河童・或阿呆の一生 の商品レビュー

3.9

133件のお客様レビュー

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2014/05/25

「河童」が面白かった。 この作品がユーモアであるということは河童の世界という設定や河童とのやり取り(例えば河童の出産の場面や鼬鼠との戦争など)からも伺える。 しかしそうしたユーモアからはそれ以上の人間世界に対する厭世観を痛烈に感じさせられる。 また、河童の世界が本当に存在するのか...

「河童」が面白かった。 この作品がユーモアであるということは河童の世界という設定や河童とのやり取り(例えば河童の出産の場面や鼬鼠との戦争など)からも伺える。 しかしそうしたユーモアからはそれ以上の人間世界に対する厭世観を痛烈に感じさせられる。 また、河童の世界が本当に存在するのか、それとも精神病患者である主人公の妄想なのかは不明なままであったが、そうすることで芥川は最後の最後まで、矛盾したこの世への皮肉と疑問を訴えていたのだろう。 人間の醜悪さを河童に思い知らされてしまった。 私も河童の世界へ行ってみたいな。 その他、「蜃気楼」は蜃気楼の発生する描写が美しい。 また主人公を気遣う妻の姿は、晩年の芥川の自殺願望を心配する妻文子の様子を窺い知る様で哀しい。 そういった点では芥川は自殺未遂を繰り返し、相手の言動や世の中に傷付きながらも、常に物事の有り様を冷静にそうして忠実に観察しては作品に映し続けていた人なのだと改めて実感してしまう、そんな作品集だった。 勿論理解しきれていない部分もまだあると思うので二回目も読んでみたい。

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2014/05/01

河童は興味深かった。河童世界の価値観が人間世界のそれと正反対であることが、河童の特異性を顕著にも薄気味悪くもさせた。特に生と死に対する姿勢の違いが不謹慎にも可笑しく感じられた。産道に向かって、こんな暗澹たる世の中に本当に生まれてくるのかと問いかける河童の出産シーンや、死んだ河童を...

河童は興味深かった。河童世界の価値観が人間世界のそれと正反対であることが、河童の特異性を顕著にも薄気味悪くもさせた。特に生と死に対する姿勢の違いが不謹慎にも可笑しく感じられた。産道に向かって、こんな暗澹たる世の中に本当に生まれてくるのかと問いかける河童の出産シーンや、死んだ河童を食べることに抵抗感を抱く主人公に、それは感傷主義だと言い放つ河童。この論理で語れば、人間の道徳性のほとんどが感傷主義と断じられる。確かに非論理的なルールが多いけど、そんなもんだよなあ。芥川龍之介の道徳観なのだろうか。哲学者マッグの阿呆の言葉の抜粋と、憂鬱を紛らわそうと逆立ちして世の中を眺めていたラップが好き。他の作品は全く頭に入ってこなかった。

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2014/04/21
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―僕はもうこの先を書きつづける力を持っていない。こう云う気もちの中に生きているのは何とも言われない苦痛である。誰か僕の眠っているうちにそっと絞め殺してくれるものはないか?(239) ここには芥川の晩年のすべてが詰まっている。 「大導寺信輔の半生」 予は父母を愛する能はず。否、愛する能はざるに非ず。父母その人は愛すれども、父母の外見を愛する能はず。貌を以て人を取るは君子の恥づる所也。況や父母の貌を云々するをや。然れども予は如何にするも父母の外見を愛する能はず。(15) 信輔を以て彼の心の吐露を連ねる。信輔の半生にどれほど自身を重ねたか。 「玄鶴山房」 のみならず死はいざとなって見ると、玄鶴にもやはり恐しかった。彼は薄暗い電燈の光に黄檗の一行ものを眺めたまま、未だに生を貪らずにはいられぬ彼自身を嘲ったりした。(53) 愛人に入れ込んだ玄鶴の終わりを描いたもの。彼の家庭は静かに、だが確実に崩壊しており、彼はそれでも愛人を求めようとする。その様を淡々と眺めて冷笑する看護婦の甲野は、やけに人間臭く、だがこれが世間だと思い知らされる。 「蜃気楼―或いは「続 海のほとり」―」 芥川の文体の美しさを表現した短編。この本の中では特殊な位置にあるように思う。 「河童」 我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化していない。(115) 或拍子に、河童の世界に足を踏み入れた「僕」。その世界は人間の世界とは種を異にしていた。河童の語る宗教や生死感、恋愛感などは芥川の代弁であろう。 そして河童の世界から人間の世界に戻って精神病患者扱いされる様も。 「或阿呆の一生」 いえ。死にたがっているよりも生きることに飽きているのです(184) 五十一編の中に彼の死への羨望がよく読みとれる。彼は彼自身を嘲り、死の齎す平和を思った。 「歯車」 彼が見たという歯車は、閃輝暗点だと言われている。私もその症状を持っており、改めてこれを読むと同じものだと思う。彼は歯車を見るたびに自分が狂人になったと悲観する。私は、果たして狂人なのだろうか?彼が見たという歯車が見える私は。

