光あるうちに 道ありき 第三部 信仰入門 の商品レビュー
作品が話題にされたことが繰り返された中で触れた三浦綾子作品が面白かったことから、「同じ作者の別作品」と色々と読み進める中で出くわした作品ということになる。興味深く拝読した一冊である。 「道ありき」という題名を冠した、「自伝」とも言われる作品が3冊在る。既に最初の1冊、次の1冊は読...
作品が話題にされたことが繰り返された中で触れた三浦綾子作品が面白かったことから、「同じ作者の別作品」と色々と読み進める中で出くわした作品ということになる。興味深く拝読した一冊である。 「道ありき」という題名を冠した、「自伝」とも言われる作品が3冊在る。既に最初の1冊、次の1冊は読了し、それを踏まえて本作、3冊目を手にして紐解いたのだ。 「道ありき」という題名の下の、過去の2冊は作者の「自伝」であることは間違いないのだが、もっと純粋に「小説」という気分で愉しく読んだ作品であった。作者の「自伝」ではあるが、寧ろ「発表した小説が好評を博し、小説家として名を成した感の女性が、自身の来し方を振り返りながら綴った」という「物語」というように感じられた。 これに対して、「第三部」と銘打つ本作は、過去の2冊と趣が少し異なると思った。 本書は純然たるエッセイ集である。雰囲気としては講演の内容、または何処かで三浦綾子を囲んで何人かが集まって聴いた話しを文字に起こした内容というように感じられる。「第一部」や「第二部」に在った、物語風に来し方を振り返るということでもなく、「思うところを語る中に、過去に綴って世に送り出した、来し方を振り返る内容が少し入る」というように理解しておくと善いかもしれない。 純然たるエッセイ集というように思いながらも、紡がれる言葉の背後に「第一部」や「第二部」に在った“物語”を意識するという面も大きい。 『氷点』で注目され、数々の作品を送り出し続けたという中で本作が「雑誌連載」ということで登場した。結局、「道ありき」の「第一部」や「第二部」に在った様々な出会いと、その背後に在った思索の経過を、改めて人々に問い掛ける内容を纏めた、雑誌連載エッセイとして整理したというのが本作ということになるのであろう。 本作にも言及が在るのだが、「第一部」の殊に前半部の主要な内容となる、何か「棄てた」かのような人生を、幾つかの出会いで取り戻して行くような感、それも病を得ての生活という中でそうした出会いを経験しているということが、三浦綾子が「伝えたいことを綴る人=作家」になって行った出発点に在るのだと思う。数々の挿話を通じて、様々な角度からそうしたことが語られるというのが本作であるというようにも思う。 本作に触れると、それが何と呼ばれているモノであろうと、個人にとっての“光”というようなモノを見出し、それを追い続けながら色々と思索するというのが大切であるということに思い至る。 最近は、何やら「詰まった…」という様子の人も巷には多いような感である。そいう時代であるからこそ、本書は広く読まれるべき内容を含んでいるのかもしれない。そんなことを想った。
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人間、すなわち自分自身のくだらなさ、どうしようもなさをあげつらって、虚しくなることで終わらないのがいいと思う。闇と光が混交した現実世界。
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本作を読んでみた理由は、詩人である星野富弘さんがエッセイの中で三浦さんのことを語っていて興味を感じたから。 人間の生きること、罪、本当の優しさなど、考えさせられることが多かった。 普通に生活していれば、自分たちは罪を犯していないと思っている。 だが、泥棒に入られて自殺する人は多...
本作を読んでみた理由は、詩人である星野富弘さんがエッセイの中で三浦さんのことを語っていて興味を感じたから。 人間の生きること、罪、本当の優しさなど、考えさせられることが多かった。 普通に生活していれば、自分たちは罪を犯していないと思っている。 だが、泥棒に入られて自殺する人は多くはないのに、誰かに悪口を言われて自殺してしまう人はたくさんいる。 つまり、悪口を言っている時点で、僕らはみんな罪人なのだ。法律上で罪はなくても、誰かに精神的ダメージを与えることで罪をうんでいる。 本作の中盤以降は、キリスト教についてのことが多く書かれている。少しマニアックで難しいなと感じたため、気になるところだけ読んだ。 この本を読んで、宗教を信仰したいとは思わないけれど、宗教も一つの価値観なんだなと思った。
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〈考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、正しく清い存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない。「神のほうを見ない」これが原罪なのだ。〉p34 〈一切を人手に頼らねばならず、自分で出来ることは呼...
