動物化するポストモダン の商品レビュー
図書館より 2000年代以降のサブカルチャーや文化論について知りたい、調べたいとなったら避けては通ることはできない、というのが読み始める前のイメージだったのですが、まさにそのイメージ通りというか、あまり文化論や社会学に通じているつもりでもないですが、『大きな物語』だとか『ポ...
図書館より 2000年代以降のサブカルチャーや文化論について知りたい、調べたいとなったら避けては通ることはできない、というのが読み始める前のイメージだったのですが、まさにそのイメージ通りというか、あまり文化論や社会学に通じているつもりでもないですが、『大きな物語』だとか『ポストモダン』だとか社会学関連の言葉が出てきたとき、あの話はこの本を基調して言っていたんだな、ということがすごくわかる。それだけこの本の登場は画期的だったのだろうな、と思えます。 宇野常寛さんの『ゼロ年代の想像力』では酷評されていた東浩紀さんですがそれも裏を返せば、サブカルを語るうえで欠かせない、サブカル批評の基本図書ともいえそうなこの本を書かれていたからなのだろうな、と認識できました。
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現代思想専門だった東浩紀だけにポストモダンの行方をシミュラークル、データベースという切り口でオタク文化を分析するその手腕はまさにオタクたちの待っていた人だろう。 オタクのコミュニケーションが自発的なものであり、いつでも離脱可能だという指摘は現在のネット社会を予見していてさすが東...
現代思想専門だった東浩紀だけにポストモダンの行方をシミュラークル、データベースという切り口でオタク文化を分析するその手腕はまさにオタクたちの待っていた人だろう。 オタクのコミュニケーションが自発的なものであり、いつでも離脱可能だという指摘は現在のネット社会を予見していてさすが東浩紀だと舌を捲かざるを得ない。 新世紀エヴァンゲリオンという無限にシミュラークルを作りだす装置のからくりをいま読み返してみて2001年の段階で看破していたことも彼が白眉である証拠だろう。 しかし第三章においての解離性人格障害をシミュラークルとデータベースで説明するというのはあまりに稚拙すぎる。 この章はなくてもよかっただろうと思う。 現在の東の活動はオタク文化分析のフィールドからかなり離れてしまったしおそらくもうそれほどオタクという現象に魅力を感じなくなっているのだろう。 確かに東の分析から現在のオタク文化が進展して考察するに値するものであるとは思えない。 これから本書を読む人は2013年の時点においてはそれほど目新しいことは書いていないことを自覚しつつ再確認するという程度にとどめておくべきであろう。 現代思想という言葉が風化しつつある現代日本においてはもはや本書は役割を終えた感はあるがここから西欧のポストモダニズムへの興味が少しでも湧いてくるならばそれだけで本書を読んだ価値はあるかもしれない。
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<要約> ポストモダンは、何となく大きなシステム(=父)を求めているが、一つ一つの「ありえたストーリ」を俯瞰しつつも即物的、動物的に進むが、結局は大きな物語にたどり着けない時代である。ということをギャルゲーや萌えキャラ、流行したアニメの変遷によって解説した本。 <近代>:オリジ...
<要約> ポストモダンは、何となく大きなシステム(=父)を求めているが、一つ一つの「ありえたストーリ」を俯瞰しつつも即物的、動物的に進むが、結局は大きな物語にたどり着けない時代である。ということをギャルゲーや萌えキャラ、流行したアニメの変遷によって解説した本。 <近代>:オリジナルとコピーの時代 <ポストモダン>:データベースとシュミラークルの時代 <近代以降の世界は?> 人間は環境を否定するものだ。しかし、ヘーゲルの死後、人間には2つの道が残っている。 ①アメリカ的動物化 ②日本的スノビズム 否定するべきものがないのに、形式に沿って環境を否定するような行動する。(例:切腹)=第一次世代のオタク <オタクの変遷> 「大きな物語」の埋め合わせ=第一次(ガンダム等) 移行期=第二次(エヴァ等) 動物化するポストモダン=第三次(デ・ジ・キャラット等) <表層とシステムの解離> 表層で動物的に欲望を処理するスタイル(これはギャルのコミュニケーションとも同じ) 表層:萌え要素・運命・小さな物語 システム:データの解体とシミュラークル・複数の運命・大きな非物語 過剰に可視的=過視的(ネットサーフィンをやめるタイミング見つからないように)なため、システム=大きな非物語を求めようとしても横滑りしてしまう。
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「複数の要素を順列組み合わせで掛け合わせることで、類似した作品がいくらでも生産されてしまう。」この言いようが身も蓋もなく、とても気に入った。
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ちょっと前の東さんの著作。 大きな物語が失墜して以降の、ポストモダン的な世界について、オタク的サブカルチャーの視座から読み解く。 データベース的消費、萌え要素の組み合わせでシュミラークルが乱立する、というのは確かにきわめて現状にあったものだなと思う。でそれをウェブがドライブして...