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2014/04/02

玄鶴山房・・・ ドロドロとした、昼ドラみたいだなーと思っていましたが さすが芥川!それだけで終わるはずがありませんでした。 短い物語にも関わらず、登場人物1人1人が濃い!(笑) 愛憎まみれた傑作です。 河童・・・SFっぽい話です。それでもって、人間界への皮肉に満ち溢れています...

玄鶴山房・・・ ドロドロとした、昼ドラみたいだなーと思っていましたが さすが芥川!それだけで終わるはずがありませんでした。 短い物語にも関わらず、登場人物1人1人が濃い!(笑) 愛憎まみれた傑作です。 河童・・・SFっぽい話です。それでもって、人間界への皮肉に満ち溢れています。 河童との会話が独特です。この本の中では、一番小説っぽい作品かな、と思います。 或阿阿呆の一生・・・まんま、自分のことを書いているのだろうということがよく分かります。 病気の中で苦しんでいる、というよりはむしろ人の心に訴えかけるような、優しさをまとった文体が印象的です。 歯車・・・死を意識した人は、こういう考え方になるのだろうか?と感じました。 繰り返される不安、不気味さ。そしてそれから逃れたい自分。吉兆と凶兆を連想させる色やもの。 これもまた、芥川氏が自らのことを書いているように思われます。 全体的に、不安・死・恐怖というものを感じさせる作品集でした。(これらの作品が書かれた彼の時期を調べると、当然かもしれませんが) 未熟な自分には「蜃気楼」という作品の良さが、どうも分かりませんでした。 なんだか、なんでもないような話に思えるのです。 色々なところで絶賛されているようですが・・・ この良さが分かるような大人に、なりたいものです。

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2014/01/11
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再読。 『或阿呆の一生』と『歯車』は芥川の中でも私小説的で好きな作品。 読んでいて、読むのがしんどくなる位気持が沈む小説。 両方とも生活に対する切迫感と、 そこから来る厭世的なモノの見方が貫かれている。 特に『歯車』の終盤の空に自分の死を連想させる描写はくどいが好き。

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2013/12/24
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 「大導寺信輔の半生」「玄鶴山房」「蜃気楼」「河童」「或阿保の一生」「歯車」の六作品が収録されています。  「大導寺信輔の半生」は、主人公の半生を人物や商品などを通して描かれていますが、著者によるともっと書きますと言ってました。  「玄鶴山房」は、この山房に係わっている人物たちの生きざまを書いています。  「蜃気楼」は、主人公と友人が蜃気楼を見に行ってその土地での住民たちとの話などによって、主人公たちの一休みがドンでもない事になる。  「河童」は、精神病院の患者が看護婦などにいう話として、まとめられています。  「或阿保の一生」は、ある人物によって五十一章にもなる話しを当人の経験風に書かれています。  「歯車」は、友人の結婚式へ出席した所から始まり、主人公の善悪の心の葛藤が書かれています。

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2013/11/13

『河童』が読みたくて学校で借りてきました。 なんというか、…すごい短編集。 河童のお産について書いてあるシーンが一番頭おかしいと思いました(誉め言葉)。

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2013/10/29

人生の敗北の芸術の完成? 自殺直後の遺稿として発表され芸術の完成という見方をする人もある。 20歳からの一生を振返り自殺を決意し、決意した後の死を平和と考え心安らかになるまでの過程が、作家芥川の最後の文学の芸術性なのかと考えました。 確かに、この作品は遺稿ですが遺書ではなく、飽く...

