歎異抄 の商品レビュー
一度読んでも理解できなかった。矛盾しているような言い回しもあったりする。 他力本願のところは興味深かったが。 再読してからちゃんと評価したい。
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さっぱりわかりませんでした!お恥ずかしい! 仏教の基礎から出直してきます。 私の知識不足ということで、評価できません(汗)
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他力本願の本質を教えてくれる書物である。人間の持つ社会性について考えさせられた。仏教が高度な哲学を持つようになってしまい、民衆から離れていき、そのような中で生まれてきた新しい仏教の形なのであろうか。
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21世紀の言葉で言えば、浄土真宗は『インクルーシブ』だなぁ、と言うのが第一の感想。 庶民に広く親しまれた理由がよく分かる。 (当然だけれど)日本史の中でもトップレベルの名著、古典。一文一語の重みが凄まじい。 歳を重ねる度に、この本の奥深さが分かっていくんだろうなあという生への&q...
21世紀の言葉で言えば、浄土真宗は『インクルーシブ』だなぁ、と言うのが第一の感想。 庶民に広く親しまれた理由がよく分かる。 (当然だけれど)日本史の中でもトップレベルの名著、古典。一文一語の重みが凄まじい。 歳を重ねる度に、この本の奥深さが分かっていくんだろうなあという生への"悦び"も感じられた。
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親鸞の口伝の教えを弟子の唯円が門徒のためにまとめたもの 。師の存命中に異端論争が起きることから、真宗とは難解なものなのでしょうか。また、この書が明治の世まで秘されていたことは、どういう理由なのでしょうか。なんとも、不可解なテキストです。
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読書会課題本。久しぶりに手にとったが、文句なしの名著。格段ごとに入れている解説も簡潔にまとまっていて、読みやすい。しかし仏教学の素養がないと理解しづらいかもしれない。
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歎異抄。親鸞のお弟子さんとは言ってはいけないのかな。晩年を共にした唯円が著者という。歎異抄は異議者を嘆いているのであって、論破しようとしているのでは無い。なので歎異抄なのだと知る。嘆いているのだね。しかし難しい。一回読んでも分からない。だから解説本があるのかな。現代語のところだけ...
歎異抄。親鸞のお弟子さんとは言ってはいけないのかな。晩年を共にした唯円が著者という。歎異抄は異議者を嘆いているのであって、論破しようとしているのでは無い。なので歎異抄なのだと知る。嘆いているのだね。しかし難しい。一回読んでも分からない。だから解説本があるのかな。現代語のところだけを流し読んだからか。他力の念仏。仏教は深いね。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
浄土真宗の開祖・親鸞の弟子である唯円によってまとめられた、親鸞の言っていたことをまとめた前半10章、後半は親鸞没後に浄土真宗内で乱立する間違った解釈を正す ため、陥りやすい間違いをまとめている。 なによりも、親鸞のラディカルさを感じる。 短い経典ながら、強いコンセプトがいくつか。 ・悪人正機(善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや) 努力する→善人であるから救われる、といった公正世界仮説に似た直観にもとづく認識から転換、それはあらゆる人を救う阿弥陀の本願とは違う。悪人(=あらゆる煩悩を抱えた人=わたし)だからこそすくってくださるのだ、善人ならばなおさら。 仏教を救済型の宗教に変えた法然のコンセプトをさらに徹底させている。 ・いづれの行もおよびがたき身なれば、地獄は一定すみかぞかし =地獄こそ私のすみかなのです 阿弥陀仏の本願を信じること(信心)をもつこと、救済されることを信じることが大切。結果として救われないとしても、その信心を疑うことはない。そもそも地獄こそが自分のすみかである。 ・慈悲始終なし そもそもこの世に本物の慈愛はない。阿弥陀仏の本願のみが慈愛。 なぜなら、自分のちから(自力)で救うことのできない人はたくさんいる。本願(他力)のみがあらゆる人を救うことができる。 ・唯円との問答 唯円が「救うことが約束されているとしても、心躍らない自分がいる」という告白にたいして、「あなたも同じことを思っていたのですか」と語る。 大昔からいままで流浪し苦悩していた旧里(現世)は捨てがたい、いまだ見ていない安生とされる浄土に恋しい気持ちはわかない。だけど、それこそが煩悩であり、だからこそ私たちの救済は約束されているのです などなど。 いま、アランの幸福論を読んでいるが、その関連で 「幸福でいることを誓う」というコンセプトが真宗の「信心」と似ている、となんとなく思う。 100分で名著の釈徹宗による解説・動画を見つつ理解をふかめる。 「唯円はよく聞いてくれたと思うんですと」とか、「しびれます」というような表現で思想を語っていたことが印象的。 そのなかで、こうした身を助けるコンセプトがある一方で、宗教・経典のなかにある、役立つコンセプトをパッチワークしてしまう現代の流れに危険がある、とも語っていた。宗教の役割は人々に現実・社会と違う世界を開き、人々を救うこと、だからこそ危険であり、そうした危険性を認識することなしに美味しいところどりすることは時に強い攻撃性を発揮することもある。オウム真理教がその例。宗教は攻撃性を肯定さえできる。
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「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」 で有名な歎異抄を再読。あの司馬遼太郎さんが「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と語り、映画化されたようだ。 正直、前半の「教義」で予習しても、よくわからない。ただ、鎌倉時代に革新を起こしたであろう平易な文章に、現代の...
