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きらめく拍手の音 手で話す人々とともに生きる
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商品詳細
内容紹介 | |
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販売会社/発売会社 | リトル・モア |
発売年月日 | 2020/12/02 |
JAN | 9784898155325 |
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韓国の聴覚障害者の両親のもとに生まれたコーダの方が書かれた本。 著者の方の行動力に驚かされる部分が多い。けれど、誰よりも早く大人になってしまった、という著者の生い立ちを思えば、その行動力を発揮せざるを得ない社会のありようが浮き彫りになっている。とも言える。 国は違えど日本の聴覚障...
韓国の聴覚障害者の両親のもとに生まれたコーダの方が書かれた本。 著者の方の行動力に驚かされる部分が多い。けれど、誰よりも早く大人になってしまった、という著者の生い立ちを思えば、その行動力を発揮せざるを得ない社会のありようが浮き彫りになっている。とも言える。 国は違えど日本の聴覚障害者の方々の文化について調べている最中に読んだ話と重なるぞ……というエピソードが多く、興味深かった。 日本の読者向けに書かれた、日本で映画を公開したエピソードのあたりから始まる、異なる文化のフレームの中で「私」になれた、という話がものすごく良かった。 乱暴に拡大解釈してしまえば、文化の違いに留まらず、自分と他者が出会うとき全般に言える話だと思う。忘れずに胸に留めて咀嚼し続けていきたい、とても考えさせられる言葉だった。
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韓国のドキュメンタリー映画監督のエッセイ イギル・ボラさんは、両親がろう者である、子どもである 本人と弟には、聞こえに障害がない つまりCODAである。 日本でも、そうであるように、韓国でもコーダという名前がようやく浸透しはじめているところ。 わたしは、このコーダという名称が...
韓国のドキュメンタリー映画監督のエッセイ イギル・ボラさんは、両親がろう者である、子どもである 本人と弟には、聞こえに障害がない つまりCODAである。 日本でも、そうであるように、韓国でもコーダという名前がようやく浸透しはじめているところ。 わたしは、このコーダという名称があるということから、逆に「ろう文化」というものがあるということを知った。 目が見えないことと違って、聞こえないということについて、障害の程度はつらくないのではないか……と、ずっと思っていた。 なぜなら「読める」から。 でも、そうではないということを知る。 言葉というものは、読むという行為からだけではなく、様々な場面から「自然に」聞いて覚え、理解し、身に着けていくものなのだ。 聞こえないということは、意図的に自分で採取しない限り、言葉は増えていかないということになる。 ろう者は、音声言語ではなく、手話(この本では主語)を使うことがある(使わない人もいる) この手話は、各国、各地域で細かく「方言」がある。 そして、同じ日本国内にいても、日本語とは別の言語である。 ということを、理解することから、コーダの世界を理解することが始まる。 彼らは、生まれながらにして、2つの文化を行き来する人となる。 また、どちらにも完全に所属していると思えないという、半端なアイデンティティーを抱えることになる。 親とは違う言語を使う国に移民した子どもととても立場が似ている。 また、この本の舞台が韓国であるということ、長子で女性であるということもとても大きなファクターになっていると思う。 日本と同様に、もしかしたらそれ以上に「女性であること」が時として、ハンディになる国で、さらにハンディを生まれながらにして追っている人が、いかにサバイブしていくかの物語とも読める。 アメリカのろう者のためのぎゃろーデッド大学に行った時の下りがとても良いと思った。 一つの文化として、認められ、学術的に研究されているということの大切さを自分事として感じること。 自分が所属する文化が認められるということは、自分自身が認められるということに他ならない。そのことをダイレクトに感じた部分だった。
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——私が経験してきた韓国は、少し違うだけでも、お前は「私たち」に属することはできないと線を引く国だった。……彼らは自分と違う者を他者化し、自分の領域から排除した。(p.227 五章 コーダ、そして新しい始まり) 「韓国」を「日本」に置き換えても、何の違和感もない。 今、パラ...
——私が経験してきた韓国は、少し違うだけでも、お前は「私たち」に属することはできないと線を引く国だった。……彼らは自分と違う者を他者化し、自分の領域から排除した。(p.227 五章 コーダ、そして新しい始まり) 「韓国」を「日本」に置き換えても、何の違和感もない。 今、パラリンピックを控えて「共生」「多様性」「SDGs」が喧伝されているけれど、それらの多くが虚しいお題目に響いてしまうのは、私たちが私たち自身の負の記憶に向き合うことなく前に進もうとしているからだろう。 著者のイギル・ボラさんはコーダであることが「アイデンティティとなる」までにたくさんの紆余曲折を経ている。聾者である両親の耳となる、という生き方は、想像以上に重い。小学校低学年から銀行に借り入れの相談をさせられるって……。さらに、これは日本でもよく指摘されることだけれど、親が障害を持っている子どもは典型的な優等生になりやすい。ボラさんも自らにそうした生き方を課していた。いわゆる、過剰適応。ボラさんの場合、優れた知性がそこから生じる様々な精神疾患を撥ね退けているようだが、そううまくいく場合ばかりではない。人によっては幼稚園や保育園の時点で、集団への不適応を起こすこともあるようだ。そんなボラさんでさえ、映画製作というナラティブを経て、ようやく自分が何者かという輪郭を固めていっている。障害のある人とともに生きる人間としての自分、を描くことは、実は非常に大変な困難を伴う。当事者の彼女でさえそうなのに、当事者である自覚なしに生きている、私を含むその他大勢にとってはまして困難な道のりになると言わざるを得ない。 だが、足元の泥沼を顧みることなく建てられたお城に未来はない。 「共生」が決して綺麗ごとではないことを直視せずにこのまま突っ走ったとしても、その先に待っているのは、たぶん、もっと極端な黙殺あるいは無痛化した排除だろう。自分の中の偏見を洗い出し、それを黙殺せず、日々の小さな棘や引っ掛かりにアンテナを立てて生きていけるだろうか?さらに、その先へと自分の行動を変えていけるだろうか? 歩きだせば、小さな一歩かもしれない。 だが、その一歩を沼に沈めることのないよう、私は私を見張らなければならない。 なぜなら、「排除」は「自己肯定感」や「安楽」「無痛化」「最適化」に直結しやすい、最もローコストの選択肢に見えてしまう世界に私は生きているから。
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