシャラマナが死ぬために、彼は俗世の享楽と権勢を知らなければならなかった。彼の内の放蕩も欲張りが死ぬために、彼が空しくなるまで属性の享楽と権勢を貪らなければならなかった――彼は死んだ。新しいシッダールタが眠りから目覚めた。彼も老い行くだろう。いつかは彼も死なねばならない。シッダールタは儚かった。全ての形は儚かった。しかし、今日彼は若かった。子供だった。若いシッダールタだった。喜びに満ちていた」彼は自ら体験し、実感し、その結果として、内なる己を殺し、そして、再び生まれる。それは彼であって彼でなく、彼であって彼である。彼は輪廻から逃れられないことを悟り儚さを感じながらも己の路を遍歴していく。遍歴、していくのである。 遍歴の末、彼は渡し守をする老人の助手となり、老人から、また、川から教えを学ぶ。つまり、悠久なる川から、時間が無限であることを学ぶのである。そして、過去も未来も現在も全ては等しく流れており、そこに一つの永遠を感じ取る。彼はその後、カマーラとの間の自らの息子を引き取り、また、扱いあぐね、彼がかつて小児人と蔑んでいた人々に自らが陥り、愛ゆえに悩み苦しみ、やがて全てを受け入れ愛するようになる。彼の教えは、言葉で全てを言い表わすことは不可能で、言葉にした瞬間に何かが零れ落ち、あるいは偏って伝えられてしまう。それゆえに、教える、ということ自体に無理がある。教えがはっきりしていてわかりやすいのは、そこに妥協があるからだと彼は考える。彼は一つの答えに達したが、しかし、彼はまた何かが起これば心をかき乱されるかもしれない、いや、かき乱されるだろう。だがもはや彼にとって時間は無限であり、未来も過去も現在も全てが等しく流れており、また彼は全てを愛し受け容れることにしたので怖ろしくはないのだろう、例え、彼がかつて彼自身が馬鹿にしていた小児人になってしまったとしても……。シッダールタの名前を借りた物語は、いつからかヘッセ自身の宗教体験に変わっていく気がする。つまり、仏教に対してのアンチテーゼというよりは、むしろ、宗教そのものに対するアンチテーゼであり、同時に宗教を肯定するテーゼでもありうる。 最後に、彼が、かつての親友ゴーヴィンダに対して、教えを伝えているところが、必要であるのはわかっているのだけれど、余計だと感じる。物語を完成させるためには必要だったのだけれども、自ら見つけるしかない、と言い切るためにはシッダールタが例え口頭でなかったとしても、ゴーヴィンダに教えてはいけなかったのではないか……その時点で、ゴーヴィンダは他人頼みになってしまっているので。とはいえ、宗教に対するヘッセなりの一つの終着点が見出されており、読み応えのある一作だと思う。

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2011/05/08

読み終わった当時はかなり感銘を受けたはずなのだが、肝心の内容をあまり覚えていない……そのうちまた読み返してみるか。

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2011/05/02

まわりの評判が本当によい作品なので読んでみたが、現実的な私には理解しがたい世界だった。 かといえ言い得て妙、納得するところもある。 「大多数の人間は、散り落ちる葉に似ています。風に吹かれ、空中に舞い、ひらひらとよろめいて大地に落ちます」 これに対する人間は星にたとえられていた...

まわりの評判が本当によい作品なので読んでみたが、現実的な私には理解しがたい世界だった。 かといえ言い得て妙、納得するところもある。 「大多数の人間は、散り落ちる葉に似ています。風に吹かれ、空中に舞い、ひらひらとよろめいて大地に落ちます」 これに対する人間は星にたとえられていた。 「固定した軌道を進み、どんな風にもとらえられません。自分自身の中に法則と軌道を持っています」 もう一つは納得しすぎたので全部引用してしまう。 「さぐり求めると、その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取り付かれているので、何ものをも見い出すことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。 さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」 いつかこの作品からなにかを感じられるといいのだが。

Posted byブクログ

2011/02/26

川は流れる。 しかし果たして本当に流れているのだろうか。 川はただ川であるのみであるのだろうか。 岸辺の石はただ石であるのみであるのだろうか。 私はただ私であるのみであるのだろうか。 ここにこうして記述してしまえば、この言葉は哲学を齧った少年の浅はかな疑問であると思われるだろう...

川は流れる。 しかし果たして本当に流れているのだろうか。 川はただ川であるのみであるのだろうか。 岸辺の石はただ石であるのみであるのだろうか。 私はただ私であるのみであるのだろうか。 ここにこうして記述してしまえば、この言葉は哲学を齧った少年の浅はかな疑問であると思われるだろう。 それを否定することは私には出来ない。そしてこれからの道を生き、さまざまな言葉や学術を身につけたとしても可能となる日は来ないだろう。 シッダールタはとても優れた少年だった。そして少年には唯一無二の友人がいた。彼は覚者、仏陀のもとへ行く。シッダールタはそこへは向かわない。その時点で既に彼は感じていたのだ、言葉では、知識では知恵を自我に取り込むことは出来ないと。それは自ら感じ生み出すことに基づくことなのだと。 それから彼はある町に辿り着く。 そこで彼はある遊女に魅了され、愛を求め、自らの欲望を満たすため賭けに溺れ、酒に溺れた。 彼は堕落の道を進んだのだと思われた。 だが、違うのだ。 廃れささくれ立った生活を送るうち、彼は自我を憎むようになる。自らの老いも重なり、彼は誰に何を告げることも無くその町をあとにする。 彷徨う中である発見を機に、欲望に埋れた過去の日々が、彼を覚醒させた。彼は自身の過去が前生であるかのように感じるほどに、彼は生まれ変わった。 やがて彼は川に達する。 流れる川だ。人びとの障害になる川だ。そしてその川を神として尊ぶ渡し守に再会する。欲望に埋もれる前に出会った渡し守である。 そこで彼はさまざまなことを、その渡し守と同様に、川から教わった。ここではあえて言葉でその内容を記述することはしない。ただでさえ私はこの小説のほんの一握り、それすら掴めていないのだから。 しかしそんな私ですら、この本の終盤では体が震えた。感動というものでは無く、もっと根源から湧き出るような、激しいものである。どうしようもなく重く、暗く、輝かしいもので、肉体と精神が合わさるようでそうはならず、何か大きな力に支配されるような感覚を強制するものだ。 私は私でない。私は存在しない。私は川なのだと。川はそこに実存するはずだった、しかし時は流れない。私と川を思うことにおいて、そこに時間の概念は存在しない。永遠に繋がり廻る、すべてを包括した川、すなわち私がここにある。 私の中には私が出会ってきた、またこれから出逢うであろう人や物、経験、すべてが含まれている。そして私たちを包む世界はそのすべてを既に含んでいる。世界は完全である。不完全を埋めるものを求めてもそこに答えは見つからない。 ここは完全なのだから。 私は完全にすべてを含んでここにある。そして過去も未来もその概念をもすべて振り払うことでなお、ここにあり続ける。 私は永遠に私であり、すべてを含む私である。

Posted byブクログ

2011/02/15

シッダールタが生涯の経験から見出だした智恵が、言葉で語られている。世界が自分の空想を完璧に満たすことを求めず、ありのままの世界を受け入れて、自らもまた汚れることが重要だったそうだ。

Posted byブクログ