たんぽぽ の商品レビュー
稲子の病、人体欠視症は、父の不慮の事故に端を発した、見たくないものは見なければ良い、というより、意にそぐわないものが見ることができなくなる精神病。特に久野に見た桃色の虹は、稲子の理想の表れであろうか。この稲子がついに小説には一度も登場しないままに未完、とても惜しい。完結していない...
稲子の病、人体欠視症は、父の不慮の事故に端を発した、見たくないものは見なければ良い、というより、意にそぐわないものが見ることができなくなる精神病。特に久野に見た桃色の虹は、稲子の理想の表れであろうか。この稲子がついに小説には一度も登場しないままに未完、とても惜しい。完結していない今までの話では、娘/恋人の精神病を種に延々と問答を繰り広げる母と久野の心の有り様がむしろ克明に描かれている。若く、思い込み、決めつけが激しい理想家、夢想家の久野と、娘に対する過保護からくる、完璧主義との対立はいつまでも平行線だ。 欠視症、はどこか盲目的な母と久野にも当てはまっていると感じた(特に稲子について)、視覚的な症状がないだけで。メタ的には、読者には稲子が終始見えておらず、見たくない/見難いものとして描くつもりだったのか、どう描かれる予定だったのか。 狂老人と稲子の対比や、父木崎の見た妖精、鐘の音、など気になる伏線はたくさんあって、本当に未完なのが残念。
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川端康成の絶筆 未完の作に評価5を付けるのは少しはばかられるのだが、面白かったので仕方ない。 2日前に『伊豆の踊り子』を読了したばかり。両者間には約40年の開きがあるのだが、年数以上の隔たりがあった。川端康成はもともと、様々なスタイルを駆使する作家だと承知しているが、70歳を過ぎ...
川端康成の絶筆 未完の作に評価5を付けるのは少しはばかられるのだが、面白かったので仕方ない。 2日前に『伊豆の踊り子』を読了したばかり。両者間には約40年の開きがあるのだが、年数以上の隔たりがあった。川端康成はもともと、様々なスタイルを駆使する作家だと承知しているが、70歳を過ぎてもなお進化し続ける文豪の凄みを感じた。 人体欠視症という病にもうやられてしまいました。愛する人の肉体だけ見えなくなる幻想的な病。この設定だけで物語の中に引き込まれてしまいます。 物語はほぼ、発症した娘の恋人と母の間の会話だけで構成されています。入院した娘の撞く鐘の音が鳴り響くなか、恋人と母の間で繰り広げられる緊迫した会話劇。この世界観だけで満足です。 白鼠や白いたんぽぽ、妖精のような少年や少女など魅力的な要素が散りばめられるなか、同じような要素のひとつと思っていた亡き父の逸話がどんどん膨らんでいき(物語上の)大立ち回りを演じはじめます。人体欠視症の発症と関係があるのでしょうか。 「結末がわからずモヤモヤしないのか」と問われれば、正直気になる部分はありますが、「もし完結していても、全ての謎が明らかになったりはしないのだろうな」とも思います。 結局、発症原因は判らないし、回復もしないまま、鐘の音は鳴り続けるのではないかと思いますが、どうでしょう?
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読み始めに、情景が自然と立ち上がってくるような思いがした。 さすがだな、と思った。 しかし、会話文は繰り返しが多く、ややしつこいと感じた。 繰り返しながら少しずつ変化し進んでいくのだが、まどろっこしく感じた。 そして、娘の恋人と母親の会話としては、やや不自然な展開と内容だったと違...
