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善の根拠 講談社現代新書
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 講談社 |
| 発売年月日 | 2014/12/17 |
| JAN | 9784062882934 |
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善の根拠
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善の根拠
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商品レビュー
3.6
8件のお客様レビュー
人間存在の根本的な問いに挑む本書は、善悪の構造を深く掘り下げ、現代社会における倫理の根拠を探求しています。著者は、「私」が他者によって形成されるという実存的な条件から出発し、善とはその関係性を引き受けることであり、悪はそれを拒絶することだと説きます。仏教の戒律を例に、倫理の実践的な意義を明らかにし、道徳の相対化を図りながらも他者との関係構築の重要性を訴えています。特に、前半の解説と後半の対談が相互に響き合い、読者に深い思索を促す構成となっており、自己と他者の関係を考える上での新たな視点を提供します。著者の温かくも厳しい視点が、現代の倫理的課題に対する理解を深める手助けとなる一冊です。
※この内容はAIが作成したものであり、ブックオフ公式オンラインストアの見解や意図を示すものではありません。
著者自身の考える仏教の立場にもとづいて、倫理の根拠についての考察が展開されています。 著者の議論の出発点となっているのは、「私」は自分ひとりで「私」であることはできず、他者から「私」であることを課されることではじめて「私」であることができるという、人間存在の実存的な条件です。そ...
著者自身の考える仏教の立場にもとづいて、倫理の根拠についての考察が展開されています。 著者の議論の出発点となっているのは、「私」は自分ひとりで「私」であることはできず、他者から「私」であることを課されることではじめて「私」であることができるという、人間存在の実存的な条件です。そのうえで、他者によって課された「私」のありかたを引き受けることが「善」であり、それを拒絶することが「悪」であると著者は考えます。 ただし著者は、他者によって課された「私」を引き受けるべきだと主張しているのではありません。他者によって「私」であることを課されるという事実それ自体は善悪にかんして無記であり、いわば「道徳の臨界」を印づけているのであって、それを受け入れる、あるいは拒絶するところから善悪の区別がはじまるというのが、著者の立場だといってよいでしょう。 このような基本的な考えかたにもとづいて、著者は仏教の戒律の意義についての独自の考察を展開していきます。仏教では、社会的存在であるわれわれが他者との関係を結ぶことによって善悪の区別がはじまるということを自覚したうえで、道徳には実体的な根拠が存在しないことを見据えつつ、あらためて他者との関係を構築していくことを説いています。そのための実践的な方針が戒律にほかなりません。 著者自身の仏教の理解がもとになってはいるものの、いわば素手で倫理学上の問題に取り組んだ本という印象です。正直なところ、議論の厚みはありませんが、道徳を相対化しつつそれにかかわっていこうとする実存的なスタンスが著者自身の生そのものに深く根差していることはうかがえるように思います。
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- ネタバレ
※このレビューにはネタバレを含みます
善の定義としては、一般には大きく2つに分かれる様に思う。一つはある絶対的な、ないしアプリオリな規範があり、それに近づくほど善、それから離れるないし規範が欠乏するほど悪、とするもの。もう一つは2つの両極端の間を善、とするもの。 前者は一神教や独裁がそれに当たり、後者はアリストテレスの倫理体系や古代中国の道教、中庸で説かれる思想等が近いか。いずれも、自分以外の何処かに善の参照点を置き、それを前提にしているように思われる。 この本は、どちらの立場でも解釈出来ない論理を掲げているように思われる。著者の他の書に見えている思想と根本は同一ながら、かなりラディカルな思想ではないかと思う。この人の本が好きなので、らしいとも言えるが。 著者は、そもそも外部的な論理や倫理に善の根拠を求めていない。先の後者の倫理体系ですら、社会や他人との関係の中で様々に変わる中間点を模索する事がキーだと思うが、この本では、善とは自己を引き受け、生きる事を選択する事と解釈している。 この部分だけなら、汎用的な規範や他者の決めたルールは必要ない。ただ、著者の言う自己とは他者からの働きかけの集大成として形成されるものであって、自己それ自体は自然発生的には存在し得ない。自分なりに理解すれば、自我の境界線の外側にある他者が先に決まり、その線の内側を仮に自己とするしかない、と読める。そこで、自己を引き受ける事が善であるなら、その否定、つまり他者からの働きかけという構造の拒否や他者を顧みない自己の認識が悪、という事になる。 それ自体では独立して存在し得ず、他者によってしか作られない自己をあえて引き受ける事から、善と呼ぶべき何かしらが生まれ得る(必ず生まれるわけではない)。だから自己の引き受けの放棄はすべからく悪だし、自己の必要条件である他者が自己を引き受ける事の妨害、すなわち殺人や障害は悪、となるのだろう。 たしか、著者の「老師と少年」にあったと思うが、生きる事それ自体が良いことでも、生きれば必ず良いことが生まれるわけでもない。ただ、全ての良い事は生きる事からしか生まれ得ない。生きられた生が、良きことを生み出すことがある、というだけでしかない。そう言う意味では本書で述べられているのは善そのものでなく、前提条件という意味でのまさに善の根拠、なのかも知れない。 禅僧の修行が、必ずしも悟りに至れるという確証がある訳でなく(涅槃が定義出来ない以上、やむを得ない)、ましてや確定したスキームがある訳でもない中でひたすら帰依を繰り返していくこと、それ自体が尊く善きことであるとするなら、これはある面において人生そのものでは無いか。 自分としては、これを信じれば幸せ、あれをやれば人生安泰、という考えよりはよほどしっくりくるし、ある意味では自分の人生を自分で作っていくしかない、という点では安心できる考え方だった。
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『人間においてのみ、善悪が問題になるのは、この「自己」が「他者」に由来するという矛盾と困難があるからだ。すなわち、そういう存在の仕方を「自己」がしているからなのだ。この矛盾を矛盾として、困難を困難として認識できるということ(すなわち、それが「ある」こと)は、「自己」と「他者」の関...
『人間においてのみ、善悪が問題になるのは、この「自己」が「他者」に由来するという矛盾と困難があるからだ。すなわち、そういう存在の仕方を「自己」がしているからなのだ。この矛盾を矛盾として、困難を困難として認識できるということ(すなわち、それが「ある」こと)は、「自己」と「他者」の関係性それ自体を認識できるということである。(略)「自己」という存在が「他者から課された」という構造によって無根拠に開始されてしまうということである。善悪はこの構造に対する態度のとり方の問題なのだ』 あと、3回はこの本を読まないと!
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