〈考えてみると、わたしたち人間と絶対共犯者にならない、正しく清い存在は誰か。それは神である。だから、自己中心であればあるほど、神を嫌う。神を見ようとはしない。神を無視してやまない。「神のほうを見ない」これが原罪なのだ。〉p34 〈一切を人手に頼らねばならず、自分で出来ることは呼吸をするだけというその人の顔が、実に輝いていたという例をわたしは書いた。この人は、何故にむなしさに陥らずにすんでいるのか。先日、わたしはある六十を過ぎた癌患者が、日夜世界の平和を祈り、知る限りの人々のために祈りを捧げて、一日の時間が短かくてならないという話を聞いた。なぜ彼らが虚しくならないのか。それは、誰も彼から奪うことのできない実存を知っているからだ。虚無を満たすもの、それは実存しかない。実存とは、真実の存在なる神である。永遠に実在する神である。この神を信ずる時、わたしたちは虚無を克服することができるのだ。〉p95 なぜかくも重病患者に神を信じる者が多いのか。彼らには何もないからではないか。自分には何もないと真実信じられたとき、神を信じる道が開けるのではないか。一般人が神を信じにくいのは、自分には何もないと本当のところ思うことがなかなかできないからではないか。常に無の意識に晒されていない。祈りの心をすぐ忘れてしまうのもそのせいか。
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三浦綾子氏の自叙伝三部作の第三作。著者のキリスト教についての考え方や想いが綴られる。『道ありき』『この土の器をも』は著者の人生と出会い(それらは人から見ればまさに奇跡であったが)が述べられていたのに対して、本作品では著者の信仰と聖書について語られている。 本作品を読むと病床での...
三浦綾子氏の自叙伝三部作の第三作。著者のキリスト教についての考え方や想いが綴られる。『道ありき』『この土の器をも』は著者の人生と出会い(それらは人から見ればまさに奇跡であったが)が述べられていたのに対して、本作品では著者の信仰と聖書について語られている。 本作品を読むと病床での生活と三浦光世氏との結婚が彼女を作り、信仰が彼女の軸としてしっかり根付いているからこそ、必然として数々の名作を生み出せたのだなと感じさせられる。
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道ありき三部作を読了。これまでふれたことのある三浦作品全てに通じる本線というか考え方がわかったような気がする。
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生きる意欲がうしなわれているのは、人のために動く気持ちが失われているため。働くとは、人のために心を使うことである。原罪宗教用語で原義は「的外れ」であり、普段は良くともいざとなれば冷酷さを胸に秘めている。罪を罪と感じないことが罪である。自分が正しいとする自己中心な気持ちは、自分より正しい人間を嫌う。自由な人とはいつも死の覚悟が出来ている人である(ディオゲネス)。高ぶらない・驕らないのは、愛の性質である。いかなる罪を犯しても悔い改めれば神は受け入れてくれ、神を信じるとき虚無から克服される。人にはできないことも神にはできる。
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三浦綾子氏の自伝の第3部である。 自伝というよりは、題名が示すように、キリスト教のすすめ的な読み物である。牧師ではない彼女だからこそ、そして、非常に苦しい思いをし、キリスト教など誰が信じるか、といっていた彼女だからこそ書けること、説得力がある信仰入門が書けるだろうとということで、書いてみたということだ。確かに、あいまいな部分は多いように感じるが、読者が少しでもキリスト教に興味を持ってくれればよいという彼女の思いは十分に伝わっているのではないかと思う。 泥棒と悪口を言うのと、どちらが罪深いか。という問題がある。教会の牧師は、悪口の方が罪深いと言った。大事にしていたネックレスが盗られたとしても、それは、高価なものだ、惜しいことをした。記念に彼にもらったものなのに、残念だ。という、痛み程度に留まるだろう。泥棒に入られたため自殺した、という話は聞いたことが無い。