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善の研究 の商品レビュー

3.9

43件のお客様レビュー

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2024/04/10

 とうとう『善の研究』を通読できた。学生のときに第一編の「純粋経験」のところで挫折してしまってから、読めないままここまできてしまった。哲学という学問が明治以降に伝わって以来初めての本格的な哲学書、そして西田幾多郎の主著ということで、「どのようなことが書かれているのだろう、どのよう...

 とうとう『善の研究』を通読できた。学生のときに第一編の「純粋経験」のところで挫折してしまってから、読めないままここまできてしまった。哲学という学問が明治以降に伝わって以来初めての本格的な哲学書、そして西田幾多郎の主著ということで、「どのようなことが書かれているのだろう、どのようなことを考え本書を書いたのだろう」といったことを直接読んで学びたかったので、ちょっとホッとした。  本書は、第一編「純粋験」、第二編「実在」、第三編「善」そして第四編「宗教」の四編から成っている。著者みずから序において、「第一編は余の思想の根柢である純粋経験の性質を明にしたものであるが、初めて読む人はこれを略する方がよい」としているが、確かに哲学のワードや考え方にあまり馴染みのない人は、第二編以下を先に読んで、その後に第一編に戻るのが良いかもしれない。確かに全編を読み通すと、純粋経験というものが第二編以下で論じられていることの根底にあって、そのために純粋経験について著者が考えに考えた意義が分かってくるのだが、初めから純粋経験とは何々と言われても、正直??だと思う。  プラトンやアリストテレスから、デカルト、スピノザ、バークリー、カント、フィヒテやヘーゲル、またほぼ同時代といっても良いであろうマッハ、ウィリアム・ジェームズなどの西洋哲学・思想に、またウパニシャッド哲学や仏教などの東洋思想にも正面から向き合い、独自の考察を深めていった西田に感嘆の思いを持った。  残念ながら純粋経験の内容を始め良く分からないところも多々あったので、二読、三読に挑戦してみたい。

Posted byブクログ

2024/02/14
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

状態の良い古本で探しているうちに後回しになってきた岩波文庫-青の一冊。 いやこれはもっと早く読むべきだった!新品で買ってもよかったくらい。 読みやすい、おもしろい。読んでいて頭と心が喜んでいるのがわかる。 一つひとつの章が長くないので休憩時間にキリ良く読み切れる。 難解なのではないかと敬遠している方、まったく恐れる必要はありませぬ。 ┈┈第二編「実在」 第一章「考究の出立点」より┈┈ 深く考える人、真摯なる人は必ず知識と情意との一致を求むる様になる。我々は何を為すべきか、何処に安心すべきかの問題を論ずる前に、先ず天地人生の真相は如何なる者であるか、真の実在とは如何なる者なるかを明らかにせねばならぬ。 ┈┈第三編「善」 第十章「人格的善」より┈┈ 人格はその人その人に由りて特殊の意味をもった者でなければならぬ。 人格は単に理性にあらず欲望にあらず況んや無意識衝動にあらず、恰も天才の神来の如く各人の内より直接に自発的に活動する無限の統一力である(古人も道は知、不知に属せずといった)。

Posted byブクログ

2023/12/19

読み終えても何が書いてあったかわからないままだ。 2回目に読んだ後もわからなかった。 解説本がないと無理かもしれない。 また、一般読者向けに書いてあるわけではないので、てにをはや句読点の打ち方が戦後の週刊誌が作り上げたような、読みやすく理解しやすいものではないのも、理解を妨げ...

読み終えても何が書いてあったかわからないままだ。 2回目に読んだ後もわからなかった。 解説本がないと無理かもしれない。 また、一般読者向けに書いてあるわけではないので、てにをはや句読点の打ち方が戦後の週刊誌が作り上げたような、読みやすく理解しやすいものではないのも、理解を妨げていると思う。

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2022/12/24

聞いた。聞いて理解するには難解過ぎた。雰囲気は分かったかも。仏教やってたら飲み込みやすいかなと思った。

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2022/09/12

本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。 その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明し...

