マダム・エドワルダ/目玉の話 の商品レビュー
これはちょっと……。…
これはちょっと……。オトナ向けの小説です。
文庫OFF
理解はしていないが異様な緊張感を覚えた「マダム」。読了直後はおぞましさで気分が悪くなるが、考えてみると筋道が立っているようにも思える「目玉」。とは言っても、明朝、TKGは食べたくない。面白い小説ではある
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多分求めてるものがまず違った。パウロ・コエーリョの「11分間」に感じたものを求めながら読んでしまったのがまず違った。 尿や糞に全くエロティックさを感じないのでひたすら汚かったし、解説の言葉を借りれば「ヘミングウェイ的な」文体もそこまで好きではなかった。ラディゲとかコクトーの方が個人的に好きだし、こういう「エロティック」な (尿とか糞ではなく)な題材でラディゲとかコクトーが書いたらどうなるんだろう、そっちの方が読みたくなった。
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「眼球譚」として読んだ際は、これが村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の親玉かと感慨深かった。 新訳でもバタイユのエロティシズムは地獄絵図だった。限界、禁忌を突き破って堕ちる。汚物、血に塗れる。耽美なんてのは甘いとでも言わんばかり。本書はバタイユの作家論的な側面にも触れつつ作品の...
「眼球譚」として読んだ際は、これが村上龍の「限りなく透明に近いブルー」の親玉かと感慨深かった。 新訳でもバタイユのエロティシズムは地獄絵図だった。限界、禁忌を突き破って堕ちる。汚物、血に塗れる。耽美なんてのは甘いとでも言わんばかり。本書はバタイユの作家論的な側面にも触れつつ作品の成り立ちを解説しているが、生の欠落部を埋めるには余りにも作品が強烈では‥。
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新訳のG.バタイユ -2006.10.25記 光文社が今月より文庫版の古典新訳シリーズの出版をはじめた。 そのなかからさしあたりG.バタイユの「マダム.エドワルダ/目玉の話」を読んでみた。 成程、「いま、息をしている言葉で、もう一度古典を」とのキャッチフレーズを裏切らず、咀嚼された平易な翻訳で読みやすいにはちがいない。 「きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。だが、その前に断わっておきたいことがある。きみが笑うのは、なにかを恐れている証拠だ。一冊の本など、無力なものに見えるだろう。たしかにそうかもしれない。だが、よくあることだが、きみが本の読み方を知らないとしたら? きみはほんとうに恐れる必要があるのか‥‥? きみはひとりぼっちか? 寒気がしているか? きみは知っているか、人間がどこまで「きみ自身」であるか? どこまで愚かであるか? そしてどこまで裸であるか?」 -マダム.エドワルダの冒頭序文より- バタイユといえば出口裕弘の訳で「内的体験-無神学大全」を読んだのはもう遠い記憶の彼方。 近年ではちくま学芸文庫の「エロスの涙」、訳は森本和夫だったが、「私が書いたもののなかで最も良い本であると同時に最も親しみやすい本」とバタイユ自身が語ったという彼の最後の著書。 数多くの図版とともに「宗教的恍惚と死とエロチシズム」を人類の通史のなかで彼独特の論理で概括するといった趣だったが、ともかくエロスとグロティシズムにあふれた図版の豊富さには圧倒されるばかりであった。 この書が本国のフランスで発禁処分にされたのは、終章の「中国の処刑」項で、20世紀の初頭、実際にあった「百刻みの刑」の模様を伝える数枚の見るもおぞましい写真を掲載し、論を展開している所為だろう。 まことエロスとは死とともにきたりなば、サディズムと通底し、グロテスクの極みをもその深淵に宿すものなのだ。 その彼の小説といえば、これまで私自身接するのは願い下げにしてきたのだが、1970年代前後に生田耕作の翻訳で出された諸作品がかなり流布してきたとみえ、生田訳が定番のごときものとなってきたようである。 