ちょっと前の東さんの著作。 大きな物語が失墜して以降の、ポストモダン的な世界について、オタク的サブカルチャーの視座から読み解く。 データベース的消費、萌え要素の組み合わせでシュミラークルが乱立する、というのは確かにきわめて現状にあったものだなと思う。でそれをウェブがドライブしているという点もまさに。 でもデータベースってつまり「大きな物語」なのではないの?データベースを共有している時点でポストモダン的な島宇宙の世界とはちょっと違うんじゃないか?たしかに神話的なものとして「データベース」は存在しておらず、それは単なる「萌え要素」の引き出しであって、それを組み合わせることでシュミラークルが簡単に生成されてはいる。でもその「萌え」という感覚自体が結構すでにゆるやかに共有されているからこそ、そのデータベースを作ることが可能なわけじゃないすか。 んー主題とは違うのかもしれんけど、むしろ「萌え」の共有がどうなされているのかが気になるなあ。データベースがどう形成される(あるいはマインドセットされる)のか気になるなあ。「大きな物語の失墜」というポストモダンの思想はまあいいんだけど、それが実社会でどう進んでいるのか、どうやって動物化していくのか、という論点で考えると、もうちょっといろいろと考える余地はありそう。
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大塚の「物語消費」をアップデートする形で東が提唱する「データベース消費」 オタクのキャラ萌えに代表される、作品や商品の背後にある世界観やシステムといった<大きな物語>と遊離して、キャラクターを単独で消費し、勝手に感情移入を高めていくというもの。ちなみにキャラクターはあくまで<デー...
大塚の「物語消費」をアップデートする形で東が提唱する「データベース消費」 オタクのキャラ萌えに代表される、作品や商品の背後にある世界観やシステムといった<大きな物語>と遊離して、キャラクターを単独で消費し、勝手に感情移入を高めていくというもの。ちなみにキャラクターはあくまで<データベース>から生み出されたシミュラークルに過ぎない。 そして東はそうした「動物化」に警鐘を鳴らしている。 賛否両論あるみたいだけど、すごく面白い。 完全には理解しきれてないかもしれないけど 「物語消費」「データベース消費」を用いて身近なモノを もっと消費社会論的に解明していけそう。 「ゆるキャラ」とかね。。
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ポストモダンという言葉もあまり知らなかった自分には難しい内容だった。でもオタク系文化を通して社会の流れについて論じているのはすごい新鮮で楽しかった。もっと哲学とかそこらへんの勉強してから読んだらさらに楽しめるかも。
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読み物として大変面白い 内容はポストモダンとやらをオタク文化を介して、ざっくりと解説 哲学や思想もろくに知らない自分だが、わかりやすい解説で容易に飲み込めた また、ヌルいオタクの自分にはオタク文化の解説も興味深かった ただ、全く科学的ではない、全て著者の主観的なものを書いてるだ...
読み物として大変面白い 内容はポストモダンとやらをオタク文化を介して、ざっくりと解説 哲学や思想もろくに知らない自分だが、わかりやすい解説で容易に飲み込めた また、ヌルいオタクの自分にはオタク文化の解説も興味深かった ただ、全く科学的ではない、全て著者の主観的なものを書いてるだけだ 議論の軸となるツリーモデルやデーターベースモデルとやらも著者独自のもので裏付けはない オタクの有り様や消費行動も客観的な調査によるものでない著者の主観的なものだ どこまでいっても、著者の頭の中を見せられてるだけだ 大切なのは、これを読んだだけで分かったつもりにならずに もっと自分で検証することが必要だろう
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オタク系でポストモダンをなぞり、ポストモダンでオタク系を読み解く。 「大きな物語」が終焉し、すべてがデータベース化された世界を生きるのは解離症と多重人格なのである。
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自分の大学時代は東浩紀の時代だったと、既に自他共に認めている気がする。「オタク」でなくとも、自分たちはシミュラークルを消費して生活している、という空虚さがマッチしたことが、東浩紀の広がりの要因だったのではないか。それを動物的に消費して生活することを肯定するのか、東浩紀の言っている...
自分の大学時代は東浩紀の時代だったと、既に自他共に認めている気がする。「オタク」でなくとも、自分たちはシミュラークルを消費して生活している、という空虚さがマッチしたことが、東浩紀の広がりの要因だったのではないか。それを動物的に消費して生活することを肯定するのか、東浩紀の言っていることを鵜呑みにするのか、その距離感を計り直さなければ「東浩紀の世代」は「次」にいけないのだろう。だから、宇野常寛を含めて多くの人間が敵に回って行くことは必然なのかもしれない。
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