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徳川家康の詰め将棋 大坂城包囲網 の商品レビュー

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7件のお客様レビュー

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2023/11/19

関ヶ原合戦後の徳川家康の築城の動きを紹介した歴史書。NHK大河ドラマ『どうする家康』の予習になる。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えた。 方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。関ヶ原の合戦後に家康...

関ヶ原合戦後の徳川家康の築城の動きを紹介した歴史書。NHK大河ドラマ『どうする家康』の予習になる。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えた。 方広寺鐘銘事件は卑怯な言いがかりであり、徳川家康の汚点になった。関ヶ原の合戦後に家康が完全な天下人になったとする見方は後の時代から遡った視点である。関ヶ原の合戦後は徳川と豊臣が併存する二重公儀体制であった。それを破ったのが家康である。家康は自分が生きているうちに豊臣家を屈服させようとした。それが難癖の背景であり、豊臣よりも徳川の問題である。 家康の思いについては二説ある。第一に家康自身も当初は二重公儀体制で良いと思っていた。しかし、後から心変わりして、豊臣家を屈服させるか滅ぼすかしないといけないと考えるようになった。 第二に家康は徳川家の単一支配を志向していたが、関ヶ原合戦直後の情勢ではできなかった。時間をかけて豊臣恩顧の大名の力を弱め、大阪城包囲網を築くことで豊臣家と戦争できる実力を蓄えたとする(安部龍太郎『徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網』集英社新書、2009年)。 方広寺鐘銘事件が家康の完全な言いがかりではなかったとする見解がある。当時は名前を使うことを憚る意識があり、それにも関わらず大阪側が意識的に使用していたとする。しかし、これは該当しない。 名前は他者から認識されるために存在するものである。名前を使うことを憚る意識があるとすると、それは名前の本来的機能とは異なるものである。実際のところ、名前は落首で使われている。手取川の戦いの落首に「上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長(信長)」がある。これは上杉謙信を持ち上げて、織田信長を貶めているが、どちらも平等に名前を呼ばれている。 「御所柿は独り熟して落ちにけり木の下に居て拾う秀頼」は、家康と秀頼の二条城会見後に出回った落首である。これは家康を貶めて秀頼を持ち上げる趣旨であるが、秀頼は名前を呼ばれている。 落首の多くは当時の教養人の書いていたものであり、単なる落書きではない。当時も名前は他者から認識されるために使われており、絶対のタブーというものではない。時代劇では石田三成が「内府め」、加藤清正が「治部め」と言うシーンがあるが、実際は「家康め」「三成め」と言っていた。 大阪側が意識的に使用したとして、だから家康の言いがかりを理由あるものとするか。そこは見識が問われる。後の江戸時代は蚊がぶんぶん五月蝿いと詠んだら(世の中に蚊ほどうるさきものは無し ぶんぶといふて夜も寝られず)、政権を批判したと目をつけられた。表現の自由にとって暗黒時代であった。権力が「このように解釈できる」と言いがかりをつけることは危険極まりないものである。現代でも権力者が不快感を持つからと言葉を選ぶヒラメ公務員的な忖度社会を是とするか。 鐘の銘文を撰した僧の清韓(せいかん)は隠し題の趣向を取り入れ、国家安康に家康の名を用いたということを言っている。これは藤堂高虎の陰謀による清韓のやらせとする説がある。「この鐘銘は高虎が清韓とはかって意図的に刻ませ、時期を待って問題ありと騒ぎ立てた可能性がきわめて高い」(安部龍太郎『徳川家康の詰将棋 大阪城包囲網』集英社新書、2009年、153頁)。高虎は清韓を庇護し、死後に津の寺に埋葬させている。豊臣家にとって方広寺鐘銘事件は冤罪であった。 後の戊辰戦争は関ヶ原の西軍による徳川への復讐戦のようになった。ここには方広寺鐘銘事件の卑怯な言いがかりへの反感も影響しているだろう。家康は業績の割に人気の低い人物である。そこには方広寺鐘銘事件のマイナスイメージがあるだろう。人々の記憶に卑怯者と刻まれては歴史上の業績も色あせる。

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2017/01/12
  • ネタバレ

※このレビューにはネタバレを含みます

関ヶ原以降、徳川政権が大名をどこに配置したか、これを分析した書である。◇地政学的分析からすれば、当然の配慮を家康は行っていた。本書の意味はこの一言に尽きる。むしろ、その執念深さ・執拗さに、彼の政治家としての特性(よく言えば、冷徹な現実主義者ともいえるが…)がよく現れていると感じたところ。◆とはいえ、歴史(小説を含む)好きならさほど新奇な情報はなく、歴史に頓着しないなら、細かすぎる情報とも言える。二律背反と言えそうだ。

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2015/07/04

 先日、下津井でタコ飯やアナゴ飯などの昼食を食べました。(食べ過ぎ!)山上に下津井城があることは知っていましたが、残念なことに町内の団体旅行でしたので、登城できませんでした(T_T)。本書を読んで下津井城の軍事的重要性を知り、是非再訪したいと思いました。  本書の内容は関ヶ原の合...

