きらめく拍手の音 の商品レビュー
韓国の聴覚障害者の両親のもとに生まれたコーダの方が書かれた本。 著者の方の行動力に驚かされる部分が多い。けれど、誰よりも早く大人になってしまった、という著者の生い立ちを思えば、その行動力を発揮せざるを得ない社会のありようが浮き彫りになっている。とも言える。 国は違えど日本の聴覚障...
韓国の聴覚障害者の両親のもとに生まれたコーダの方が書かれた本。 著者の方の行動力に驚かされる部分が多い。けれど、誰よりも早く大人になってしまった、という著者の生い立ちを思えば、その行動力を発揮せざるを得ない社会のありようが浮き彫りになっている。とも言える。 国は違えど日本の聴覚障害者の方々の文化について調べている最中に読んだ話と重なるぞ……というエピソードが多く、興味深かった。 日本の読者向けに書かれた、日本で映画を公開したエピソードのあたりから始まる、異なる文化のフレームの中で「私」になれた、という話がものすごく良かった。 乱暴に拡大解釈してしまえば、文化の違いに留まらず、自分と他者が出会うとき全般に言える話だと思う。忘れずに胸に留めて咀嚼し続けていきたい、とても考えさせられる言葉だった。
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韓国のドキュメンタリー映画監督のエッセイ イギル・ボラさんは、両親がろう者である、子どもである 本人と弟には、聞こえに障害がない つまりCODAである。 日本でも、そうであるように、韓国でもコーダという名前がようやく浸透しはじめているところ。 わたしは、このコーダという名称が...
韓国のドキュメンタリー映画監督のエッセイ イギル・ボラさんは、両親がろう者である、子どもである 本人と弟には、聞こえに障害がない つまりCODAである。 日本でも、そうであるように、韓国でもコーダという名前がようやく浸透しはじめているところ。 わたしは、このコーダという名称があるということから、逆に「ろう文化」というものがあるということを知った。 目が見えないことと違って、聞こえないということについて、障害の程度はつらくないのではないか……と、ずっと思っていた。 なぜなら「読める」から。 でも、そうではないということを知る。 言葉というものは、読むという行為からだけではなく、様々な場面から「自然に」聞いて覚え、理解し、身に着けていくものなのだ。 聞こえないということは、意図的に自分で採取しない限り、言葉は増えていかないということになる。 ろう者は、音声言語ではなく、手話(この本では主語)を使うことがある(使わない人もいる) この手話は、各国、各地域で細かく「方言」がある。 そして、同じ日本国内にいても、日本語とは別の言語である。 ということを、理解することから、コーダの世界を理解することが始まる。 彼らは、生まれながらにして、2つの文化を行き来する人となる。 また、どちらにも完全に所属していると思えないという、半端なアイデンティティーを抱えることになる。 親とは違う言語を使う国に移民した子どもととても立場が似ている。 また、この本の舞台が韓国であるということ、長子で女性であるということもとても大きなファクターになっていると思う。 日本と同様に、もしかしたらそれ以上に「女性であること」が時として、ハンディになる国で、さらにハンディを生まれながらにして追っている人が、いかにサバイブしていくかの物語とも読める。 アメリカのろう者のためのぎゃろーデッド大学に行った時の下りがとても良いと思った。 一つの文化として、認められ、学術的に研究されているということの大切さを自分事として感じること。 自分が所属する文化が認められるということは、自分自身が認められるということに他ならない。そのことをダイレクトに感じた部分だった。
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——私が経験してきた韓国は、少し違うだけでも、お前は「私たち」に属することはできないと線を引く国だった。……彼らは自分と違う者を他者化し、自分の領域から排除した。(p.227 五章 コーダ、そして新しい始まり) 「韓国」を「日本」に置き換えても、何の違和感もない。 今、パラ...
——私が経験してきた韓国は、少し違うだけでも、お前は「私たち」に属することはできないと線を引く国だった。……彼らは自分と違う者を他者化し、自分の領域から排除した。(p.227 五章 コーダ、そして新しい始まり) 「韓国」を「日本」に置き換えても、何の違和感もない。 今、パラリンピックを控えて「共生」「多様性」「SDGs」が喧伝されているけれど、それらの多くが虚しいお題目に響いてしまうのは、私たちが私たち自身の負の記憶に向き合うことなく前に進もうとしているからだろう。 著者のイギル・ボラさんはコーダであることが「アイデンティティとなる」までにたくさんの紆余曲折を経ている。聾者である両親の耳となる、という生き方は、想像以上に重い。小学校低学年から銀行に借り入れの相談をさせられるって……。さらに、これは日本でもよく指摘されることだけれど、親が障害を持っている子どもは典型的な優等生になりやすい。ボラさんも自らにそうした生き方を課していた。いわゆる、過剰適応。ボラさんの場合、優れた知性がそこから生じる様々な精神疾患を撥ね退けているようだが、そううまくいく場合ばかりではない。人によっては幼稚園や保育園の時点で、集団への不適応を起こすこともあるようだ。そんなボラさんでさえ、映画製作というナラティブを経て、ようやく自分が何者かという輪郭を固めていっている。障害のある人とともに生きる人間としての自分、を描くことは、実は非常に大変な困難を伴う。当事者の彼女でさえそうなのに、当事者である自覚なしに生きている、私を含むその他大勢にとってはまして困難な道のりになると言わざるを得ない。 だが、足元の泥沼を顧みることなく建てられたお城に未来はない。 「共生」が決して綺麗ごとではないことを直視せずにこのまま突っ走ったとしても、その先に待っているのは、たぶん、もっと極端な黙殺あるいは無痛化した排除だろう。自分の中の偏見を洗い出し、それを黙殺せず、日々の小さな棘や引っ掛かりにアンテナを立てて生きていけるだろうか?さらに、その先へと自分の行動を変えていけるだろうか? 歩きだせば、小さな一歩かもしれない。 だが、その一歩を沼に沈めることのないよう、私は私を見張らなければならない。 なぜなら、「排除」は「自己肯定感」や「安楽」「無痛化」「最適化」に直結しやすい、最もローコストの選択肢に見えてしまう世界に私は生きているから。
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文章で説明されている「きらめく拍手」を頭の中の映像として想像してみると、キラキラと輝くような音が聞こえてくる。異なる文化同士が出会うときに起こること、というのは腑に落ちる捉え方のように感じた。知っておいたほうが良い、機会があるなら知っておきたいことについての本。(図書館)
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コーダという言葉を初めて知った。 聴覚障害の父母から生まれ育った人をさすのだそうだ。 聴覚障害をもつ人の暮らしぶりも知ることができるが、想像できそうなことなのに、一つ一つが新鮮だった。ああ、あれするのも大変、これするのも大変なんだなと。私には想像力が足りないな。 著者は、これら...
