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室町の王権 足利義満の王権簒奪計画 中公新書978
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商品詳細
| 内容紹介 | |
|---|---|
| 販売会社/発売会社 | 中央公論社 |
| 発売年月日 | 1990/07/25 |
| JAN | 9784121009784 |
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室町の王権
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p.218 「王権の交替という現象を世界史的にみれば、多くは、民族間の対立抗争が契機をなし……、……前近代における外民族侵入による戦争が……数えるほどのわが国の場合、王朝交替が起こり得るとすれば、それは……宮廷革命があり得る唯一のケースといってよかろう。」 p.219 「しかし、...
p.218 「王権の交替という現象を世界史的にみれば、多くは、民族間の対立抗争が契機をなし……、……前近代における外民族侵入による戦争が……数えるほどのわが国の場合、王朝交替が起こり得るとすれば、それは……宮廷革命があり得る唯一のケースといってよかろう。」 p.219 「しかし、要するに『天皇に取って替わろうとする』行為は、種々の制約・条件が揃っている場合に限定され、……『なろうと欲すれば、いつでも天皇になれた』ような安易なことではない、ということだけは、御理解いただけるのではなかろうか。」 すごく入り組んでいて且つ深い問題なのに、すごくわかりやすかった。 足利義満が天皇に取って代わって日本の絶対君主になろうとした顚末を通じ、天皇の本質に迫ろうとする内容。
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歴史の中で、なぜ、天皇制が維持できたのか、の問いに答えるもの。歴史上、天皇制存続の危機となったの足利義満の治世の時期。 そこで具体的に何が起こったのか、その背景含めて詳細に触れられており参考になる。 以下引用~ ・官位というのは、中・近世を通じ、また公武を問わず地位身分を律令の...
歴史の中で、なぜ、天皇制が維持できたのか、の問いに答えるもの。歴史上、天皇制存続の危機となったの足利義満の治世の時期。 そこで具体的に何が起こったのか、その背景含めて詳細に触れられており参考になる。 以下引用~ ・官位というのは、中・近世を通じ、また公武を問わず地位身分を律令の官職体系の上にランク付ける制度であって、天皇制度とともに維持されてきた面をもっている。中国では、かかる官職制度は王朝交替ごとに改変されるのだが、わが国では八世紀に確立したこの体系が、千年以上も連綿として用いられてきた点、諸外国にも例をみない特殊な構造をもつといえよう。それが天皇制度と運命をともにしてきたという点でも、いわゆる「天皇制」の裏側そのものとって大過なかろう。 ・天皇家を乗っ取るためには、その前提として「王法・仏法は車の両輪」とうたわれた仏教界を牛耳っておかねばならない。そのためには各宗の最高僧官である門跡のポストに一族を送り込むのが早道である。恐らくそういったシナリオのものに、義満は一族入室に着手するのである。 ・義満の立場で”司祭王”の地位に昇るとすれば、おのずから司祭に似合うスタイルを整えねばならない。応永二年(1395年)六月、義満が辞官出家した理由の一斑は、この司祭王へ脱皮するためであったろうと推測される。 ・ともあれ起草が公卿から禅僧へ代わったことは、外交事務が完全に幕府の手に移ったことを意味し、朝廷、ひいては天皇にあった形式的外交権をも、最終的に手放したことを意味するといえよう。 ・この応永九、十年の外交交渉によって日中の公式な国交(平等ではない)が成立し、日本は明を盟主とする東アジアの柵法体制の中に入った。 その見返りとして莫大な貿易の利益があり、義満が明帝から頒賜された何万貫という銭貨があった。 ・・・ 結果的に明らかの私鋳銭をも含めての銭貨の大量輸入によって、室町期のわか国は、明銭が公定貨幣として流通した。 ・輸入品の工芸品などを通じて上流階層の唐物崇拝、舶来品尊重のムードはいやが上にも高まる。明銭の伝播力によって貨幣とともに義満の権威が津々浦々に及ぶという仕かけである。 ・もちろん、義持の個人的事情として、亡父義満の生前、父より疎外されていたことに対する反発が、父の死後”天の邪鬼”的な政策変更をとらせたという傾きも軽視できない。 ・有力守護クラスの思惑は? 一つは、ことに斯波氏は、足利氏の下風に立つことを潔しとはしなかったくらいプライドの高い一門守護であり、本来、足利氏とは対等に近い意識をもち続けていたから、足利氏の”絶対主義”には、まっ先に反対しなければならない立場にあった。 ・義教はこれに対し、恐怖政治と徹底的な弾圧をもって臨んだ。父義満の手法であった懐柔と権威をもって臨むやり方とは正反対のいき方である。 ・いったい室町幕府にとっての綸旨とは、たとえは悪いが日本銀行による国債引き受けのようなもので、発給すれば、当面の効果は大きいが、同時に幕府の権威の低下につながるという、いわば阿片のような麻薬に似た存在である。 ・嘉吉の乱後の一連の動きは、天皇家が世俗的権力はおろか、叙任権・祭祀権すら失っていても、「権威」的存在として生きていける道があることを証明した。 このような時期に、和漢の学に通暁した後花園という人物を擁していたことは、天皇家側にとって大きかった。 ・そもそも秀吉が、博多での第一次キリシタン禁制のとき、「日本は神国たるところ」と宣言したことは周知の事実だが、「日本は神国」といった時点ですでに秀吉は”天皇制”の呪縛(共同幻想といってもよい)にからまっていたといったらいいすぎであろうか。
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足利義満の失敗した王位簒奪計画。 義満の反対勢力は、意外なことに、宮廷ではなく、家臣団だった。 義満は皇胤、それ故に足利家を天皇家にしようとした、というのが著者の見立てだ。
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