人生の敗北の芸術の完成? 自殺直後の遺稿として発表され芸術の完成という見方をする人もある。 20歳からの一生を振返り自殺を決意し、決意した後の死を平和と考え心安らかになるまでの過程が、作家芥川の最後の文学の芸術性なのかと考えました。 確かに、この作品は遺稿ですが遺書ではなく、飽くまで自殺を覚悟しての回想であるから、この作品をもって人間芥川を詮索しようとは思わない、唯僕は作家芥川の作品の真価を感じたいだけである。 本当の遺書は、『或旧友へ送る手記』と『遺書』でしょう。(私見です) さて、この作品はまず、久米正雄氏に宛てた心情の吐露を除いて回想として執筆され「作家芥川」の51の断章は、51の回顧による敗北宣言だろう。 「彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だった。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた「神々に愛せらるるものは夭折す」」と書いているが、本当の自殺の決意文ではない。 何故なら、『澄江堂雑記』(大正7年~13年)の中に「誰が御苦労にも恥じ入りたい告白小説など作るものか」と書いているからだ。勿論、断章八「火花」の中に「彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、---凄まじい空中の花火だけは命と取り換えてもつかまへたかつた。」と書いていることから創作の欲求だけはある。 何よりも、作中に「自殺」という文字が出てくるのは四ヶ所だけで、それも「彼」ではなく他人又は対比だけで自殺の宣言ではない。 晩年の作家芥川は、病に侵されつつあるからだにも拘らず、一瞬の輝きのうちにすべてを込める閃光が、彼の芸術の生命で自分を燃焼させるものこそが自分自身の憂鬱から逃れるために見つけたのであると思う。 時は過ぎゆき、次第に病は進行し作家人生を振返った時に、芸術の技巧の行き詰まりによる枯渇を感じ始め、制作欲はあるがそれは生活欲を無意識に感じていたのでしょう。そして自殺を考え始めたのではないかと思う。 断章6と41は「病」です。 「不眠症に襲われ出した、のみならず体力も衰へはじめた」、技巧の枯渇と病が原因で遂に芸術家芥川の敗北・・・。 技巧の枯渇による苦痛は、病による苦痛を超えた。作家芥川の敗北は、人間芥川の存在価値さえも無にしてしまい、最早自殺しか選択肢がないと告白したかったのではないかと思う。 我慢の限界を超えてしまった。後は発狂か自殺。 以上の「心情の吐露」が「死を意識した美しい芸術の完成」、無二の芸術・自殺の実行によって完結する。 生を長らえて「唯ぼんやりした不安」を拭い去ることは出来ないがために、死を選択する事以外は作家芥川の芸術は永遠の価値を生み出さない。 確かに、作家芥川の一生は幾多の挫折と苦難と波乱に満ちたものであったかもしれない。 しかしながら、僕は芥川の芸術は本当の意味で完成されていないと思う。 死によっては何も生み出せないからで、生命あってこそ芸術の評価を知り得るのです。 尚且つ、敢えて僕は断言します。芥川の自殺は決して美しくない。 何故なら、決意してから『或旧友へ送る手記』の中で、死に方を暴露しているからです。 「僕の第一に考へたことはどうしたら苦しまずに死ぬかと云うことだった。(中略)贅沢にも美的嫌悪を感じた」確かに用意周到に自殺計画を進行させているかが窺える。 結局、薬物にて死にますが、旧友に自殺の方法を告白しているのは潔くないのです。 じゃあ、切腹でもすれば!と言いたいところだ。まだ生への拘りを捨てきれていないでしょう。 それなら、生きなければ駄目です。生まれて存在する価値を考えなければなりません。 死によって完成する芸術としての文学は、完全否定します。 芥川の『遺書』の中には、「僕は勿論死にたくない・・・云々」「けれども今になって見ると、畢竟気違ひの子だったのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。」とありますが、それでも生きて下さいと言いたい。

Posted byブクログ

2013/09/02

「蜃気楼」と「歯車」が好み。「蜃気楼」には日常の中に不安が潜んでいて、淡いタッチなのに怖い。「歯車」はもう何十回も読み返した。芥川の懐疑心が極められていて、最後の一文で諦めにも似た絶望感が突き付けられる。

Posted byブクログ

2013/08/25

『歯車』は統合失調症の症状をよく表していると聞いたので   そういう視点で読むからだろうか、ここに収められた短編はどれもこれも危うい

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