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共通感覚論 岩波現代文庫 学術1
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共通感覚論 岩波現代文庫 学術1

中村雄二郎(著者)

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共通感覚論 岩波現代文庫 学術1

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 岩波書店/岩波書店
発売年月日 2000/01/14
JAN 9784006000011

共通感覚論

¥1,694

商品レビュー

3

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2025/03/11

2025年3月11日、グラビティで京大医学部目指してて京大理学部合格したと報告してる高三の男子が投稿してた。「最近読みたい本は中村雄ニ郎の共通感覚論」

Posted by ブクログ

2020/03/22

「コモン・センス」という言葉を習ったのは、確か世界史の授業だった。 それは〈常識〉のことだと覚えていたのだが、今になって〈共通感覚〉と結び付いてくるとは思わなかった。 きっかけは、梶井基次郎の「檸檬」に始まる。 現実と透かし合わせるように、感覚を重ねた世界に身を浸してゆく主人公...

「コモン・センス」という言葉を習ったのは、確か世界史の授業だった。 それは〈常識〉のことだと覚えていたのだが、今になって〈共通感覚〉と結び付いてくるとは思わなかった。 きっかけは、梶井基次郎の「檸檬」に始まる。 現実と透かし合わせるように、感覚を重ねた世界に身を浸してゆく主人公を、改めて見つめた時、この『共通感覚論』の一節が想起されたのだった。 私たちは視覚優位の世界にいながらも、一つの物事に対して一つの感覚を用いているわけではない。 空間感覚や時間感覚もまた、感覚である。 こう考えていくと、自分と他者という存在の認識にも、こうした感覚が働いているのだろうなということは分かる。 筆者は敢えて深く触れずにいる「共感覚」も、人と人の間に起こる重要な感覚だと言える。 言葉が、それがあることによって物事を認知できるように、感覚もまた、それがあることで生きていることを認知させる。 それが、「共同体の判断基準」たる常識に結び付いてくるところが面白い。 稚拙な読み取りしか出来なかった点が悔しい。

Posted by ブクログ

2012/02/05

雄二郎のことはけっこう気にかかってはいた。彼は「臨床の知」なる概念を提唱していたからである。つまり、病気と呼ばれるものに対して、科学的客観的に判断して投薬治療などを加える精神医療に対して、いわゆる患者が抱えている問題に対して、その患者の視点で捉えていくという、カウンセラーや心理療...

雄二郎のことはけっこう気にかかってはいた。彼は「臨床の知」なる概念を提唱していたからである。つまり、病気と呼ばれるものに対して、科学的客観的に判断して投薬治療などを加える精神医療に対して、いわゆる患者が抱えている問題に対して、その患者の視点で捉えていくという、カウンセラーや心理療法の礎のような考えを広く提唱した人物なのであるが、それと本著の内容はまるで関係なかったりもする。 本著で分析されるのは「共通感覚」である。似た名前に共感覚というものがあるがこれとは違う。後者は、感覚器官が在る意味ばくっているといった感じで、文字を読んで色のイメージがわくといった形である。個人的にはたまーにそういう経験があるのだけど、共感覚者はそれがいつもらしい。だが、共通感覚は少し違う。この共通感覚ってやつは、コモンセンスとかセンスコムーニスとか呼ばれているが、現代的な意味で訳すときには、「常識」となる。要するに、コモンセンスには二つ意味があり、一つ目が「常識」で二つ目が「共通感覚」なのである。常識は、まあ、いいだろう。これは非常に実践的な概念で、キケロがその親の存在であるという。キケロとは、ストア派の時代にいた人物であるが、彼は非常に「実践性」を推すのである。堅苦しい理論よりは実践性を尊んだ人物である。で、もう一つが「共通感覚」である。共通感覚っていうのは、つまり、個人に対してかつ、集団に関しての共通という二重の共通性があるように個人的には感じられる。個人に対しての共通というのは、「すべての感覚の基礎にある」感覚といった意味合いである。これは現代的には「視覚」として考えられがちだが、しかし、著者はここで「触覚」の重要性を提唱する。確かに一見視覚が優位に見えるが、視覚ではものを真には感じられないのではないか?つまり、視覚によってわれわれの感覚は順序付けられるのだが、それは表面的なものであり、その前に裏方的な礎として働いているのは、触覚などの「体性感覚」であるというのが著者の主張である。で、これは個人的な共通性なのだけれども、実はこれが個人を超えて集団においても共通しているのである。これはフッサールの言うところの相互主観性とでも呼ぶべきものなのだろう。 ちなみに、精神病理学者の、木村が解説を書いているのだが、この論点が木村にかなりの影響を与えている。つまり、分裂病者はこの共通感覚が崩れてしまったのではないか?だから、個人内における感覚が共通性を失い調和がとれない上に、それが相互主観的に一定の合致を示すということへも実感がもてなくなる。だからこそ、世界から分離してしまったような違和を感じることになる。それは、つまり、世界の中において、自分という「場所」=「トポス」を失ってしまったということである。その場所というのは、つまり、主語であるところの自分にあれこれ納まってくるはずのが述語の収納所である。その場所がわからなくなるせいで、うまく述語が収まらず自分がいまいち自分であるという感覚がつかめなくなる、わけである。と木村にシフトしてしまったが、中村⇔木村がリンクするこの部分が本著の最大の魅力だと思われる。

Posted by ブクログ