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徳川家康の詰め将棋 大坂城包囲網 集英社新書
770円
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | 集英社 |
発売年月日 | 2009/01/21 |
JAN | 9784087204766 |
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徳川家康の詰め将棋 大坂城包囲網
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徳川家康の詰め将棋 大坂城包囲網
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商品レビュー
3.8
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関ヶ原合戦後の徳川家康の築城の動きを紹介した歴史書。NHK大河ドラマ『どうする家康』の予習になる。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えた。 方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。関ヶ原の合戦後に家康...
関ヶ原合戦後の徳川家康の築城の動きを紹介した歴史書。NHK大河ドラマ『どうする家康』の予習になる。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えた。 方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。関ヶ原の合戦後に家康が完全な天下人になったとする見方は後の時代から遡った視点である。関ヶ原の合戦後は徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であった。それを破ったのが家康である。家康は自分が生きているうちに豊臣家を屈服させようとした。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題である。 家康の思いについては二説ある。第一に家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていた。しかし、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになった。 第二に家康は徳川家の単一支配を志向していたが、関ヶ原合戦直後の情勢ではできなかった。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えたとする(安部龍太郎『徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網』集英社新書、2009年)。 方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解がある。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとする。しかし、これは該当しない。 名前は他者から認識されるために存在するものである。名前を使うことを憚る意識があるとすると、それは名前の本来的機能とは異なるものである。実際のところ、名前は落首で使われている。手取川の戦いの落首に「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」がある。これは上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めているが、どちらも平等に名前を呼ばれている。 「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」は、家康と秀頼の二条城会見後に出回った落首である。これは家康を貶めて秀頼を持ち上げる趣旨であるが、秀頼は名前を呼ばれている。 落首の多くは当時の教養人の書いていたものであり、単なる落書きではない。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではない。時代劇では石田三成が「内府め」、加藤清正が「治部め」と言うシーンがあるが、実際は「家康め」「三成め」と言っていた。 大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われる。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられた。表現の自由にとって暗黒時代であった。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものである。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。 鐘の銘文を撰した僧の清韓(せいかん)は隠し題の趣向を取り入れ、国家安康に家康の名を用いたということを言っている。これは藤堂高虎の陰謀による清韓のやらせとする説がある。「この鐘銘は高虎が清韓とはかって意図的に刻ませ、時期を待って問題ありと騒ぎ立てた可能性がきわめて高い」(安部龍太郎『徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網』集英社新書、2009年、153頁)。高虎は清韓を庇護し、死後に津の寺に埋葬させている。豊臣家にとって方広寺鐘銘事件は冤罪であった。 後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになった。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているだろう。家康は業績の割に人気の低い人物である。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるだろう。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせる。
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関ヶ原以降、徳川政権が大名をどこに配置したか、これを分析した書である。◇地政学的分析からすれば、当然の配慮を家康は行っていた。本書の意味はこの一言に尽きる。むしろ、その執念深さ・執拗さに、彼の政治家としての特性(よく言えば、冷徹な現実主義者ともいえるが…)がよく現れていると感じたところ。◆とはいえ、歴史(小説を含む)好きならさほど新奇な情報はなく、歴史に頓着しないなら、細かすぎる情報とも言える。二律背反と言えそうだ。
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先日、下津井でタコ飯やアナゴ飯などの昼食を食べました。(食べ過ぎ!)山上に下津井城があることは知っていましたが、残念なことに町内の団体旅行でしたので、登城できませんでした(T_T)。本書を読んで下津井城の軍事的重要性を知り、是非再訪したいと思いました。 本書の内容は関ヶ原の合...
先日、下津井でタコ飯やアナゴ飯などの昼食を食べました。(食べ過ぎ!)山上に下津井城があることは知っていましたが、残念なことに町内の団体旅行でしたので、登城できませんでした(T_T)。本書を読んで下津井城の軍事的重要性を知り、是非再訪したいと思いました。 本書の内容は関ヶ原の合戦(1,600年)から大坂冬の陣(1,614年)、夏の陣(1,615)までの間、徳川家康が構築した大坂城包囲網の城を巡る紀行文です。伏見城、姫路城、今治城、甘崎城、下津井城、彦根城、丹波篠山城、名古屋城、伊勢亀山城、津城、伊賀上野城と続きます。実際に著者が訪ねたもので、読みやすくまたお城巡りが楽しくなりそうです。
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