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漢字と日本人 文春新書
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漢字と日本人 文春新書

高島俊男(著者)

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漢字と日本人 文春新書

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商品詳細

内容紹介
販売会社/発売会社 文藝春秋
発売年月日 2001/10/20
JAN 9784166601981

漢字と日本人

¥990

商品レビュー

4

56件のお客様レビュー

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2010/05/28

著者は、もともと日本…

著者は、もともと日本語を学ぶ外国人のために書いたそうです。しかしそれが図らずも、日本人が漢字との付き合い方を考え直すための根本文書です。「とる」を「取る」「撮る」「摂る」「盗る」「獲る」「執る」「採る」「捕る」などと書き分けることの無意味さを知らされ、さりとて漢字との決別はできな...

著者は、もともと日本語を学ぶ外国人のために書いたそうです。しかしそれが図らずも、日本人が漢字との付き合い方を考え直すための根本文書です。「とる」を「取る」「撮る」「摂る」「盗る」「獲る」「執る」「採る」「捕る」などと書き分けることの無意味さを知らされ、さりとて漢字との決別はできないことがわかります。

文庫OFF

2010/05/28

日本語は特殊な言葉だ…

日本語は特殊な言葉だと聞くことが多いが、自分は「そういうのってアレでしょ、『個性的な自分』とかの延長で『個性的な日本』と思いたいだけでしょ(笑)」とバカにしていたのだが、どうもある意味において日本語は本当に特殊らしいのである。特殊どころか「奇形」であるようなのだ、自己を記述する文...

日本語は特殊な言葉だと聞くことが多いが、自分は「そういうのってアレでしょ、『個性的な自分』とかの延長で『個性的な日本』と思いたいだけでしょ(笑)」とバカにしていたのだが、どうもある意味において日本語は本当に特殊らしいのである。特殊どころか「奇形」であるようなのだ、自己を記述する文字との関係が。 そして、日本語はどう奇形なのか?我々はそれとどのようにつきあっていくべきなのか? それをこの本は示している。また、日本語の音標文字化(と、それに伴う漢字廃止運動)について詳しく説明が

文庫OFF

2025/02/05

タイトルは「漢字と日本人」だが、どちらかというと「漢字と日本語」かなという印象。 著者は中国文学者だが、一般にはエッセイストとしての方が知られているのではなかろうか。週刊文春で「お言葉ですが・・・」のタイトルのエッセイを長年連載していた。結構辛口、スパッと物言う歯切れよさ、ちょ...

タイトルは「漢字と日本人」だが、どちらかというと「漢字と日本語」かなという印象。 著者は中国文学者だが、一般にはエッセイストとしての方が知られているのではなかろうか。週刊文春で「お言葉ですが・・・」のタイトルのエッセイを長年連載していた。結構辛口、スパッと物言う歯切れよさ、ちょっと変わった視点、という趣のエッセイだったかと思う。21年に亡くなっている。 本書は20年以上前の著作だが、SNSで話題になっていたようで、私もどこかで見かけて図書館で予約した。 比較的硬いテーマだが、読みやすさにやや面食らう。口が悪いが話がおもしろい先生が、悪口込みで滔々としゃべり続けているような感じ。 日本語は歴史の途上で漢字を取り入れたのだが、実際のところ中国語と日本語は文法も異なれば発音も異なる。異なる体系のものを取り入れたことで、歪みが生じた。 日本語の熟語は同音異義語が多いが、話し言葉で使用するとき、日本人はうっすらと漢字を思い浮かべているのだという。話し手と聞き手の思い浮かべる漢字が同じであれば問題はないが、そうでないとおかしなことになる。「カテーノモンダイ」と言ったときに、「仮定の問題」のつもりだったのに「家庭の問題」と受け取られたら、意味がまったく変わってしまう。なぜそんなおかしなことになっているかというと、1つには日本語の発音の単純さがある。中国語では違う音で読む漢字(工、口、交、甲、高、好、校・・・)などが、日本語では同じ音(コー)で読むことになる。また、日本語の熟語は中国語からそのまま持ってきたのではなく日本独自に作られたものが思いのほか多い。西欧から入ってきた言葉に対しても、新語として訳語が作られたり、古くからあった言葉が別の意味を持たされて使用されたりするようになる。元々の大和言葉にこうした外国由来の言葉が組み合わされ、事態はさらにごちゃごちゃになってしまう。 明治期には西欧への傾倒から、日本語ではなく英語やフランス語で読み書きすべきという主張が出てきたりもする。 第二次世界大戦後は国語改革の嵐が吹き荒れる。やれ使用してもよい漢字を減らそう、やれ字体を簡略化して統一しよう。結果、一部のみをひらがなで表記する言葉(ほ乳類、は虫類など)も出てきてしまう。傳、轉は、伝、転と書くようになり、團は団と書くようになったが、これらに共通であった「專」は「まるい」「まるい運動」を表す言葉で、すべて家族のようなものだった。しかし、字体が変わってしまうと、伝と団が同じルーツを持つと言われてもわからない。單、榮、學の上部はそれぞれ異なるのだが、新字体ではいずれも「⺍」となり、あたかも関係があるように見えてしまう。 漢字が入ってきたことにより、そしてそれを取り入れたことにより、日本語はややこしさを孕む言語になってしまったわけだが、だからといって漢字を使わないというのも今更無理な話である。 矛盾を内包したまま、やっていくしかないだろうというのが著者の意見である。

Posted by ブクログ