このたびの新訳出版の翻訳者.中条省平はあとがきのなかで、「もともと西欧語にとって、哲学的な語彙は日常的な言葉づかいから生まれたものである。それを西欧から輸入し、漢語で翻訳するという二重の外国語を経由して消化した日本語の哲学的語彙とは根本的に違っているのだ。」といい、「エロティシズムと哲学、セックスと形而上学とが荒々しく、直接に接合されている」この特異なバタイユ小説を、生田訳の「漢語を多用する哲学的な語彙と文語調の勢いのよさ」につきまとう難解臭から解き放ち、「日常の言葉と哲学的な表現を無理なく溶けあわせる」べく、訳出の狙いを語っている。 次に引く短編「マダム.エドワルド」終章近くの件りと、先に引いた冒頭序文を併せ読んでみれば、新訳者いうところの事情や狙いがある程度立ち現れてこようと思う。 「エドワルドの悦楽――湧きあがる泉は――彼女の胸がはり裂けるほどに――あふれながら、異様に長く続いていた。その淫蕩の波がたえず彼女の存在を輝きで包み、彼女の裸身をさらに裸にし、猥褻さをさらに恥知らずなものにした。女は、恍惚におぼれる肉体と顔を、形容しがたい鳩のような鳴き声にゆだね、おだやかさのなかで疲れた微笑みをうかべて、乾ききった不毛の底にいる私を見つめた。私は女の喜びの奔流が解き放たれるのを感じた。だが、私の不安が、私の渇望した快楽をさまたげていた。エドワルドの苦しげな快楽は、私にぐったりと消耗を誘う奇跡の感覚をあたえた。私の悲嘆や発熱などなんの価値もないものだが、それらだけが、私が冷たい沈黙機の底で「いとしい女」と呼ぶ者の恍惚に応えうる、唯一の栄光だった。」 いうまでもなく本書所収のもう一篇「目玉の話」は、生田訳では「眼球譚」と題され、バタイユの処女作にしてもっとも人口に膾炙した稀代のグロテスク小説、その新訳版である。
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たかだか140頁くらいのお話なのに、読み始めて読み終えるまで16日も掛かってしまうくらい、食傷気味。。 バタイユさんの最高傑作らしい「マダム•エドワルダ」よりも、「目玉の話」のインパクトが凄すぎた。 冒頭の、猫用のミルク皿にシモーヌがお尻を浸す、という場面が有名らしいが、その...
たかだか140頁くらいのお話なのに、読み始めて読み終えるまで16日も掛かってしまうくらい、食傷気味。。 バタイユさんの最高傑作らしい「マダム•エドワルダ」よりも、「目玉の話」のインパクトが凄すぎた。 冒頭の、猫用のミルク皿にシモーヌがお尻を浸す、という場面が有名らしいが、その後も、ひたすら変態的場面が続く。 闘牛場で、シモーヌの要望により、仕留められたばかりの闘牛の睾丸がふたつ生のまま銀の皿で供され、シモーヌは、闘牛の(文字通り目玉が飛び出る)死亡事故を観ながら、ひとつは食べ、ひとつは隠部に入れる、という意味不明の倒錯の世界へ。。 最後の方のセビリアの教会での出来事は、キリスト教会がどういう反応をしたのか気になるくらい、非キリスト教徒から見ても冒涜的に映った。(初稿は地下出版だそう。) こういう倒錯的な感覚に至る原因らしきものとして、梅毒で四肢が不自由なバタイユの実父がお漏らししながら白目を剥いていたときの目玉の映像、が最後に分析的に語られる。
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こういうのをエログロと言うのでしょうが、なんでここでおしっこ?とか、猫用のミルク皿にお尻?とわけわからなさに笑ってしまいました。最後の解説で少し理解が深まりましたので時間をおいて再読しようと思います。