「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。」 で有名な歎異抄を再読。あの司馬遼太郎さんが「無人島に一冊の本を持っていくとしたら『歎異抄』だ」と語り、映画化されたようだ。 正直、前半の「教義」で予習しても、よくわからない。ただ、鎌倉時代に革新を起こしたであろう平易な文章に、現代のブログ的な自然体を感じた。今後も読み深めたい。
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あまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた! 歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。 わたしにはどんな宗教に...
あまりにもモダンな考え方で衝撃を受けた! 歎異抄は親鸞(1173-1262)の教えを直弟子の唯円がまとめたと言われる書。親鸞の没後作られた。親鸞の教えをやさしく説明したもので、大きく分ければ前半が親鸞の言行録、後半がそれに対する唯円の解説となっている。 わたしにはどんな宗教に対しても信仰はなく、他力本願という言葉くらい聞いたことはあるけれども…… 「他力本願なんて、なんてテキトーで安易な教えなの。修業するとまではいかなくても、生活に気をつけるとか、よいことをするとか、そういうのはないの?」というふうに考えていたけれども、ぜんぜん違った。 ここからはわたしの読み。 「他力本願」とは、簡単にいえば「阿弥陀仏を信じてひたすら念仏を唱えれば誰でも往生できる」ということで、やることといえば念仏を唱えることしかない。 やること自体は誰でもできて、断食とかもなくて簡単そうだが、実はこの“信じる”がポイントでかつ、究極的なクセものだ。 わたしの理解では「信じた」とか「理解した」とか言葉でいえる程度ではぜんぜん信じたことになってなくて、もう疑問にすら思わない、自分にとって常識化して、意識して思い出そうとしなり考えたりしない限り意識に上ることもないくらい、いやそれよりも上だな、二度と意識に上ることはないくらいにまで、“信じ切る”必要があるということを、親鸞は手を替え品を替え繰り返し言っている。 なにを信じるの? まあ表面上は「阿弥陀仏」ということになるんだろうけれども、おそらくそうじゃない。こういう言い方をすると自力──他力の反対。自分の意思で何かをおこなうことで、親鸞は自力の信仰を全面否定している──が混ざるので言い方が難しいけど、抽象的には「死後の世界は怖くない、もしくはどうであっても少なくともいまの自分に理解できることではないから、この世に生きるあいだはこの世で生きていること自体に完全な信念を持て」ということなのではないだろうか。 つまり、あなたが多少なにかで失敗したとしても、悪い事をしてしまったと思っても、そういうのをいちいち悔やんではいけない、死後の世界を気にかけるよりもいまが大事で、いまを生きていればその先は勝手についてくる(というか導かれる)、ということを完全に信じて、そのように生きなさい、と言っているように思える。 なるようになるというか、ケセラセラというか。そういうのに完全に身を任せよと。 なんだそんなことか、そんな無責任でいいのかって思うけど、でもねえ、それを自分の人生で完全に実践せよと言われても、たぶん難しいだろうな。
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