日日雑記 の商品レビュー
大切にとっておいた武田百合子の最後の本.また読み返せばいいのだけれど,これでもう,新しい本に出会うことはないと思うと,寂しいね.
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「ある日」で始まる日記。武田百合子最後の書籍。 どこかに出掛けた話や食べたもの・見たものの話が多いが、 身近な人たち(愛猫のタマを含む)に先立たれて残されてしまった寂しさが全体に漂う。 娘の花との親子関係が対等な感じが素敵。
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作家によっては読者側の脳の働きがその本を読む専用の仕様にカスタマイズされていくような気持ちになるときがある。 彼女の正月の話を目で追いながら、頭の中があれやこれや動いていく。そしていったんそうなってしまうと、ずるずると引き込まれていくのだ。 彼女は武田泰淳の奥さんだが、この世界観...
作家によっては読者側の脳の働きがその本を読む専用の仕様にカスタマイズされていくような気持ちになるときがある。 彼女の正月の話を目で追いながら、頭の中があれやこれや動いていく。そしていったんそうなってしまうと、ずるずると引き込まれていくのだ。 彼女は武田泰淳の奥さんだが、この世界観というか空気はどちらかというと、川上弘美、さらにいえばそれに連なる内田百閒を思い起こさせる。 ひょうひょうとした語り口と、悲しいことを書いていてもどこかユーモラスな視点。 湯治場にいって、そこの常連に熱心に入っているから自分は長生きだと自慢されて、娘が後で母親に一日中風呂につかっているだけで過ごして長生きといっても何もできないじゃないかと指摘したり、仲良しアヒルの光景にほのぼのしてたら実は食べられる運命だと教えられたり。 また、このアヒルが夜の池に浮かんでいる情景の描写がすばらしいから余計ブラックでおかしい。 特に飼い猫の晩年と死についての描写はいい。 もう動けなくなった猫の言葉もかわいらしく、消えゆく愛するものへのいとおしみがよく出ている。 その猫が死に亡き泰淳と猫との思い出に泣きながらペット霊園にいって、焼き場のおっちゃんに尻尾の骨をほめてもらい、大事に飼っていたんだね、と言われる。 そして猫の葬式代を友人の猫の葬式代と比較して、それが相場なんだろうと納得し、骨をほめてくれたことを思い出す。 やはり、内田百閒ぽいなぁ。 もっと読みたい。 しかし、これは最後のエッセイでこれ以降は無い。 残りは数冊、また脳みそを切り替える時間の余裕ができたときに少しずつ読みたい。
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ある日。 という書き出しで一日いちにちのことを綴っている。生活のあれこれを表しているのに、文章から受ける印象はとても客観的で視覚的。読んでいるとその場面が立ち現われるような思いがする。 それは著者が感情をあまり交えずに書いているからだ。日記のような体裁だけれど、豊かで正直な喜怒哀...
ある日。 という書き出しで一日いちにちのことを綴っている。生活のあれこれを表しているのに、文章から受ける印象はとても客観的で視覚的。読んでいるとその場面が立ち現われるような思いがする。 それは著者が感情をあまり交えずに書いているからだ。日記のような体裁だけれど、豊かで正直な喜怒哀楽が省かれた文章は淡白で、たとえば歴史上の誰かの人生をたどっているような、そんな読み物になっている。
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ごく普通の毎日を綴ったエッセイですが、視点がいいなと思います。食べたものなんかも、特別なものではないはずなのにとてもおいしそうだと感じます。
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文章も視線も淡々とクールなのに、とても少し高めの体温を感じる。こんなふうに眺めて、こんなふうに日々を綴れるといいな、と思う。
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時間があったので一気に読んだが、 だからなのか、あまり残らない。 少し油断をすると、エッセイという事もあり、 頭に入らず目で追うだけになってしまう。 だけどここまでセンスのある文章は たまらない。映画をよく見る。
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晩年の作品とのことだが、それまでと変わらず、色々なモノを見、色々なモノを感じ、それらが淡々とした文章でかかれている。 シンとしている文章。 この人自身は、きっと情熱的で皮肉屋で自由で、そんな人なんだろうけれど(勝手な想像)、この人の書く物は乾いた砂のように湿り気がなくて静かだ。...
晩年の作品とのことだが、それまでと変わらず、色々なモノを見、色々なモノを感じ、それらが淡々とした文章でかかれている。 シンとしている文章。 この人自身は、きっと情熱的で皮肉屋で自由で、そんな人なんだろうけれど(勝手な想像)、この人の書く物は乾いた砂のように湿り気がなくて静かだ。 なんでだろう。
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「富士日記」はまだ読んでいない。 とっておきにしてあって、まだ手をつけていないで楽しみにおいてある。 先に読んだこの「日日雑記」は、武田百合子さんの最後のエッセイ集とのこと。 この本の書籍版が刊行された1992年7月の、わずか10か月後に武田百合子さんは亡くなっています。 もと...
「富士日記」はまだ読んでいない。 とっておきにしてあって、まだ手をつけていないで楽しみにおいてある。 先に読んだこの「日日雑記」は、武田百合子さんの最後のエッセイ集とのこと。 この本の書籍版が刊行された1992年7月の、わずか10か月後に武田百合子さんは亡くなっています。 もとの文章は雑誌の連載であって、最後の文章は1991年の4月だからもう少し前の時間ではあるけれど、そんな、人生の晩年を綴ったとは思えないほど、ここに登場する生活はいきいきとしていて、あまりにも普通なことに驚いてしまいます。 それにしても、日常にこれほど「小事件」が起こるのは、その人の身の上が特殊だからなのか、とおもったりするけれど、やっぱり、どれだけのことがらを日常生活からすくい上げることができるのか、が境目なんだろうか。 たまたま乗ったタクシーの運転手さんに身の上話をされて、目的地に着く頃には大泣きされて、なんて事件、自分には起きそうもない。 やっぱり「小事件」は、人を選ぶのかな。 水族館で水槽の中を泳ぐいきもの達を見て、自分ならば「あのイカ、おいしそう」とか「鯛ってきらきらきれいだなあ」ぐらいしか連想ができないのに、百合子さんは「飼うならこれだ」とか、「これは飼えない」とか、連れてくることを前提にチェックしているあたり、見学というものひとつとっても、人生の楽しみ方ってまだまだあるんだなあ、と思い知らされました。 これだけ細かい「雑記」を読んでもしんどくないのは、感情がほとんど入り込んでこないから。 だから淡々としている日常のように思えるけれど、そうでなければもっとぐったり疲れそう。 そんなところが、武田百合子さんの日記を皆、好きだと思うところなのかな、と考えたりした。 それにしても、お相撲さんの背中を見て、切り取ってカバンにして持ち歩きたい、だなんて。。。。もう、完敗です。 これから相撲中継、そんな目で背中を品定めしちゃうよ~!
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富士日記の中下より先にこちらを読んだら、「夫」も大岡さんも死んでしまい、ポコも出てこず、ひとりの人生を早回しで見てしまったようで寂しい。武田百合子さんのことだから、きっと管理人や外川さんもいて寂しくなかったのだろうと思いたいが、富士の山荘にひとりで登った気になって、やはり寂しい。...
富士日記の中下より先にこちらを読んだら、「夫」も大岡さんも死んでしまい、ポコも出てこず、ひとりの人生を早回しで見てしまったようで寂しい。武田百合子さんのことだから、きっと管理人や外川さんもいて寂しくなかったのだろうと思いたいが、富士の山荘にひとりで登った気になって、やはり寂しい。読み終えると、「花子」になった気がして、とてつもなく寂しい。
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