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初バタイユは『眼球譚』ではなくこちらへ。生田耕作訳はこの次に読もうと思います。・・・・・・しかしまあ、ジョルジュ・バタイユの名前はよく聞くものの、手を出せずにいたわけですが、実際こうして光文社の新訳版を読んでみると、今まで彼に抱いていた印象とは違った感じを受けました。なんだかこう、こんなに不安定な小説だったのか! って。この手の小説って、もっと傲然としているというか、我関せずに言いたい放題やりたい放題ってイメージが強かったので(マルキ・ド・サドの小説的な?)、まったくそれがないわけではありませんが、どこか不安や恐れも滲み出た哲学的な小説でした。 『マダム・エドワルダ』も『目玉の話』も、あまりに有名な作品。自分にはまだその真価は分からない気がしますが、中条省平さんの簡潔な訳のおかげで意外と読めて、ちょっとだけ分かったような、そうじゃなかったような――みたいなのを繰り返している内に読み終えてしまいました(笑)。ただ、死とエロティシズムは隣り合っているという思考は、ものすごく共感しました。 《ほかの人びとにとって、宇宙はまともなものなのでしょう。まともな人にはまともに見える、なぜなら、そういう人びとの目は去勢されているからです。だから人びとは淫らなものを恐れるのです。雄鶏の叫びを聞いても、星の散る空を見ても、なにひとつ不安など覚えない。要するに、味もそっけもない快楽でない限り、彼らは「肉の快楽」を味わうことができないのです。 しかし、そうだとするならば、疑いの余地はありません。私は「肉の快楽」と呼ばれるものが好きではないのです。だって、味もそっけもないのですから。私が好むのは、人びとが「汚らわしい」と思うものです。私は人とは反対に、普通の放蕩はせいぜい放蕩を汚すだけで、いずれにせよ、真に純粋な気高い本質は、無傷のまま残されるからです。私が知る放蕩とは、私の肉体と思考を汚すだけでなく、放蕩を前にして私が思い描くすべてを汚し、とりわけ、星の散る宇宙を汚すものなのです・・・・・・。》(本文より)
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蔦屋に積んであったのを何気なく手に取った。 バタイユ: そのパトスとタナトス 酒井健さんによる本を課題とした読書会 何回かに分けて行われたのに参加している最中だった。 そんなこんなで小説も手に取った。なんだこれは?話の筋が変態的で凄い。バタイユの生い立ちも凄い。父が梅毒で失明し...
蔦屋に積んであったのを何気なく手に取った。 バタイユ: そのパトスとタナトス 酒井健さんによる本を課題とした読書会 何回かに分けて行われたのに参加している最中だった。 そんなこんなで小説も手に取った。なんだこれは?話の筋が変態的で凄い。バタイユの生い立ちも凄い。父が梅毒で失明しており、まもなく四肢が麻痺する。その父の排泄の手伝いをしていた。目玉の話は悲惨な実話なのだ。玉子と眼球と睾丸は楕円的球体という形態上の類似と音韻上の類似を介して結びつく無意識の連続のドラマだという。シモーヌが司祭にとった行動は、想像だにしなかった。まさか。エドモンド卿と私 語り手?とシモーヌの関係に頭が混乱しました。マルセルが死んだ後、エドモンド卿が現れた。どっちにしろ3人の、愛の形? マダム・エドワルダも妖艶だった。人気のない通りで夜がはだかになっていた。夜が裸か。バタイユのほかのもよんでみたくなった。 きみがあらゆるものを恐れているのなら、この本を読みたまえ。意味深だなぁ。読みたまえ。読みたまえ。
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極限までのエロスへの追求と死の匂いが常に傍にあることで、物語全体に暗さと狂気を感じるまでの淫欲が漂っている。 神聖な存在である司祭を性で弄び殺すというところに、暗に神は死んだということを示すと同時に、今までの神の拠り所であった場所に、極限まで高めた全く異質なものをぶっ込もうとする...
極限までのエロスへの追求と死の匂いが常に傍にあることで、物語全体に暗さと狂気を感じるまでの淫欲が漂っている。 神聖な存在である司祭を性で弄び殺すというところに、暗に神は死んだということを示すと同時に、今までの神の拠り所であった場所に、極限まで高めた全く異質なものをぶっ込もうとする意欲を感じる。
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