下流志向 の商品レビュー
私にとっては、初めて読んだ内田樹の著書。問いに真正面から正攻法で取り組んでいる姿勢に、それまでの勝手なイメージを裏切られ、びっくりさせられた。タイトルの「志向」という言葉は、必ずしも当たっていない気がするけれど、内容的には頷かされる点もあり、とても興味深く読んだ。
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最近の子供は学ばないし、最近の若者は働かない それは何故か?という一冊 子供が学ばない理由は商品消費主体となっているからであり、勉強の対価を求めているからだ、ってな仮説は面白いと思うけど、仮説のまま話が進んで検証なし 全体的に話はこの流れで仮説を決めつけてガンガン進む 仮説としては面白い着眼だなぁとは思うけどちょっと雑すぎると感じた だって消費主体だってんならなんで必ず購入してるのよ子供たち 市場なのであれば買わないって選択肢もあるでしょうが てな感じで色々雑に思えた 苦役を通貨として認識してるとか、それを今時の家庭環境から学ぶとか、昔の家庭ならそんなことなかったとか、そう言う発想もあるにはあろうが全体を包括する考察としてはいささか弱いかと ただ「自分探し」は自己評価と外部評価のアンマッチから生まれるって下りはそのとーりと思えた。 あとは「じゃあどうしたらいいの?」については何もなくてガッカリ 全体的に学びに対する不可侵感というか神聖なものなのだ!!という著者の姿勢が感じられて多分そこに起因してる仮説だからだと思うけど共感できない部分が多かった 学ばない理由はそれが苦痛だからで、苦痛でもやるもんだって常識感が薄れた事と、見合わない公算が高くなったからだと思う 働かない理由は同じく苦痛だからで、且つ働かなくても問題がないから そもそも学びはアウトプットの為にあるものなのだから、学びは終わるまでその価値や意味がわからないものなのです的な「勉学神聖視」は、問題の本質を大きく見誤る可能性もあるし、問題解決には向かない思考だなと思った まぁあんまりこの著者「じゃあどうしよう」って発想なさそうだしなぁ
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僕らは先人をリスペクトしないといけない。 続きはブログで http://nekura-tohsan.blogspot.jp/2013/04/blog-post.html
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うん、確かにそういうのあるよなというのが6割ぐらいあった。 徐々に死語になりつつあると思うが「自分探し」というようなコンセプトが、 結果的に自分の階層を降下させ、それを本人たちが否定しないというのは なんとなくあるような気がする。 しかし僕だってそれなりに自分探しはしてきたと...
うん、確かにそういうのあるよなというのが6割ぐらいあった。 徐々に死語になりつつあると思うが「自分探し」というようなコンセプトが、 結果的に自分の階層を降下させ、それを本人たちが否定しないというのは なんとなくあるような気がする。 しかし僕だってそれなりに自分探しはしてきたと思うし、 ある意味今でもずっとそういう面もある。 ただ内田さんのいう下流志向ではないのは(強い上昇志向があるわけでもないが)、 回りとコミュニケーションして、周囲との関係の中での自分探し(役割探し)という側面が強いからなのだろう。 自分というものを可能な限り「無」に近づけていく境地が、 心を開くものだと思う。
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諏訪哲二との関連。学びからの逃走、労働からの闘争は、学び、労働に経済原理を入れることが原因である。分からないものは買わない、何にでも等価原理が働くというのは教育、労働には当てはまらない。時間の観念を無視した考えでは両者は成り立たない。
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表現がわかりやすくおもしろく読める。 論理の飛躍を感じなくはないが、全体を通して自分には納得できる論説だった。勉強や労働をしない若者が増え続ける根本的原因は、「何よりも先に消費主体としてアイデンティティを持ってしまうから。」と述べる。消費主体として教育を「権利」ではなく「義務」と...
表現がわかりやすくおもしろく読める。 論理の飛躍を感じなくはないが、全体を通して自分には納得できる論説だった。勉強や労働をしない若者が増え続ける根本的原因は、「何よりも先に消費主体としてアイデンティティを持ってしまうから。」と述べる。消費主体として教育を「権利」ではなく「義務」と受け取るために義務からの解放を求め、納得できない教育サービスを放棄する。労働についても「合理的判断に基づき」働かないことを選択する。もっともと思った。 ただ解決への提言については、納得できるが、納得しかねる。 レビュー登録日 : 2010年09月13日
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2007年1月30日初版 内田樹 著 今を生きる子どもたちがなぜ、自ら学びや労働を放棄し逃走するのかを考察した一冊。 毎度毎度、内田先生の言葉は分かりやすくて、 逆に危険なくらい今回もいろんな腹落ちがありました。 おそらく大事な視点は「本当にそうか?」と疑ってかかるくらいの...