だが、人に悪口を言われて死んだ老人の話や少年少女の話は時々聞く。私たちが何気なく言う悪口は、人を死に追いやる力があるのだ。泥棒などのような単純な罪とは違う。もっとドロドロとした黒い罪だ。人を悪く言う心の中に渦巻いているものは何か。敵意、ねたみ、憎しみ、優越感、軽薄、その他もろもろの思いが、悪口、陰口となって現れるのだ。この世に、人の悪口を言った事がない人はいないに違いない。それほど私たちは一人残らず罪深い人間なのだ。私たちはその罪深さに胸を痛めることは甚だ少ない。罪を罪と感じないことが罪なのだ。 偉大な科学者ほど、神を信じると昔から言われているが、それは科学を究めるに従って、人間の有限性を知り、人間には知りえぬ世界の多いことを知るからであろう。 罪とは、ゆるしてもらうより仕方の無いものだと思う。一体どうしたら神は許してくださるのか。多少その罪に見合うだけの捧げ物をしたら許して下さるのだろうか。だが、人間の命が地球より重いように、人間の罪もまた地球よりも重い。私たちはいったいいかなるささげ物をして神に謝るべきなのか。私たちが死んで詫びたとしたら許されるだろうか。が、人間の命をもってしても帳消しにならないほど罪は重いことを聖書では示している。ここにきて、私たち人間は、罪の前に全くの無力であり、人間自身ではどうにもならないことを知らされる。しかし、それ故にこそ神は神の子をこの世に使わされたのだ。神はその一人子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。と聖書は宣言する。つまり、神の子は十字架にかけられて、全人類の罪を、神の前に詫びるために、この世に来られたのだ。これがキリストへの信仰なのだ。神の子イエスは、全く潔い方であられたからこそ、私たちの罪をあがなうことが出来たのだ。これが豚や犬の命では罪は許されない。犬畜生にも劣る人間の世界では、人間の命をもってしても罪は許されない。どうしても神の子でなくてはならなかったのだ。
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(10.09.2016) 三浦綾子氏の強い語調、自分の過去を全てさらけ出す強さ、同じ女性としてカッコいいなと思う。クリスチャンとしても、自分の弱さを認めながらも神様を信じ抜こうと努力する生き方は尊敬に値する。この本の最終章、最終頁の言葉に彼女の読者に対する思いが込められているの...
(10.09.2016) 三浦綾子氏の強い語調、自分の過去を全てさらけ出す強さ、同じ女性としてカッコいいなと思う。クリスチャンとしても、自分の弱さを認めながらも神様を信じ抜こうと努力する生き方は尊敬に値する。この本の最終章、最終頁の言葉に彼女の読者に対する思いが込められているのではないか、と感じた。心に響く素晴らしい本だった。 「かけがえのない、そして繰り返すことのできない一生を、キリストを信じてあなたも歩んでみませんか。今までの生活が、どんなに疲れきった、あるいは人に言えない恥ずかしい生活であっても、または言いがたいほどに苦しく悲しい毎日であったにしても、今、あなたの前に、まだあなたの足跡が一つも印されていない純白の布のような道があるのです。過去はどんな歩み方であったにせよ、自分の目の前に、足跡ひとつない道があり、そこにどんな足跡を残して行くかは、自分の自由だということ、そんなすばらしいことはないと思います。 過去はいいのです。今からの一歩を、あなたもキリストの愛の手に導かれて歩みたいとお思いにはなりませんか。そしてあなたの人生を喜びに溢れた人生に変えたいとは、お思いになりませんか。 そのことが、あなた自身にどんなにむずかしく見えても、神が助けてくださるのです。キリストはこう言っておられます。 〈人にはできないことも、神にはできる〉と」 光あるうちに光の中を歩もうではないか。
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聖書は理解すべき対象ではなく信ずべき対象。聖書の内容は実際にあったとしか思えない。 聖書を読んでみたくなった。
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