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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 講談社 |
発売年月日 | 1996/01/12 |
JAN | 9784061963528 |
- 書籍
- 文庫
たんぽぽ
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たんぽぽ
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商品レビュー
3.5
6件のお客様レビュー
稲子の病、人体欠視症は、父の不慮の事故に端を発した、見たくないものは見なければ良い、というより、意にそぐわないものが見ることができなくなる精神病。特に久野に見た桃色の虹は、稲子の理想の表れであろうか。この稲子がついに小説には一度も登場しないままに未完、とても惜しい。完結していない...
稲子の病、人体欠視症は、父の不慮の事故に端を発した、見たくないものは見なければ良い、というより、意にそぐわないものが見ることができなくなる精神病。特に久野に見た桃色の虹は、稲子の理想の表れであろうか。この稲子がついに小説には一度も登場しないままに未完、とても惜しい。完結していない今までの話では、娘/恋人の精神病を種に延々と問答を繰り広げる母と久野の心の有り様がむしろ克明に描かれている。若く、思い込み、決めつけが激しい理想家、夢想家の久野と、娘に対する過保護からくる、完璧主義との対立はいつまでも平行線だ。 欠視症、はどこか盲目的な母と久野にも当てはまっていると感じた(特に稲子について)、視覚的な症状がないだけで。メタ的には、読者には稲子が終始見えておらず、見たくない/見難いものとして描くつもりだったのか、どう描かれる予定だったのか。 狂老人と稲子の対比や、父木崎の見た妖精、鐘の音、など気になる伏線はたくさんあって、本当に未完なのが残念。
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川端康成の絶筆 未完の作に評価5を付けるのは少しはばかられるのだが、面白かったので仕方ない。 2日前に『伊豆の踊り子』を読了したばかり。両者間には約40年の開きがあるのだが、年数以上の隔たりがあった。川端康成はもともと、様々なスタイルを駆使する作家だと承知しているが、70歳を過ぎ...
川端康成の絶筆 未完の作に評価5を付けるのは少しはばかられるのだが、面白かったので仕方ない。 2日前に『伊豆の踊り子』を読了したばかり。両者間には約40年の開きがあるのだが、年数以上の隔たりがあった。川端康成はもともと、様々なスタイルを駆使する作家だと承知しているが、70歳を過ぎてもなお進化し続ける文豪の凄みを感じた。 人体欠視症という病にもうやられてしまいました。愛する人の肉体だけ見えなくなる幻想的な病。この設定だけで物語の中に引き込まれてしまいます。 物語はほぼ、発症した娘の恋人と母の間の会話だけで構成されています。入院した娘の撞く鐘の音が鳴り響くなか、恋人と母の間で繰り広げられる緊迫した会話劇。この世界観だけで満足です。 白鼠や白いたんぽぽ、妖精のような少年や少女など魅力的な要素が散りばめられるなか、同じような要素のひとつと思っていた亡き父の逸話がどんどん膨らんでいき(物語上の)大立ち回りを演じはじめます。人体欠視症の発症と関係があるのでしょうか。 「結末がわからずモヤモヤしないのか」と問われれば、正直気になる部分はありますが、「もし完結していても、全ての謎が明らかになったりはしないのだろうな」とも思います。 結局、発症原因は判らないし、回復もしないまま、鐘の音は鳴り続けるのではないかと思いますが、どうでしょう?
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読み始めに、情景が自然と立ち上がってくるような思いがした。 さすがだな、と思った。 しかし、会話文は繰り返しが多く、ややしつこいと感じた。 繰り返しながら少しずつ変化し進んでいくのだが、まどろっこしく感じた。 そして、娘の恋人と母親の会話としては、やや不自然な展開と内容だったと違...
読み始めに、情景が自然と立ち上がってくるような思いがした。 さすがだな、と思った。 しかし、会話文は繰り返しが多く、ややしつこいと感じた。 繰り返しながら少しずつ変化し進んでいくのだが、まどろっこしく感じた。 そして、娘の恋人と母親の会話としては、やや不自然な展開と内容だったと違和感を覚えた。 人の死は、それ自体で完結している。 もしこうだったら、はありえない。 自分のせいで、と思うことは一種の傲慢ですらある。 久野が語るその生死観には共感ができた。 たんぽぽや桃色の虹、白いネズミや天使のような子ども、生田町の描写から、世界は決して悪いものではなく、あたたかく優しいものである、という印象を受ける。 桃色の虹と共に久野が見えなくなるという稲子の病気も、それ自体は悪いものでは無い、と示唆しているような気がする。 人間の欲や常識は、特殊な事象を悪いもの、病気、気違いと決めてしまう。 しかし、それは人知を超えている、というだけであるのだ。 ありのままの世界を美しく描く文章を読んでいると、それと対比された人間の思考の弱さのようなものを感じる。 欠視性の稲子結婚しようとする久野の気持ちには、純粋な面とエゴの面とが感じられる。 決してそのままの稲子を受け入れようとしているのではなく、稲子を「治そう」としている時点で、彼女と真っ直ぐに対峙しようとしていないように思える。 また、稲子自身の意志があまり描かれていなかったので、私にはそこが気になった。
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