本著は西田幾多郎によって著された哲学書である。そして日本人によって著された最初の独創的な哲学体系だとされる。 その思想は純粋経験の立場をとり、これによって知識、道徳、宗教といった一切を基礎付けようと試みる。つまりあらゆる思想を排除した単なる経験の状態のみでこれらを徹底的に説明しようとする。 さらにそこから人間にとって「善」とは何か、「神」とは何かを導出していく。 哲学なので、本質的に抽象的であるため理解が難しいところはある。ただ古典の中ではかなり読みやすい部類かと思う。 やや冗長ではあるものの、難解なレトリックやメタファーなどは少なく、丁寧に読んでいけば理解できるようになっている。また主張も端的なので掴みやすい。 経験主義をよく理解できる一冊かと思う。その他の主張も分かれば興味深いものが多い。 特に、美の概念と善の概念が近接するという仮説は興味深い。つまり美とは物が自然の本質を実現する場合に感じられるものであり、善も同様に天から与えられた自己の人格を統合することで達することができる領域である。 人間は真の自己を知り、それを鍛えることで善の領域に辿り着かねばならない。 「主観は自力である。客観は他力である。我々が物を知り物を愛すというのは自力を捨てて他力の信心に入る謂である。」

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2022/08/13

著者、西田幾多郎さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士...

著者、西田幾多郎さん、どのような方かというと、ウィキペディアには次のように書かれています。 西田 幾多郎(にしだ きたろう、1870年5月19日〈明治3年4月19日〉 - 1945年〈昭和20年〉6月7日)は、日本の哲学者。京都学派の創始者。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・1913年)。京都大学名誉教授。著書に『善の研究』など。 ほぼ同時代を生きた文豪では、夏目漱石がいますね。 夏目漱石は、1867年生まれなので、西田幾多郎よりも3年位早く生まれています。 で、本作の内容は、次のとおり。(コピペです) 真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。 とのことですが、本作を読んだわけでななく、今後とも手にすることはないと思います。 今、読んでいる、『いつまでも親がいる』(島田裕巳著)の中に、本作について触れた箇所があったので、寄り道してみました。 『いつまでも親がいる』のp141に、次のように書かれています。 西田の代表的な著作である『善の研究』について言えることです。この本は、「経験するというのは事実其儘に知るの意である。全く自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである」という形ではじまります。それが、第1編第1章「純粋経験」の書き出しです。

Posted byブクログ

2022/04/11

何度も読みたい本。 意志も感覚も同じ純粋経験の枠組みの中に位置しており、全てはその程度の問題という考え方。 そしてその根本には個人それぞれが持つ性分があり、善とはその能力を最大化することであると。 そこを見つめ続けることが人生を生きるということなんだと思う。難しいが。いつか心...

何度も読みたい本。 意志も感覚も同じ純粋経験の枠組みの中に位置しており、全てはその程度の問題という考え方。 そしてその根本には個人それぞれが持つ性分があり、善とはその能力を最大化することであると。 そこを見つめ続けることが人生を生きるということなんだと思う。難しいが。いつか心からこのことがわかる時が来ることを願う。

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2024/03/18

人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識。▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合...

人が対象を「~である」と認識したとき、それはもう純粋な経験とはいえない。純粋な経験とは「~である」という判断以前の意識状態をいう。色を見たり、音を聞いたりするとき、その色や音が何であるか判断する前の意識。▼主体と客体は分かれていない。音楽を聴いているとき、自分と音楽が一つに溶け合っているような感覚。音楽に没頭しているときに主客の区別はない。「素晴らしい音楽だった」と思う段階は、すでに判断がなされているので、純粋の経験ではない。▼ 物を知るにはこれを愛さねばならず、物を愛するにはこれを知らなければならない。知識の真理は実践の真理であり、実践の真理は知識の真理でなければならない。▼主客が分かれておらず、自分と世界の間に区別がないので、個人が善を実現することは、世界の善を実現することでもある。善は人格の実現である。内から見ると意識統一(真摯なる要求の満足)であり、究極的には自他をともに忘れ、主客相没するという所に到らないといけない。外に現れる事実としてみれば、小は個人性の発展より、進んで人類一般の統一的発達に到ってその頂点に達する。西田幾多郎『善の研究』1911 どんな事物も、それが個体として現れるためには別の個体を必要とする。自分自身の否定によって個物は個物になる。事物同士の関係が成り立つ土俵。個物は互いに独立だが、相関係する。p.146- 西田幾多郎『現実の世界の論理的構造』1935 人は愛されることを求めることなく、愛するべきである。愛は欠けたものを求める心ではなく、溢れるものを包む感情である。倉田百三ひゃくぞう『愛と認識との出発』1921 いき。色っぽさがあり(媚態びたい)、心の張りがあり(武士道の理想主義)、諦めている(非現実性=現実社会の執着から離脱)。媚態・武士道・仏教。くき・しゅうぞう『いきの構造』1930 孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのではなく、大勢の人間の「間」にある。▼人は軽蔑されたと感じたときによく怒る。だから自信のある者はあまり怒らない。三木清みき・きよし『人生論ノート』1941 人間が人間以上の存在との関係を失ってしまい、みずからを絶対化したところに、近代の不幸は根付いている。ピカールト。無源の水を尋究(じんきゅう)すれば、源窮まりて水窮まらず。源にたどり着くことはできるが、水はそこで終わっていない。寒山詩。大きな自然のいのちに触れることがなくなると、人間生活は奥行きを失う。唐木順三からき・じゅんぞう『おそれという感情』