コーダという言葉を初めて知った。 聴覚障害の父母から生まれ育った人をさすのだそうだ。 聴覚障害をもつ人の暮らしぶりも知ることができるが、想像できそうなことなのに、一つ一つが新鮮だった。ああ、あれするのも大変、これするのも大変なんだなと。私には想像力が足りないな。 著者は、これらはろう文化の中でのみの話ではなく、異なる文化と文化の間でおこりうることであると語る。私はこの本を読むことにより、新しい文化に触れることができたのだなと感じた。 彼女が撮ったドキュメンタリー映画『きらめく拍手の音』観てみたいな。
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聴覚障害を持つ人たちの世界の案内人を、CODA(聴覚障害の両親を持つ聴者の子供)である筆者が務める。 聞こえる世界と聞こえない手語の世界。 これまで、聞こえない世界がどんなものなのか考えることもなかったが、聞こえることが前提の世界で被る不利益がいかに多いかと考えさせられた。 そし...
聴覚障害を持つ人たちの世界の案内人を、CODA(聴覚障害の両親を持つ聴者の子供)である筆者が務める。 聞こえる世界と聞こえない手語の世界。 これまで、聞こえない世界がどんなものなのか考えることもなかったが、聞こえることが前提の世界で被る不利益がいかに多いかと考えさせられた。 そして、手語の世界がとても親密で豊かなコミュニケーションであることも教えられた。 文化と文化の接点で感じる葛藤や差別、誤解、無理解が、筆者の感性を通してビビッドに伝わる。 筆者のみずみずしい世界を共に旅をする。一人一人の世界、経験がいかに違うのか、その大切さ、新鮮さを思う。
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SFを読んだ後だったので、発話だけがコミュニケーションではないことが、さらに具体的になりました。手語だったり、身振り手振りだったり、表情だったりのすべてが、音のない世界に必要な要素でした。それは、目で見える範囲内で成立するため人と離れた距離ではコミュニケーションが難しいことも良く...
SFを読んだ後だったので、発話だけがコミュニケーションではないことが、さらに具体的になりました。手語だったり、身振り手振りだったり、表情だったりのすべてが、音のない世界に必要な要素でした。それは、目で見える範囲内で成立するため人と離れた距離ではコミュニケーションが難しいことも良く分かり、コロナ禍では制約が多いだろうとも推測されました。
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「デフ・ヴオイス」の丸山正樹さんの小説で 始めて「コーダ」という言葉(人)を 知りました。 それ以来 ずっと気になっている存在の一つが 「コーダ」です 本書はその「コーダ」である 韓国のイギル・ボラさん 映画監督であり ストーリーテラーである イギル・ボラさん 「私は、誰よ...
「デフ・ヴオイス」の丸山正樹さんの小説で 始めて「コーダ」という言葉(人)を 知りました。 それ以来 ずっと気になっている存在の一つが 「コーダ」です 本書はその「コーダ」である 韓国のイギル・ボラさん 映画監督であり ストーリーテラーである イギル・ボラさん 「私は、誰よりも早く大人になった」 幼年時代から ドキュメンタリー映画「きらめく拍手の音」 を撮ることになる現在に至るまでの 来し方を赤裸々に綴ったのが この一冊 「文化」と「文化」が 出遭う そのさまざまな葛藤を乗り越えた先に 見えてきた きらめきが描かれた そんな一冊です
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ろう者の両親から生まれた聴者の子をコーダというのだが、多くの人はコーダという言葉すら知らないだろう。 ろう者の世界がどんなものなのか、手話を使ったコミュニケーションとはどういうものなのか。 多くの人がそれらに対して興味を持たないし知らないからこそろう者は障碍者というレッテルを...
ろう者の両親から生まれた聴者の子をコーダというのだが、多くの人はコーダという言葉すら知らないだろう。 ろう者の世界がどんなものなのか、手話を使ったコミュニケーションとはどういうものなのか。 多くの人がそれらに対して興味を持たないし知らないからこそろう者は障碍者というレッテルを貼られ多くの偏見にさらされてきた。 このあたりは日本も韓国も変わらないんだなと思った。 ひとつ気になったのがこの本では「手話」という表現はせずに「手語」という表現をしている。 韓国では手語という言葉があるのかもしれないのだが、日本語への翻訳という点を考えると手語という言葉はちょっと違和感がある言葉だった。 とはいえ日本語、韓国語のように手話も言語であるという視点から考えれば手語という表現もなるほどとは思います。
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