2007年1月30日初版 内田樹 著 今を生きる子どもたちがなぜ、自ら学びや労働を放棄し逃走するのかを考察した一冊。 毎度毎度、内田先生の言葉は分かりやすくて、 逆に危険なくらい今回もいろんな腹落ちがありました。 おそらく大事な視点は「本当にそうか?」と疑ってかかるくらいの視点。 分かりやすいがゆえに鵜呑みの思考停止にならないようにと。 子どもたちの等価交換志向とその背景にある「消費主体としての自我確立」。 それに対しての教育と労働が、構造的に前提として帯びている「非同時性」。 そこの矛盾から生まれる、権利の放棄。 なんで上の世代の考えでは全く理解できない行動を、 彼ら若者が、至極合理的かつ真顔でやれてしまっているか。 そこに内在している両者の考え方のねじれが、解けるカタルシス。 初版から5年経っているので変わっているところは変わっていると思うんだけど、それにしてもある大きなマインドの変化を捉えてセットしておく意味で、とても参考になった一冊でした。
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日本の若者が社会から逸脱し下流に落ちるのは環境ややる気の問題ではなく、まともな生活を営むうえで決定的な能力が欠落していることが原因らしい。 若者は本や記事を読んでいて、分からない記述、単語があっても読み飛ばし、聞いたり、調べようとはしない。つまり、「無知のままで生きる不安を 感じずにいられる」そうです。 私が子供の頃は、分からない単語が出てくる度に、辞書を引いていたし、 今でも知らないことがあると気持ちが悪いので、調べようとするけどね。
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炎上必死、炎上上等の内田樹先生のほん。 「市場メカニズムで得られる財サービスは元々消費者が価値をわかっているものであるという前提があるが、教育で得られる/叩き込まれるものは、消費の価値判断ができないもの(教育されて身につかないとその価値を判断することができない)である」という主...
炎上必死、炎上上等の内田樹先生のほん。 「市場メカニズムで得られる財サービスは元々消費者が価値をわかっているものであるという前提があるが、教育で得られる/叩き込まれるものは、消費の価値判断ができないもの(教育されて身につかないとその価値を判断することができない)である」という主張は非常にいいことを言っているなぁ、と思いました。 格差再生産についても、勉強・教育というものの価値が外部環境(親族であったり、所属コミュニティ(学校・地域等々)に染み込んでいることで発生してくるものであるため、そこの部分を如何に乗り越えるか、というのは学校教育や家庭教育支援のキモになってくるんじゃないかなぁ。 ブラジルの小噺で、「富めるも貧なるも皆サッカーで一攫千金を夢見てストリートで練習をする」というのではないけれども、そういう上昇志向をどう国家にインストールするか、期待値を上げていくかが重要ですね。 ところどころいいことは言っていますが、文体やら言い回しやら論理展開やら、文章全体から匂う雰囲気がとても癖があるため、人を選ぶかもしれません。僕は昔は気にならなかったのですが、今はちょっとちゃんと読む気にはなれません。
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私たちはいつの間にか、消費者としての見方が基本となっている。 その結果、消費者からの視点では測れない「労働」や「学び」まで、 等価交換の原則によって考えている。 消費者として育ってきた我々は、 全能性を保ち、批判し、賢い取引をすることに慣れている。 しかし、社会という場所と、労...
私たちはいつの間にか、消費者としての見方が基本となっている。 その結果、消費者からの視点では測れない「労働」や「学び」まで、 等価交換の原則によって考えている。 消費者として育ってきた我々は、 全能性を保ち、批判し、賢い取引をすることに慣れている。 しかし、社会という場所と、労働という行為は、 常に評価される側、客体化されるという状態に「晒される」。 消費者として「唯一無二」のワタクシが、 「商品」の側にまわることは考えられない。 以下、思ったこと。 個々人の中にも、消費者たる私と、労働者たる私は、 10対0ではない関係で存在している。 そして様々な物事を、その2つの(もちろんそれ以外もあるが)メガネを使って、 判断していく。 物事を判断する物差しは、たくさんあって良いし、 どのような時に、使い分けるかという知性が必要。 工作をするときに、各道具は、当たり前に使い分けられるのと一緒。 このニッパーが一番便利というのは、単に使用頻度の問題。 現代という時代は、単純化を求める。 それは、情報が多くなりすぎ、選択肢が増えすぎたのが理由だと思う。 毎回、選択をするコストはとてつもなく大きい。 それに対して、いつの間にか、「確固たる、変化しない私」を設定し、 常に彼の選択によって、世界を渡っていく。 その結果の不都合と、毎回選ぶコストを比較して、 前者を選ぶのが、「現代の格好良い」生き方とされている。 変化を嫌うのはそんな心理かも。 もしくは、完成されて、穴が少ない私という、一瞬の奇跡のような状態を、 維持しなきゃいけない。 レゴブロックで作った作品は、もう壊せないみたいな心理。 遊び方はいくつもあるのに、それが最善として止まる、思考の狭さ。 確かに、過去の基準における最善ではあるけど、 未来に対してはそうではない。 しかし未来に対してはそうではない「からこそ」、 それを最善として、もうそれ以上先には進まないようにしているのかもね。 そして、この特性は誰か彼かが持っているものとして語るのは容易だが、 自分の中にも同様の部分があることを自覚する必要がある。 賢い部分と馬鹿な部分を両方、内包しているのが私たち。 何にしても、一つの価値観だけの生命体になる必要なんて、たぶんないんだ。
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