Posted byブクログ

2021/06/20

西田哲学については名前しか知らなかったけど、これを読んで少しわかった気がする! 基本軸は純粋経験にあって、そこから主客がはじまる、みたいな?

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2021/08/14

難しい。読破したとは思えない。 それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。 特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。 善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。 ルールを破ること、誰かに不...

難しい。読破したとは思えない。 それでも、自分の世界観をガラリと変えた一冊。 特に、「善」「悪」をという言葉を捉え直す彼の考え方は、今の思考に大変マッチしました。 善を人間の本来の性質と定義するところから、悪とはなにかを改めて知ることができます。 ルールを破ること、誰かに不正を働くことではなく、そういった段階からさらにもう一歩深めた価値観が生まれました。 そもそも、善という言葉には本来道徳的な意味合いはなくて、『ためになる』というシンプルな意味合いだったそうですね(ギリシャ哲学だったでしょうか)私たちが持ってしまいがちな観念を1から丁寧に説明してくれます。 「人格的要求」という言葉も好きです。 言葉づかいは難しいけれど、その意味を想像するに、万物斉同、主客合一といった理想を思い描けるからです。 アニメの例えで恐縮ですが、新世紀エヴァンゲリオンの「人類補完計画」にも通じるような考え方かもしれません(人類を全滅させる、という意味ではないですよ!) 岩波文庫の哲学書、という風体から忌避しなくてよかったと、心から思える1冊です。 子供にも読んでほしいけれど、自分も40年かかったので、彼女が読む頃には私は死んでるかもしれないなぁ・・・ (追記)2021年8月に再読 今回はノートを取りながら。 前回は読み飛ばしていた部分にも意識を向けて熟読します。 特に印象に残った点を3つお伝えします。 1 西田は白黒思考をしない 思惟と統覚、主観と客観、分化と統一といった言葉の違いを哲学者らしい緻密な言葉遣いで説明しながらも、全く違うものとは断じません。あくまで『程度の差』であり、最終的には同じものだとまとめます。 一章から四章まで通じてこの言い回しを使うので印象に残りました。 主客合一、物事は見方の違いで別物のように見えているだけ、という考えを体現しています。 2 あたりまえの倫理感を疑え 彼は紙面の一部を割いて、倫理の体系を比較検討しています。 直感説、即ち倫理とは当たり前に思う良し悪しの判断である。 権力説、即ち人に決められた良し悪しのルールである。 合理説、快楽説、、、、 特に私はストア派(禁欲的な考え方)に賛成しているので、倫理は合理的なものだと考えていました。 自分で意識的に考えていただけに、彼が提唱する、活動説と呼ばれるものは目からウロコです。 合理説がもっている、消極的な姿勢(~をしてはならない)という止める力ではなくて、目的をもって自らの行為を改める、変えることが善である。その積極性を強調しているからです。 話の3つめは、その目的を抜き出しました。 3 善(~のため)とは私たちの人格を目的とする、手段にしてはならない ラッセルが幸福論で『外への関心を向けよ』と言ったように。 アドラーが『愛のタスクが最も難しい、それでいて最上のいきる意味である』と断言したように。 自愛、他愛分けず、その合一を目的にして生きること。これを善とした西田の言葉に複雑な気分を隠しきれません。 その理想の形に同意できつつも、これまでの経験を振り返って、いかにその善行為を避けてきたか。できそうな相手には発揮して、そうでない人々には無関心を決め込んでいたかが脳裏によぎるからです。 さらに勇気が必要なことには、この善行為が、今ここから出来るという事実です。 社会的地位、財力、出自を問わず実践できるだけに、誰でも善行為はできるわけですから。 実践できるだけに、そうでない人は意識の有無に関わらず悪。心苦しいようであれば、悪よりの振る舞いを選んでいることになります。 彼の言う善とは、今の自分に対する叱咤激励である。 そう思えてなりません。 以上、再読の感想をまとめました。 この出会いを自分の人生観により働かせることを決意して、いったん感想を終えます。 長文お読みいただきありがとうございました。

Posted byブクログ