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村上春樹全作品 1990~2000(7) 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく
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村上春樹全作品 1990~2000(7) 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく

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村上春樹全作品 1990~2000(7) 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく

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商品詳細

内容紹介 内容:約束された場所で. 村上春樹、河合隼雄に会いにいく
販売会社/発売会社 講談社
発売年月日 2003/11/20
JAN 9784061879478

村上春樹全作品 1990~2000(7)

¥3,300

商品レビュー

4.6

10件のお客様レビュー

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2025/11/18

アンダーグラウンドに続いて、今度はオウム真理教信者へのインタビューをした「約束された場所で」を読んだ。 自分でもなんでこれにこだわって読んでいるのか分からないのだが、野次馬的な気持ち以上に、自分の知りたいことが書いてあるような期待を持って読んだ。 読んだら、分かる気がするような気...

アンダーグラウンドに続いて、今度はオウム真理教信者へのインタビューをした「約束された場所で」を読んだ。 自分でもなんでこれにこだわって読んでいるのか分からないのだが、野次馬的な気持ち以上に、自分の知りたいことが書いてあるような期待を持って読んだ。 読んだら、分かる気がするような気持ちが書かれていて、自分も時が違えば、オウム真理教に興味を持ったのかもしれないと思った。自分が社会に感じている何かと、オウム真理教に帰依していった人たちが社会に感じていた何かは、そんなに遠いものではなくて(むしろ近い)、その違和感みたいなものから訣別したくて彼らは現世から遠のいていった。だからなんか、わかる気がした。 でも今書いていて思ったけど、だからこそ、自分との違いを見つけたような気もする。私は違和感のあるその場所から遠のくことを拒んでいるように思う。それがいいとか悪いとかではなくて、そのまま遠のくことがなんか悔しいのだ。遠のかないとしんどいこともあるだろうと思うし、合わないところにずっといる必要もないと思う。でもそこで自分を変えたり、その違和感の中で逆に自分を貫いたり、とにかくその違和感を自分の中に引き受けて、自分が居心地良く感じられるところで折り合いをつけたい欲望がどこかにある。でもそれは、大きなシステムに飲み込まれることとほとんど紙一重で、それに気づくと苦しかったりもする(飲み込まれたくないものだから)。さっさと離脱したら、そりゃ楽なんだろうと思うけど、でもなんかそうしたくないのだ。なんで、そうしたくないんだろう。たぶんひとりぼっちになりたくないのと、それから、これも今書いていて思ったけど、自分の予測のつかないことがあることが、どこかで、面白いと思っているからな気がする。

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2022/03/19

「ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。」(p321) 「でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさにあると思うのです。そ...

「ひとつ確認しておきたいのは、欠落そのものは人間存在にとって決してネガティブなものではないということです。欠落部分というのはあって当然です。」(p321) 「でも僕は小説の本当の意味とメリットは、むしろその対応性の遅さと、情報量の少なさと、手工業的しんどさにあると思うのです。それを保っている限り、小説は力を失わないのではあるまいか。(p331) とても久しぶりに村上春樹を読みました。映画きっかけでしたが、とても有意義な出会いでした。 村上さんに興味が湧いて、村上ラジオを初めて聴きました。村上さんはスティービーワンダーと同い年なんだって。

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2020/09/25

村上春樹全作品 1990~2000 第7巻 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく (和書)2008年12月25日 23:25 2003 講談社 村上 春樹 宗教と宗教批判について考えさせられました。マルクスが言う宗教批判とオウム真理教という宗教を照らし合わせるとそ...

村上春樹全作品 1990~2000 第7巻 約束された場所で 村上春樹、河合隼雄に会いにいく (和書)2008年12月25日 23:25 2003 講談社 村上 春樹 宗教と宗教批判について考えさせられました。マルクスが言う宗教批判とオウム真理教という宗教を照らし合わせるとそこにみられる差異がクローズアップされる。イエスにはマルクスがいう宗教批判があったのではないか?麻原彰晃にはそこが本質的に違うものに入れ替わっているように感じた。 マルクス著「ヘーゲル法哲学批判序説・抜粋」 「宗教の批判は、人間が人間にとって最高の存在であるという教えでもって終る。したがって、人間が貶められ、隷属させられ、見捨てられ、蔑視された存在となっているような一切の諸関係 - 畜犬税の提案にさいして、或るフランス人が「あわれな犬よ、おまえたちを人間並みにしようというのだ!」と叫んだ言葉でもっともみごとに描きだされているような諸関係 - をくつがえせという無条件的命令をもって終るのである。」 批判と救済・癒し・・・。宗教批判と宗教とは何か?救済・癒しという口当たりに良い言葉があるがそれは何なのだろうか? 生贄の論理・支配者の論理・・・批判すること自由・倫理を見いだすこと・・・それを隠蔽してしまうのではないかを思う救済・癒し。私は癒しという言葉が胡散臭くて仕方がない。でも癒しが人間にとって大きな影響を与えているのも確かだろうと思う。宗教批判と癒しがどこで結びつくのか?それは宗教批判が宗教と何処で結びつくのかという疑問を与えられる。 癒しとは阿片のことであるのかも知れない。マルクスは「宗教は民衆の阿片である」と言ったらしい。柄谷行人はそれは「そういうものがないとやっていけないどうしようもない現実がある。それをみなければならない。現実批判に転化しなければならない。」というらしい。私は癒しを胡散臭くて嫌いだと言ったが、しかしそれは阿片であり宗教であるのだろう。それならば現実批判とは何か?それは宗教批判というものも含まれるのだろうと思う。それは諸条件をくつがえせという無条件的命令を言っているのだろう。オウム真理教を宗教批判とをいう理念でみないと自由はないと思う。そして無条件的命令とは倫理ではないのか? 批判と癒しが結びつくとしたら宗教批判・現実批判と宗教・阿片ということになりそうだ。 今後の課題だろうと思う。事前の立場に立つこと統整的理念とは癒し批判であり阿片批判であり宗教批判であるのだと思う。

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