読み始めに、情景が自然と立ち上がってくるような思いがした。 さすがだな、と思った。 しかし、会話文は繰り返しが多く、ややしつこいと感じた。 繰り返しながら少しずつ変化し進んでいくのだが、まどろっこしく感じた。 そして、娘の恋人と母親の会話としては、やや不自然な展開と内容だったと違和感を覚えた。 人の死は、それ自体で完結している。 もしこうだったら、はありえない。 自分のせいで、と思うことは一種の傲慢ですらある。 久野が語るその生死観には共感ができた。 たんぽぽや桃色の虹、白いネズミや天使のような子ども、生田町の描写から、世界は決して悪いものではなく、あたたかく優しいものである、という印象を受ける。 桃色の虹と共に久野が見えなくなるという稲子の病気も、それ自体は悪いものでは無い、と示唆しているような気がする。 人間の欲や常識は、特殊な事象を悪いもの、病気、気違いと決めてしまう。 しかし、それは人知を超えている、というだけであるのだ。 ありのままの世界を美しく描く文章を読んでいると、それと対比された人間の思考の弱さのようなものを感じる。 欠視性の稲子結婚しようとする久野の気持ちには、純粋な面とエゴの面とが感じられる。 決してそのままの稲子を受け入れようとしているのではなく、稲子を「治そう」としている時点で、彼女と真っ直ぐに対峙しようとしていないように思える。 また、稲子自身の意志があまり描かれていなかったので、私にはそこが気になった。
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川端康成 「たんぽぽ」これから物語が大きく展開しようとした矢先に絶筆未完となった小説。残念でならない 伏線の数々 *稲子や魔界の西山老人により どう展開させるのか *人体欠視症から見える欠落と存在の関係性 *狂気と「たんぽぽ」の対称性、魔界と妖精の対称性 *将校だった父の死...
川端康成 「たんぽぽ」これから物語が大きく展開しようとした矢先に絶筆未完となった小説。残念でならない 伏線の数々 *稲子や魔界の西山老人により どう展開させるのか *人体欠視症から見える欠落と存在の関係性 *狂気と「たんぽぽ」の対称性、魔界と妖精の対称性 *将校だった父の死 に対する生きている家族の悲しみ *稲子の撞く鐘の音は 稲子の命?稲子の叫び? *久野=著者?死についての久野の言葉(人間の死は〜生きている人間の力のそとにある)は 著者の言葉? 未完ではあるが、川端康成の小説は モチーフや構想が特殊かつ多彩であり、文体のバリエーションも多く、物語の中に組み込まれた著者の文学的主題に一貫性があり読みやすい点から考えると、三島由紀夫や谷崎潤一郎の作品より面白いと思うのだが。あまり読まれていない理由は エロスのなさか?ノーベル賞のハードルの高さか?
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三島由紀夫が自決を果たして以来 そのショックで川端康成が少しおかしくなったのだという人もある これは、そういう時期に書かれたもの 最後の長編だが、川端も自殺してしまったために未完である 「人体欠視症」なる奇病を抱えた娘がいた それをきちがい病院に入れてきた帰りの道すがらにおいて...
三島由紀夫が自決を果たして以来 そのショックで川端康成が少しおかしくなったのだという人もある これは、そういう時期に書かれたもの 最後の長編だが、川端も自殺してしまったために未完である 「人体欠視症」なる奇病を抱えた娘がいた それをきちがい病院に入れてきた帰りの道すがらにおいて ことの是非をめぐり 娘の恋人と、娘の母親が延々と議論を行う 恋人は、病院などに入れずとも自分の愛でそれを治すと言い 母親は一種の完璧主義からくる過保護で、根治することにこだわる 「人体欠視症」とは 他人の身体の全体、あるいは一部が消えて見えるという病だ ラカンの鏡像説などを適用することで それに散文的な意味を見いだすことはできるだろう 要するに、認識にそぐわないものは見なければ良いという話である しかし書かれたまでの中で問題はむしろ 娘の病をタネにして やたら饒舌な2人の心にあるようにも思われるのだった
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人体欠視症になった稲子を精神病棟「気ちがい病院」へ送った後、その帰りでの稲子の母と稲子の恋人・久野との会話。 不穏、死と官能、色んな気配が潜む二人の会話にはずっと緊張感があって終わりが見えない。 何より精神病棟に入れられたあとの稲子の姿は全く見えないのが一番気になる。病院に送った...
人体欠視症になった稲子を精神病棟「気ちがい病院」へ送った後、その帰りでの稲子の母と稲子の恋人・久野との会話。 不穏、死と官能、色んな気配が潜む二人の会話にはずっと緊張感があって終わりが見えない。 何より精神病棟に入れられたあとの稲子の姿は全く見えないのが一番気になる。病院に送った一夜が明けた朝、どのような鐘の音が鳴るのか。不穏さしか感じられなくて、未完であることが惜しい。
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