 先日、下津井でタコ飯やアナゴ飯などの昼食を食べました。(食べ過ぎ!)山上に下津井城があることは知っていましたが、残念なことに町内の団体旅行でしたので、登城できませんでした(T_T)。本書を読んで下津井城の軍事的重要性を知り、是非再訪したいと思いました。  本書の内容は関ヶ原の合戦(1,600年)から大坂冬の陣(1,614年)、夏の陣(1,615)までの間、徳川家康が構築した大坂城包囲網の城を巡る紀行文です。伏見城、姫路城、今治城、甘崎城、下津井城、彦根城、丹波篠山城、名古屋城、伊勢亀山城、津城、伊賀上野城と続きます。実際に著者が訪ねたもので、読みやすくまたお城巡りが楽しくなりそうです。

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2012/08/31

我々は歴史を知っているので、関が原の戦いに勝利した徳川家康が大阪冬・夏の陣で豊臣方を倒して江戸幕府を簡単に構築したと思っていますが、本当は徳川家康も苦労していたようです。特に、劣勢だった時期があったとは驚きでした。負けた側から見た歴史は埋もれてしまうことが殆どなので、この本によっ...

我々は歴史を知っているので、関が原の戦いに勝利した徳川家康が大阪冬・夏の陣で豊臣方を倒して江戸幕府を簡単に構築したと思っていますが、本当は徳川家康も苦労していたようです。特に、劣勢だった時期があったとは驚きでした。負けた側から見た歴史は埋もれてしまうことが殆どなので、この本によってそれらが垣間見れたのは楽しみでした。 以下は気になったポイントです。 ・家康は関が原の戦いに勝った後も、豊臣家の大老という立場でしか戦後処理ができなかった、征夷大将軍になっても1611年に秀頼に臣下の礼をとらせるまでは表向きは家康は豊臣家の家臣であった(p9) ・大阪城には、夏の陣後にも、焼け跡から金:2万8千枚、銀:2万4千枚が発見され、豊臣家の経済力は凄かった(p10) ・秀頼が成長して朝廷から徳川家討伐の勅命を受けた場合、家康は朝廷と主君という合体した権威には立ち向かうことはできなかった(p11) ・鳥居元忠(兵1800)は秀吉が築いた伏見城で、西軍4万の兵を相手に10日間耐え抜いて玉砕した、元忠は関が原の戦いの勲功第一とされた(p23) ・大阪夏の陣において天皇は何度も和議をすすめたが、家康はこれを無視して豊臣家を滅ぼした、朝廷と豊臣家のつながりの強さに危機感・嫌悪感を抱いていたから(p109) ・豊臣家は秀吉のころから、硝石・生糸を輸入するためにスペインと友好関係を持っていた、家康が島津家久が琉球攻略を容認したのは、フィリピン拠点とするスペインの進攻に備えた可能性あり、家康がスペインと敵対しているオランダをオランダを優遇したのは、スペインの影響力を弱めるため(p110) ・家康は西国大名に城の工事を命じたが、戦いの最前線となる「三の丸」の工事にはタッチさせなかった(p142) ・豊臣家の力を弱めるために家康が着手しようとしたことは、1)豊臣家を他国へ転封し、大阪商人との関係を絶って経済力を弱める、2)キリシタン勢力、スペインとの関係を弱める、である(p149) ・東国と畿内の政争がおこった場合、かならず合戦の舞台となる重要な地は、関が原・亀山である、関が原は、壬申の乱・南北朝の戦い(北畠vs室町幕府軍)・関が原の戦いがある、亀山は、賤ヶ岳の戦いや関が原の戦いでも重要な地点となっている(p160) ・関が原の戦いは、秀吉の死後において、豊臣政権の中央集権策(年貢・人員の収奪、農民の逃散)を維持しつづけるか、諸大名に権限委譲して地方分権するかの是非をめぐって引き起こされたものと考えられる(p195)

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2012/07/31

関が原から始まる家康の勝負。詰みとなるまでの緻密な計算、周辺武将の葛藤が城をモチーフに順々に語られる。

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2009/10/04

そんなに面白くはない。 どちらかというと紀行文的な要素が強いか。 歴史を少し知っていれば付随の歴史的経緯やエピソードは知っているはず。

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2013/09/11

2009/2/28 メトロ書店御影クラッセ店にて購入。 2013/9/7〜9/11 関ヶ原後の家康の考えが非常に良くわかる。これまでここに書かれている視点で観たことは無かったが,ここに書かれた城の造りや廃城になった経緯などを見ると,非常に納得できる説である。よく言われるように,...

2009/2/28 メトロ書店御影クラッセ店にて購入。 2013/9/7〜9/11 関ヶ原後の家康の考えが非常に良くわかる。これまでここに書かれている視点で観たことは無かったが,ここに書かれた城の造りや廃城になった経緯などを見ると,非常に納得できる説である。よく言われるように,豊臣家を滅ぼしたのは徳川ではなく,淀殿だったのだなぁ。

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